オリエント急行
1883年10月4日ベルギーの青年実業家の構想が実現に至った。パリ-コンスタンチノープル間を結ぶオリエント急行の開通だ。パリからナント経てストラスブールでライン川を渡る。カールスルーエ、シュトゥットガルト、ミュンヘン、ジムバッハ、ウィーン、ブダペスト、ブカレスト、シュルジュ。ここで乗客は列車から降りてドナウ川を船で渡る。対岸のブルガリア領ルーセから、別列車に乗って黒海沿岸のヴァルナに向かう。ヴァルナからは船に乗り換えて18時間のクルーズでコンスタンティノープルに到着だ。80時間近くかかったらしい。
現在のドイツ領内は、当時バーデン公国、ヴュルテンブルク王国、バイエルン王国に分かれていたし、アルザス・ロレーヌ地方はドイツ帝国に割譲され、帝国直轄地になっていた。とりわけバーデン公国鉄道は軌道幅1600mmだったから、巨費を投じての標準軌への改装が無ければ直通列車は無理だった。その後ルーマニア領を通過しないベオグラード経由に改められて、コンスタンティノープルまで直通列車が走るのは1888年8月12日を待たねばならない。
とにもかくにもオリエント急行のステイタスは高く、時代の最先端の乗り物だった。欧州に鉄道が敷かれておよそ半世紀で登場した究極の交通手段だった。そしてそれは何よりもブラームスの生きた時代とかぶる。ブラームス自身はオリエント急行に乗っていないことは確実だが、オリエント急行を知っていたこともまた確実だと思われる。
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