独奏者の旅路
第4交響曲初演後の11月が事実上の初演ツアー月間だったことは既に述べた。マイニンゲン宮廷楽団やビューローを帯同してのグランドツアーだ。次はピアノ協奏曲第2番で同様の考察を試みる。初演からそのシーズン内での演奏の記録を掲載する。
- 1881年11月01日 ブダペスト
- 1881年11月22日 シュトゥットガルト
- 1881年11月27日 マイニンゲン
- 1881年12月06日 チューリヒ
- 1881年12月11日 バーゼル
- 1881年12月14日 ストラスブール
- 1881年12月16日 バーデンバーデン
- 1881年12月20日 ブレスラウ
- 1881年12月26日 ウィーン
- 1882年01月01日 ライプチヒ
- 1882年01月08日 ベルリン
- 1882年01月13日 キール
- 1882年01月14日 ハンブルク
- 1882年01月18日 ミュンスター
- 1882年01月21日 ユトレヒト
- 1882年01月25日 デンハーグ
- 1882年01月26日 ロッテルダム
- 1882年01月27日 アムステルダム
- 1882年01月30日 アルンハイム
- 1882年02月17日 フランクフルト
- 1882年02月22日 ドレスデン
当時はまだ楽譜が出版されていない。手書き譜での演奏だ。オケはマイニンゲン管弦楽団が有力だが、上記全部がマイニンゲンかどうか一部不明。おそらくビューロー指揮で独奏ブラームスか、その逆だった可能性が高い。
- ブダペストの初演はエルケル指揮のブラームス独奏だったが、その後マイニンゲンでトレーニングを行ったと見る。11月27日のマイニンゲンの前にシュトゥットガルトがあるのは強行軍もいいところだ。マイニンゲンから見ればシュトゥットガルトはスイスに行く途中になるから、シュトットガルトとマイニンゲンの順序が逆の方が効率がいい。シュトットガルトでの公演の後またマイニンゲンに戻り、12月6日にチューリヒ入りするのは大変だ。
- それに引き換え、チューリヒから12月16日のバーデンバーデンまでは鉄道で戻りながらの場所なので効率的と言える。
- 問題はその次のブレスラウ。ここは現代ポーランド領だ。直線距離で見てもおよそ600kmはある。中3日取られているけれど、下手をすると移動に2日かかる。
- その後のブレスラウ→ウィーン→ライプチヒ→キールまでは、おのおの丸1日の移動ですむのに対し、長めの時間が取られているから割と楽。
- キール→ハンブルクはおよそ60kmで、鉄道なら苦も無くと言いたいが、2日連日の公演となるとけして油断できまい。
- ハンブルク→ミュンスター→ユトレヒトは、それぞれ丸一日の移動で事足りる。3日、2日の間隔であれば、時間的にはあり得る。
- 最大の難関はデンハーグ→ロッテルダム→アムステルダム。それぞれの都市は30km程度の移動で到達出来るが、25日26日27日の3連続公演を独奏を一人でこなすのは大変だろう。
- アルンハイムはオランダ名アルンヘムで、ユトレヒトからすぐそばなので中2日もらって一段落かもしれない。
- 2月17日のフランクフルトの前に一度マイニンゲンに帰ったかもしれない。
- 最後のドレスデンはフランクフルトから遠いと言えば遠いが、それまでの強行軍に比べれば中4日なら数段マシと言える。
これらの移動は全て鉄道が用いられたと見るのが妥当だが、先日話題にした第4交響曲の初演ツアーに比べると心配も増える。行く先々で現地の会場備え付けのピアノを使ったとすれば、ゲネプロは必須だと思われる。鉄道を利用して移動したとしても赤文字の公演では前日ゲネプロは難しそうだ。
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