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    2012年3月28日から4月4日まで、次女の高校オケのドイツ公演を長男と追いかけた珍道中の記録。厳選写真で振り返る。

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    自分で買い求めて賞味したビールの写真。ドイツとオーストリアの製品だけを厳選して掲載する。

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2014年12月31日 (水)

年末の風物詩

全国高校オーケストラフェスタ。次女の高校オケにかかわるようになってから、毎年12月29日、オケフェスに通うようになった。次女の出演は一昨年が最後だったが、その後も段取りをつけて足を運んでいる。もとい、耳を運んでいる。

これを聴かないと正月が来ない。

参加校中数少ない第一回から欠かさずの出演で、今年も大トリだった。子供たちは10月のコンクールの次の目標として入念な準備を重ねてきた。演目はリスト作曲交響詩「レプレリュード」だ。コンクールでは、時間の都合で短縮バージョンだったが、今回は完全版。

大トリを任されることを謙虚に背負った、凛とした演奏だった。一言で申せば「あっとーてき」。昨年のオケフェス「カバレリ」アンド「謝肉祭」に1年生として臨んだ現38代の渾身の演奏。オケフェスで先輩とつながる連綿とした伝統だ。

2年前 こちら

3年前 こちら

演奏に先立つ部長挨拶が素晴らしい。今年を最後に取り壊しになる日本青年館への惜別が淡々と語られる。2年後の新ホール落成の折には、後輩たちが必ず戻ってきますという健気な宣言。自分たちの演奏をそれに捧げますという決意。いくぶん震え気味のトークが説得力を増幅させた。高まる期待。

ステージにしずしずと入場してくる所作の段階から、音楽が始まっているのは、毎度のこととして、続くチューニングが絶品だった。オーボエからA音を受け取って、メンバーに配るといった風情のコンサートミストレスのたたずまいなのだが、そこで鳴るA線解放弦の音色がこの世のものとは思えなかった。管楽器に続いて弦楽器奏者たちが、コンミスのAを受け取る。全弦楽器メンバーがみな思い思いに解放弦を鳴らすというのに、信じられないくらい小さな音。オケを支える弦楽器の響きの淵源を見る思いだ。きれいな音楽をこれから作るのだから、チューニングの音が美しくなければならないという当たり前のことに改めて気づかされた。

指揮者がお辞儀して客席に背を向けてから、タクトを上げるまで会場にしみいる静寂。冒頭ピチカートを放つための雰囲気を作り出す大切な時間。

ピチカート来た。走り出す音楽。「私たちの1年間はこうでした。みなさんはいかがでしたか」という音楽。コンクールでは封印されていたフレーズがピチピチとはねている。芳醇なホルンのハーモニーは毎度毎度の安定感と聞こえたのだが、体調不良の仲間を思いやる真心の結晶だった。やがて覆いかぶせてくる第一ヴァイオリンのオクターブの色艶。ああ幸せ。曲の場面の移ろいが折り目正しく整理された印象。ティンパニやハープがここぞで聴かせるとっておき感は、もはや伝統だ。

それからチェロの子たちの笑顔もまた秀逸。だらしない笑いではない。ほのかな笑みなのだが見る者をほっとさせる効果がある。何故チェロなのか。ヴィオラを外に出す関係で、内側に位置するチェロ奏者たちは、客席に表情をさらす。楽器を口にあてる管楽器奏者たちは、笑みを浮かべては演奏にならないし、ヴァイオリンやヴィオラはあごの下に楽器をはさむから、制約がある。だからチェロ奏者たちだけは特別だ。シリアスな音楽を我々に届けながら、慈しみの笑顔が両立している。

引き続いて選抜オケ。「未完成」と「青少年のための管弦楽入門」。急ごしらえのメンバーが毎度熱い演奏を聞かせてくれたのだが、今日は一つだけ言わせてもらう。「青少年のための管弦楽入門」の話。メンバーにはうちの子たちがたくさんいるのだが、演奏に添えられるナレーションの切れ味を特筆大書しておかねばならない。所作、立居振る舞いを含めてパーフェクト花丸。トークの出入りのメリハリが計算されつくしているから、演奏の邪魔どころか寄せ集めオケが抱える荒削りっぷりを、引き締めてなおお釣りの来る語りだった。彼女いつもコンサートで進行を務める切れ者だから、心配はしていなかったが、曲の進行との溶け込みっぷり、声の張り、トーン、抑揚、テンポどれをとってもパーフェクト。おまけにほのかな笑みまで添えられては、おじさんでなくてもノックアウトだ。これもうちのオケの懐の深さ。

お開き後、人でごったがえすホール。子供らの演奏をねぎらう知った顔がたくさん。どれほどのOG、先生、保護者が駆け付けたことだろう。演奏を聴いたOGの畳み掛けるような絶賛はもはや切ないほどだ。あの圧倒的演奏を披露したオケの関係者であることの幸せをかみしめた。見ず知らずの人同士がささやきあう絶賛に聞き耳をたてる幸せ。耳ダンボ、「もっと言って」状態。で、子供たちとすれ違う。胸の前にハートのマークを指でこしらえながら、できるだけ「おめでとう」と声をかける。照れくさそうに会釈して通り過ぎる普通の子供たちに戻っている。「だからあの演奏は奇跡」と言ったら叱られる。普通の子供たちが相応の準備をしているからこその境地。でもそれこそが奇跡かと禅問答が止まらない。

当の子供たちは、まだ演奏に満足していないとも聞く。どんなに褒められても自分を見失うことはないらしい。無理やりにでも課題を探すのが乙女たちの流儀。音楽に演奏に貪欲。

よいではないか。

乙女らの演奏に敏感に反応する自分の心を確認する時間。込めた思いをくみ取ってやれる幸せ。言葉の羅列はむなしいけれど、ただ自分の記憶のために記事を書いた。

これでまた正月が来る。

2014年12月30日 (火)

ドイツ領東アフリカ

植民地獲得競争に遅れて参入したドイツ。そのドイツの一つの目的がコーヒーの自給。元々アラビア産のコーヒーだったが、欧州列強はアラビア商人から買うよりも自ら作る方が儲かると知って、植民地でのプランテーションに乗り出す。オランダがジャワで、フランスが西インドでそれに成功したのを横目で見ていたドイツは、同じことの出来る植民地を求めた。

それがドイツ領東アフリカ。おおよそ現在のタンザニア。

コーヒー栽培の適地と見定めた東ウサンバラ。現在のタンザニアの首都ダルエスサラームの北およそ300kmのあたり。コーヒー輸送用の鉄道まで敷いたが、労働力不足に加えて、ブラジルの大豊作による価格の暴落でたちまち挫折する。

大陸封鎖のトラウマかそれでもコーヒー自給の夢をあきらめないのがドイツ人。プランテーションの経営者たちは東ウサンバラを見捨てて別の場所を探す。それがウサンバラから150kmほど北西のキリマンジャロ南麓だ。キリマンジャロブランドで名高い名産地に育って行く。

いまひとつがビクトリア湖西畔のブコバ。イエメンのアデンを介して欧州に供給される際に、「モカ」を名乗るという秀逸なマーケティングのせいで、シェアを伸ばした。

キリマンジャロの台頭も、アフリカ産モカのブレークも20世紀の出来事。ブラームスはあずかり知らぬ話。

2014年12月29日 (月)

コーヒーベルト

コーヒーの商業的栽培が可能なエリアのこと。南北の両回帰線にはさまれた赤道を取り囲む地域。コーヒーはなかなか神経質で、霜が致命的になるから、暖かい地域がいい。ところが暑過ぎるのも苦手だから、これらの地域内の標高の高いところで、そこそこの降水量のある地域となる。さらに十分な日照が必要なのだが、陽の当たりすぎもマイナスになるということで、陽をさえぎる木を補ってやる場合もある。

コーヒーの需要は欧米先進国に発生するが、自国生産は無理。よって17世紀以降欧州列強は植民地で、コーヒーの生産に邁進することになる。奴隷労働に支えられたコーヒーの裏面でもある。

まだまだ主要エネルギーとして石油が台頭する以前、列強の狙いはまさにコーヒーにあった。遅ればせで植民地獲得に乗り出したドイツが、やっと確保した東アフリカは、まさにこのコーヒーベルトの中にあった。

2014年12月28日 (日)

出しつくし

コーヒーの出がらしのことではない。

先日「鉄道特集」が終わった。記事の数で268本。会期は10ヶ月におよんだ。アラビアンナイト計画を構成する1企画の予定だったが、次女のオーケストラネタが膨張したおかげで、公開予定を遅らせたという事情は「ビール特集」と同じだ。

会期半年を越えるような大型企画はこれでひとまず出し尽くした。会期6ヶ月以内の中型企画がまだいくつか残っているので、タイミングを見計らいつつ発信する。現在展開中のコーヒーもその一つである。

大型企画は楽な反面、企画からはずれるの系統の記事の処遇に難儀することもある。興味のない系統の記事が延々と続くことで、一部読者離れの心配もある。リスクを想定すればキリがないから毎度毎度開き直っている。これも2033年まで継続するためだ。

さて今日この記事を公開することが出来たおかげで、2005年5月30日のブログ開設以来、3500日連続の記事更新となった。

コーヒーで乾杯。

2014年12月27日 (土)

メリタ

ドイツのコーヒー用品メーカー。1908年ドレスデンの主婦メリタ・ベンツが世界で初めてコーヒーのペーパードリップを考案した。いわゆるアイデア起業だったが、手軽さが受けてブレークした。息子に引き継がれた会社は本社をミンデンに移し現代に至る。

自動車のベンツとは関係が無い。第一スペルが違う。自動車は「Benz」だが、こちらは「Bentz」だ。ブラームスは避暑地で朝食のコーヒーを自分で淹れる際はネルドリップだったのだが、ペーパードリップはあっという間に普及した。

2014年12月26日 (金)

コーヒーブーム

コーヒーの普及を論じた複数の書物に19世紀後半に欧州でコーヒーブームがあったと書かれている。具体的には1870年とされている。普仏戦争の年だ。

何やら象徴的。普仏戦争に勝利したプロイセンはドイツ帝国を設立する。ドイツはこのときから欧州最大のコーヒー消費国になった。もちろん統一前の小邦の時代から人々はコーヒーに親しんでいたのであって、統一されたからと言って消費量が激増したとは思えない。

そのころ産業革命の進行で、中産階級が増えたこともあって、コーヒーが高値の華ではなくなったのが大きい。さらにその後第一次大戦が始まるまでのおよそ50年間、欧州では大きな戦争が起きなかった。同盟関係をがんじがらめにして迂闊に手出しが出来ないビスマルク体制だ。とにもかくにも人々は平和とコーヒーを享受したのだ。

2014年12月25日 (木)

最強のピアニシモ

去る12月20日、次女の後輩たちのオーケストラ部は、恒例の病院慰問に赴いた。総合病院のエントランスでおよそ90分のクリスマスコンサートだ。13時少し過ぎから、楽器や器材の搬入が始まる。大型楽器はもちろん、ひな壇まで持ち込んでのセッティングなのだが、整然とした作業っぷりで30分もしないうちにリハーサルに入る。演奏会後の撤収と合わせて、キリリキビキビとした動きは、毎度毎度のことながら見事で鑑賞の対象でさえある。続くコンサートの出来映えを量るバロメーターだ。

会場は広くないので、オーケストラを2つに割る。前半は1年生だけのオケだ。1年生オケデビュウである。「星に願い」「ソリすべり」「ふるさと」など、デビュー演奏の緊張感がひしひしと伝わってくる。もはやお家芸のマスカーニ「カバレリアルスティカーナ」より「間奏曲」を聴いて驚いた。入学からわずか8ヶ月の1年生だというのに、DNAを感じさせてくれる演奏だった。再来年のドイツはこの子らが中心になる。この日のカバレリは、その原点となるべき演奏だ。チェロバスの支えががっしりと行き届いた原石。

ハーフタイム。

演奏を終えた1年生が、聴衆ひとりひとりにクリスマスカードを手渡す。カードはオリジナルの手作り。同じものは2つない。急ごしらえの客席に整然と割って入り、言葉をかけながら渡す。もちろん2階席にも来る。デッキ沿いに並んだ車椅子のお年寄りに言葉をかける。膝を床につけて、お年寄りの顔を見上げながら、笑顔で手渡すのを目の前で見た。この気持ちが演奏の基礎になっていると確信した。入部8ヶ月の1年生の自然な仕草に演奏の本質を見せられた思いだ。

実はそのころステージには、2年生たちが音もなく入場していた。クリスマスカードを1年生が配る間、後半の演奏を担う2年生オケが準備するという、見事な段取りである。

その後半スタートはチャイコフスキーの「白鳥の湖」から「情景」だ。冒頭弦楽器のトレモロとハープの伴奏に乗って、超有名なオーボエのソロ。オーボエ独奏の生徒が、実は高校からオーボエを始めたとは、誰も気づくまい。伴奏に回る弦のトレモロが「うちのオーボエ聴いて」というたたずまいだ。ああそれから、毎度毎度の凛としたハープの安心感が空気を引き締める。1年生オケとの違いを見せ付けるお姉さまたちの貫禄が、やがて大きなうねりとなる。

前置きが長くなった。

それは、ラストナンバーのクリスマスソングメドレーの中で起きた。明るめのクリスマスソングが披露された後、潮が引くように音量が静まった中、第一ヴァイオリンが、耳になじみのメロディーを奏で始めた。「きよしこの夜」だ。弦楽器とハープ、そしてクラリネットとファゴットが彩りを添えるシンプルな演奏なのだが、ただならぬ弱音だ。全聴衆が「何が起きたのか」といわんばかりにステージに吸い寄せられた。「救いの御子は」ではさらに音量を落とす。本日発せられた最も小さな音だというのに、この瞬間感動は最大となった。この1年の出来事あれこれ全部を一瞬で思い起こさせてくれるようなピアニシモ。音量は最弱なのに、こめられた思いは最強。「大切なことを小声で」を絵に描いたよう。

この感動は言葉で現すのが難しい。「大切なものを両てのひらでそっとすくい取って、上目遣いで見つめながら、これまた大切なひとにそっと手渡す感じ」とでも申し上げるのが精一杯。気持ちの深さは音量じゃないと教えられた。何よりも素晴らしいのは、この演奏効果、子どもたちは皆腹に入っている。それがわかっていなければ絶対に出せない音色だ。コンクールでも何でもない、このささやかな慰問演奏会のために、先生と一緒になってどれほどの貴重な準備が行われたか垣間見るようだ。

なんて幸せな子どもたち。そして自分の耳が「最強のピアニシモ」に反応したことを心から嬉しく思う。

コーヒー特集を勇敢に中断してメリークリスマス。

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2014年12月24日 (水)

コーヒー見つけた

ブラームスの声楽作品のテキストに「コーヒー」が出てくる。おそらく一箇所だ。「49のドイツ民謡集」WoO33の27番。以前に「雪山讃歌」と似ていると指摘した作品。

一人の乙女が3人の男から意中の人を選ぶ筋書き。一人目は左官、二人目は大工、結局三人目の軽騎兵を選ぶ。軽騎兵は当時としては、あこがれの職業。最後に乙女が軽騎兵を選ぶのは、ベタな展開だが致し方あるまい。その男が毎日早起きしてコーヒーを飲むと歌われる。

バッハの名高い「コーヒーカンタータ」ほどの重要な位置付けではなくて単なる小道具だが、正規の歌曲には出現しないので貴重。

2014年12月23日 (火)

コーヒーの音型

記事「コーヒーカンタータ」でバッハの「コーヒーカンタータ」の中の「CAFFEE」音型の所在を探索中であると書いた。

それを探していてワクワクするお宝情報に出会った。

ブラームスは14歳の時、不健康なアルバイトの気分転換に、父の知人宅に招かれたことがある。ハンブルク郊外のヴィンセンという街だ。同年代の娘にピアノを教える他、隣町の男声合唱団に作品を書いたという。この中に「コーヒーの音型(CAFFEE)によるファンタジー」という作品があったらしいのだ。マッコークル663ページの失われた作品No23がそれらしい。ピアノを教わった女の子リースヒェンが持っていたが後日返却を求められ、恐らくブラームス自身が破棄したものと思われる。

バッハのコーヒーカンタータの刊行は1881年の旧全集を待たねばならないから、この段階で14歳のブラームスは知る由も無い。

何よりも14歳のブラームスがコーヒーを知っていた証拠となる。

2014年12月22日 (月)

遠交近攻

中国の兵法「三十六計」の一つ。外交のコツを表す。遠くの国と同盟を結び近くの国を攻めることだ。

1669年まさに絶頂期にあったオスマン帝国メフメト4世は、これもまた絶対主義の頂点にあったフランスとの同盟を画策する。当時のフランス王はルイ14世だ。メフメト4世の意図は、シンプル。国境を接するハプスブルク家オーストリアを攻めたいのだ。隣のオーストリアを攻めるために、その向こうにいるフランスとあわよくば手を組もうと考えた。まさに「遠交近攻」である。オスマンとフランスは意外な組み合わせには違いないが、「反オーストリア」という一点で一致できる可能性が無くも無い。

オスマン帝国の使者がもたらしたトルコ風俗の中に、何とコーヒーがあったのだ。長い滞在の間にパリ社交界はコーヒーの味を覚えたのだ。使節団のメンバーの中には帰国しないで残り、パリ初のカフェをオープンした者もいた。17世紀末にはすっかりパリに定着することになった。

さてオーストリアも黙って見ていたわけではない。フランスの向こう側にあるスペインとの友好関係を模索していた。

2014年12月21日 (日)

ウィーン初のカフェ

オスマン帝国による第二次ウィーン包囲網は頓挫した。ポーランドからの援軍が間に合ったことでウィーンはすんでのところで陥落を免れた。このときオスマン帝国の包囲網を4度にわたり突破して貴重な情報をもたらした男がいた。フランツ・ゲオルク・コルシツキー。彼は包囲軍の重要な情報を得て城内に戻る途中で、包囲軍の兵士たちがたき火を囲んでコーヒーを飲んでいる場面に出くわした。会話の様子から兵士の士気が下がっていることを悟り、城内の司令官に反撃を進言した。

1683年9月12日、合流の援軍と呼応して城内から総攻撃をかけた。これにより包囲軍は敗走した。ウイーンを囲む陣地に残された物資をウィーン市民が分かち合ったのだが、その中にあったコーヒー200kgに気付く者はいなかった。

殊勲者コルシツキーは、そのコーヒーを引き取った。報奨金で買った土地にカフェを開いた。ブルーボトルコーヒーハウスという。ウィーン初のカフェにはいくつか説があって論争となっているが、彼はその候補者の一人である。

ウィーンへのコーヒー伝播が話題になると必ず取り沙汰されるこのエピソードは、どうも眉唾らしい。主人公コルシツキーの実在こそ確認されているが、エピソードはほぼ後世の脚色のようだ。

2014年12月20日 (土)

オスマン帝国

第一次大戦後1922年に消滅したオスマン家を皇帝に仰ぐ国。成立は13世紀に遡るが、15世紀以降たいそう栄えた。

コーヒー飲用の習慣が定着していたイエメンにオスマン帝国が進出したのは1540年頃だ。そのころ既に宗教的意味合いは薄れ、街にはコーヒーバウスさえ出現していた。人々への浸透が進むと、コーヒー飲用がイスラムの教義上認められるのかという議論が持ち上がる。コーヒーは規制を免れた。酔わないという一点がポイントだったと言われている。

その後コーヒーは瞬く間に帝国中に広まった。首都コンスタンチノープルには1555年に伝えられ、1566年にはコーヒーを提供する店が600件もあったという。その後幾多の禁令や規制が発布されたが、コーヒーの勢いはとどまることが無かった。

欧州へコーヒーがもたらされる前夜、オスマン帝国にコーヒーが充満していたということだ。

2014年12月19日 (金)

反アルコール飲料

コーヒーはまず始めにイスラム教徒の間に広まった。スーフィー派の僧侶たちが飲用した。周知の通り、イスラム教は飲酒を禁じている。イスラム教の中で、コーヒーの受け入れ論争が起きたとき、決め手になったのは、コーヒーがアルコールを含まない点だったといわれている。イスラムの戒律に抵触しないことが大きい。

欧州に入ってからも、非アルコールというコーヒーの特性は、珍重され続けた。勤務中とりわけ兵役にあっても飲用の制限が無いことがコーヒーの需要を後押ししたとされている。

象徴的なエピソードがある。世界最大のコーヒー生産国ブラジルは慢性的な供給過剰に悩んでいた。第一次大戦終了後、大市場と目されていたドイツが多額の賠償金に苦しめられ、思うようにコーヒーの消費が伸びなかった。市場に放出されて値崩れさせないように、ブラジル政府はコーヒーを買い上げて備蓄し続けた。もはや買い支えも限界かという瞬間に、奇跡が起きた。1919年アメリカに禁酒法が成立した。アルコール飲料を禁じられた庶民は、なだれを打ってコーヒーに殺到した。過剰在庫を解消する大ブレーク。

これだけを見てもコーヒーがアルコール飲料と拮抗する位置づけだとわかる。

2014年12月18日 (木)

大王ブレンド

大王とはプロイセンのフリードリヒ大王のこと。彼はコーヒー禁令を出したのだが、自らはコーヒーを楽しんでいた。そのレシピーはちょっとかわっている。コーヒーにシャンパンを入れて一緒に沸かし、コショウを加えるという代物。

それでいて庶民にはこれを固く禁じた。「コーヒーには毒がある」と医者たちから庶民に宣伝させたのだが、効果はゼロ。巷ではこんなジョークも現れた。

「普段じゃがいもを食ってるんで、コーヒーの毒なんか今更怖くない」

おお。秀逸だ。芽に毒があるジャガイモをプロイセンに普及させたのは他でもないフリードリヒ大王だ。じゃがいもを推奨しておいて、コーヒーには毒があるなんぞ「アンタに言われたくない」状態だということだ。

2014年12月17日 (水)

コーヒー禁令

18世紀中ごろ、当時の神聖ローマ帝国内の領邦において、コーヒー禁令が施行された。

  1. ハノーファー選帝侯国
  2. リッペ伯領
  3. バーダーボルン司教区
  4. ウエストファレン公国
  5. ナッサウ侯国
  6. ヴァルテック侯国
  7. ヘッセンカッセル方伯国
  8. ゴーダ公国
  9. ブラウンシュヴァイク公国
  10. ヒルデスハイム司教区
  11. ザクセン選帝侯国
  12. プロイセン王国

見ての通り北部諸国だ。北海経由オランダ依存でコーヒーの供給を受けている国々と見ていい。禁止の理由はまずもって「ぜいたく品」とみなされたことだ。社会秩序の破壊と恐れたとの説もある。

プロイセンのやり方を調べてみた。まずは1777年国民に対して「コーヒー飲まずにビールを飲め」という布告が出された。コーヒーの大量消費は資金の国外流出そのものだからだ。「ワイン」と言わずに「ビール」というところが巧妙だ。プロイセンにとっては「ワイン」だって外国産品になる。やがて1781年コーヒーの輸入と焙煎を国家独占とし許可制とした。コーヒーへの高い関税もかけられた。

そもそも関税をかけて税収をあてにしながら、焙煎許可制で消費を抑制するのだから辻褄が合うはずがない。1786年には焙煎の独占が撤回された。

2014年12月16日 (火)

石炭代替

蒸気機関車の燃料は石炭だ。一口に石炭と申しても種類はさまざまで、機関車用としては英国産がもてはやされていたらしい。そりゃあ語感からして「無煙炭」がいいに決まっている。泥炭や褐炭は序列としては落ちるそうだ。

さて世界恐慌時代のブラジルのお話。元来ブラジル政府は、コーヒーの価格を維持するために買い支えを日常的に行ってきたが、金融恐慌のあおりで資金が調達出来ず、空前の大豊作とともにコーヒー価格の大暴落が起きた。

このときブラジルでは石炭の代わりにコーヒーを燃やす蒸気機関車が走った。いやはやこの際カロリーなんぞ問題にするのは野暮だ。どういう香りがしたのか興味深い。旅客全員にコーヒーを無償でふるまったという話は聞こえてこない。

2014年12月15日 (月)

ジャーマンロースト

コーヒーの焙煎度には一般に8段階あって浅い順に列挙する。

  1. ライト
  2. シナモン
  3. ミディアム
  4. ハイ
  5. シティ
  6. フルシティ
  7. フレンチ
  8. イタリアン

色合いは茶褐色から黒褐色に向かう。浅いものほど酸味があり、深まるにつれて苦味に変わる。甘味は深いほど高いと言われている。意外なことにカフェインの含有量は浅いほど高くなる。当然のことながら同じ豆のでも焙煎度によって味わいが変わるから、愛好家にとってのこだわり事項だ。

問題はコーヒー愛好家で知られたブラームスはどこを好んだかということ。このことに言及した書物にはめぐり合えていない。

上記5の別名がジャーマンローストという。欧州の中では比較的軟水が多いドイツにピッタリの焙煎だといわれているが、ブラームスが、これを好んだと断言しては短絡が過ぎよう。

コーヒーは非常に複雑。

  • 産出国
  • 農園
  • 標高
  • 豆の新しさ
  • 粒の大きさ
  • 異物
  • 焙煎方法
  • 焙煎度
  • 挽き方
  • 湯温
  • 抽出方法
  • 抽出時間
  • 水質
  • ブレンド

これらが複雑に絡みあう。ブラームスの好みにまで辿り着くのは容易ではない。

2014年12月14日 (日)

Kassa

「Kasse」(会計係)のオーストリア方言だ。カフェではレジ係のこと。原則として客は男性である上に、ウエイトレスは居らず、給仕係も男性だったカフェにおける紅一点がレジ係だったという。だから「Sitzkasserin」ともいう。といっても客は自分の席で給仕に代金を支払うから、現代の日本のように伝票をもってレジカウンタに行くことは無い。

レジ係は店全体の見渡せる位置に居てひたすら気配りをする。客にコーヒーを運ぶ給仕のアシストもする。日本風に申せば看板娘と言いたいところだが、経営者の妻がこの役目をになうことが多く、健康志向だったという複数の証言がある。特定の常連とのロマンスもあまりなかったらしい。

とはいえ常連客たるもの、頃合いを見計らってはカウンターに立ち寄って、気の利いたジョークの一つも投げかけるのがエチケットらしい。

2014年12月13日 (土)

カフェイン

コーヒーの代表的成分。熱帯地方原産のコーヒーには、虫から身を守るために天然の殺虫成分カフェインを獲得したと考えられている。1819年スイスの化学者、グスタフ・フォン・ルンゲによって発見分離された。彼はネコの瞳孔を開く作用があるベラドンナの発見者でもあり、文豪ゲーテにベラドンナの効果を見せたところゲーテがいたく感心したらしい。

このときゲーテがルンゲにコーヒーの主成分の分析をすすめたという。すすめに従ったルンゲがカフェインを発見したと言うわけだ。

2014年12月12日 (金)

マルクスの見解

プロイセンはトーリア出身のカール・マルクス(1818-1883)は、「資本論」で名高い思想家だが、1846年エンゲルスとの共著で世に出た「ドイツイデオロギー」の中でコーヒーについての言及がある。

「ナポレオンの大陸封鎖で生じた砂糖とコーヒーの欠乏は、ドイツ人を対ナポレオン蜂起に駆り立て、1813年の解放戦争の土台となったことで、19世紀における砂糖とコーヒーの世界史的意義を示すに至った。」

「ドイツイデオロギー」はまじめな本。ジョークの痕跡は見当たらないから、この表現はちっとも大げさではない。砂糖の欠乏は甜菜糖という優秀な代用品を生んだが、コーヒーの代用品はついに見つけることが出来なかった。1813年のナポレオン解放戦争は、ドイツ人のコーヒー欲しさのエネルギーの発露だと説明されている。

コーヒーに砂糖を入れる飲み方はトルコ起原。これがヴェネチア経由でドイツに入ったといわれている。スイスの菓子商人ヨスティがベルリンに、ケーキとコーヒーの店をプロイセン軍人向けに開店して成功したのが、始まりと目されている。コンディトライの始まりだ。

コーヒーと砂糖は切っても切れない関係になっていた。

2014年12月11日 (木)

Muckefuck

ドイツ語で「代用コーヒー」のこと。味の薄い代用コーヒーを指すので、どちらかというと好ましからざるニュアンスを持つ。

ナポレオンの大陸封鎖は、英国に対する制裁だったのだが、とばっちりは欧州大陸にも及んだ。プロイセンへの影響は深刻だった。何と言ってもコーヒーだ。当時市民にとってなくてはならない存在になっていたコーヒーの値段が跳ね上がった。ナポレオンはその重要度を十分認識していたと見えて、コーヒーの英国での価格を大陸封鎖令の遵守度を測る目安にしていたという。つまり英国のコーヒーの価格が上がると、英国から大陸にコーヒーが輸出されていることの裏返しだからだ。イタリアなど地中海経由で入手出来るバイエルンは、まだしもハンブルク経由のプロイセンは絶望だ。

コーヒーと同時に消費される砂糖は甜菜という優秀な代用品が発見されたのだが、コーヒーは試行錯誤を重ねながらも決定打が出なかった。以下その試行錯誤の一例を列挙する。

  1. 麦芽
  2. 大麦
  3. ライ麦
  4. サトウキビ
  5. いちじく
  6. ダイズ
  7. どんぐり
  8. ダリアの球根
  9. タンポポの根
  10. ゴボウ
  11. アーモンド
  12. えんどう豆
  13. ヒヨコマメ
  14. レンズマメ
  15. アスパラガス
  16. スモモ
  17. ホップ

記事「チコリ」で紹介したチコリの代用コーヒーは、これらの試みの頂点に位置すると思っていいい。こうしたコーヒーへの情熱が、1813年の諸国民戦争につながったと位置づける学者もいる。

2014年12月10日 (水)

チコリ

フリードリヒ大王の反コーヒー政策によって、コーヒーが入手困難になって行く中で、何とか代替品を探す努力もされてはいた。そのうちのもっとも優秀な成果が「チコリ」である。ドイツ語では「Chicoree」と綴る。欧州原産の多年生植物。葉がサラダとして食されるが、根を乾燥して粉末にし煎じて飲む。これがコーヒーに似た苦味を持つために代用コーヒーとして発展した。

1770年にハイネとフェルスターという2人の軍人により事業化されブラウンシュヴァイクとベルリンの工場で工業的な生産が始まる。カフェインを含まず安価ということもあって広く一般に受け入れられた。「プロイセンコーヒー」という商標名の巧妙さもあって、消費量という点では本物のコーヒーに肩を並べるまでになった。1780年頃には22箇所の工場が稼動していたという。

さてナポレオンの対英経済政策「大陸封鎖」のとばっちりでコーヒーが高騰した。コーヒーを北海経由の輸入に頼っていたから、ロンドンで50kg40シリングのコーヒーがハンブルクでは10倍に跳ね上がったという。同じ現象がフランスでも起こり、ナポレオンはコーヒーの需要をごまかすためにドイツからチコリを輸入した。

ドイツにとってはホクホクだ。コーヒーを消費すればお金が国外に出てゆくのに、チコリならばそれを止めてなおかつ外貨が入ってくるからだ。あくまでも代用だったチコリは大陸封鎖が解けた後も愛好され続けた。およそ100年たった1862年にはプロイセンだけで80万トン、金額で1200万マルクに達した。この勢いは第二次世界大戦まで続き、ドイツの主要産品となった。

コーヒー好きブラームスは、注文したコーヒーに代用コーヒーのチコリが混ぜられているのを感じ取り、店主にクレームをつけた愉快なエピソードも一部でささやかれている。

2014年12月 9日 (火)

ピッコロ

「小さなフルート」のこと。フルートよりオクターブ高い音が出る。ブラームス作品での登場は以下の通り。

  1. 管弦楽のためのセレナーデ第2番op16
  2. ドイツレクイエムop45
  3. カンタータ「リナルド」op50
  4. ハイドンの主題による変奏曲op56
  5. 大学祝典序曲op80
  6. 悲劇的序曲op81
  7. ピアノ協奏曲第2番op83
  8. 運命の女神の歌op89
  9. 交響曲第4番op98

意外と多い。その他ト短調ピアノ四重奏曲のシェーンベルク編にもピッコロがある。

ウイーンのカフェに一歩足を踏み入れると、「ピッコロ」は「小さなフルート」の意味ではなくなる。小さなカップをピッコロと言う場合もあるが、何と言っても見習い給仕のことを指すのが一般的だ。普通の給仕はケルナー「Kellner」といい、給仕長は「Ober Kellner」となる。気をつけねばいけないのが呼びかけで、その給仕がどれほど若造であっても「ピッコロ」と呼びかけてはいけないそうだ。客が呼びかける時はどんな若造にでも「Herr Ober」(給仕長の短縮形)と呼びかけるのがしきたりらしい。

2014年12月 8日 (月)

シャニガルテン

ドイツ語「Schanigarten」と綴る。「Schani」はフランス語「Jean」のオーストリア訛りだから「ジャンの庭」くらいの意味になる。カフェの店頭に設けられた「屋外スペース」の意味である。

「シャニ」には「召使」の意味が派生している。カフェで一番下っ端のボーイのことを指す。カフェの屋外スペースへのテーブルやイスのセッティングは彼の仕事であり、またそこの客に給仕するのも彼だから、そのスペースのことをシャニガルテンと呼ぶようになった。

「ジャン」は「ドイツ語に直せば「ジョン」「ハンス」「ヨハン」「ヨハネ」くらいの意味だから無理矢理「ヨハネスの庭」とこじつけることも可能だ。

2014年12月 7日 (日)

男爵

「お客様は神様」の発想が客商売にはついてまわる。日本の一部居酒屋でも、男性客を「社長」と呼ぶ習慣がある。同じような話がカフェにもある。

給仕が客を呼ぶ場合、「Herr Baron」と呼びかけるのだ。「Baron」は「男爵」と訳される。明治以降導入された日本の華族制度における「男爵」がそのままあてはまるわけではないが、「ジャガイモ」の意味ではないこともまた明らかだ。明らかに駆け出しの若造でも「Herr Doctor」と呼ばれたり、自由業の先生が「Herr Professor」と声ガケされる。

「男爵」は爵位の中では一番下だ。本来「自由民」だったらしく、国によっては貴族に含めないこともあるという。だから尚更カフェの客に対する万能呼びかけ語に相応しいような気がする。

客が常連で名前がわかっている場合には名前の前に「von」が冠せられることもあった。ブラームスで言えば「von Brahms」と呼びかけられるということだ。英語で言う「Sir」に近いニュアンスだ。「von」は貴族の称号だから、相手が誰であろうとにわか貴族の出来上がりという寸法だ。

2014年12月 6日 (土)

ウィーンの水道

ウィーンのカフェではコーヒーを注文すると、1杯の水が付いてくる。日本の喫茶店で見慣れた光景だから、日本人にとっては当たり前かもしれないが、欧州ではこれがなかなか貴重らしい。旅行に出かけてもミネラルウォーターしか飲むなと事前に警告されることが多い。じつはウィーンは例外だ。

1864年ウィーン市の南西70kmにある「Schneeberg」から新たに水を引くことが決まった。「Schneeberg」とは「雪山」で、いかにも水がおいしそうだ。1865年には、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が、この山の南斜面にある王室御領地の水源を水道用にするためにウィーン市に寄贈した。水道は1870年に着工し1873年には無事竣工した。ウィーン進出から11年目のブラームスはこのニュースを聞いたはずだ。竣工記念に作られたシュヴァルツェンベルク広場の噴水も見たに決まっている。

さらなる人口増に対応するために第二水道も建設された。シュタイヤーマルク州ホッホシュヴァープ(Hochschwab)から延々170kmの水道だ。10年の歳月をかけて完成したのは1910年だから、もうブラームスは亡くなっていた。

こうして提供される清澄な水がウィーンのコーヒーを支えていた。

2014年12月 5日 (金)

ウィーンのコーヒー

カフェで提供されるコーヒーには、相当な数のバラエティがある。現代ウィーンのカフェのメニューのうちブラームスの時代にもあったと思われるものを列挙する。

  1. Brauner 少々のミルク。Grosser(大)とKleiner(小)があった。
  2. Capuccino モカにチョコレート。
  3. Einspaner 1頭だての馬車の意味。ホットモカに泡立てた生クリーム。
  4. Fiaker 2頭だての馬車。ホットモカをお湯で薄め、ブランデーを加えた上に泡立てた生クリーム。
  5. Kaffe Maria Theresia オレンジリキュール。
  6. Kaffee verkehrt  コーヒーよりミルクが多い。「逆さコーヒー」
  7. Kaisaer Melange 卵黄を少量の水で延ばして加える。
  8. Schwarzer いわゆるブラック。これもGrosser(大)とKleiner(小)があった。
  9. Turkei トルコ風。挽いたコーヒー豆に砂糖と水を加えて銅または真鍮のポットで煮立てる。濾過したものを「Passiert」といい、そのままを「Natur」という。
  10. Verlangerter Mocha 水で薄めたモカ。
  11. Wiener Melange コーヒーと同量のミルク。

9番を除くとホットとアイスがオプション出来たらしい。

ブラームスのコーヒーの好みを証言する資料にはブラックを好んだという資料が多い。

2014年12月 4日 (木)

Dunkel

ブラームス歌曲の絶唱「永遠の愛について」op43-1は、冒頭いきなり「Dunkel」「Wie dunkel」と畳み掛けて始まる。恋人たちの歩む道の暗さの形容であると同時に、2人の置かれた境遇の暗示でもあるという絶妙な言葉。「暗い」という意味である。

コーヒーはミルクとの配合割合によって色合いが変わる。それを7段階の単語で表現することがある。コーヒーの多い順に列挙する。

  1. Schwarz 「ブラック」
  2. Dunkel 「暗い」
  3. Brauner 「褐色の」
  4. Melange 「ミルク」と「コーヒー」が同量。
  5. Gold 「黄金色の」
  6. Licht 「淡い」
  7. Weiss 「白い」
  8. Hell 「明るい」

これらに加えてさらに「Mehr dunkel」や「Mehr hell」を付与されて微調整が施される。「永遠の愛について」に現れた「Dunkel」はブラックに近い位置。

2014年12月 3日 (水)

おのぼりさん

田舎から都会に出てきて物珍しげにしている人を指す言い方。幾分の上から目線とユーモアが微妙に錯綜する。

ウィーンのカフェで「コーヒー」などと注文すると、給仕たちは内心「コイツおのぼりさんだな」と察したという。膨大なヴァリエーションを伴うウィーンのコーヒーだから、それ相応の細かな注文をせねばならないのは記事「カフェで注文」で述べたとおりだ。だから「コーヒー」などと注文してしまうとあっさりとお里が知れてしまうということだ。とはいえそこは客商売だから、その場で給仕があからさまな態度を示すことはあり得ぬが、何食わぬ顔で厨房に戻った彼は「ラウ1杯」と注文を流す。「ラウ」は「rauh」と綴り、英語の「rough」に相当する。「適当にしといて」くらいの意味だ。どうせ相手は「コーヒーのわからぬ一見さん」という意識が見え隠れする。

ミルクや生クリームの入るメニューは避けたほうがいい。それらの量や添え方を指定せねばならないからだ。「モカ」や「シュヴァルツ」にしておくのが無難である。

2014年12月 2日 (火)

カフェで注文

ウィーンのカフェには、膨大な種類のコーヒーが用意されている。種類と言っても豆の品種や産地のことではないことは既に言及した。淹れ方、添え物による膨大なバリエーションがあるということだ。店側がこれらに周知していることは当然としても、常連ともなれば客の側でもこだわりを持っているものだ。注文のしかたは下記の如くである。

  • 膜の張ったメランジェしかしグラスで
  • 濾過したトルココーヒーに極上泡立て生クリームを添えて
  • 逆さカプチーノとても熱くいくぶん淡いものを

何かに似ている。そうだ。楽曲冒頭に記される発想記号だ。とりわけブラームスの多彩で微妙な指定そっくりだ。ウィーンゆかりの作曲家でもとりわけブラームスは並外れて繊細だ。まさかカフェの影響ではなかろうが。

2014年12月 1日 (月)

カフェテリア方式

様々な料理が調理済摂取可能な状態で並べられ、利用者が好きな料理を取り、最後に取った分だけ代金を払うシステムのことだ。学生食堂や社員食堂ではおなじみである。利用者にとっては選択の幅が広がるし、店にはコスト節約のメリットがあるという。食べ物の好き嫌いを矯正する効果は低いと思われる。1人1回いくらで食べ放題のバイキングとは違って、元を取った取れないという議論はおきにくい。

私のブログ「ブラームスの辞書」が目指すのもこのシステムだ。毎日読んでくれるコアな読者を別とすれば、大抵は興味のある記述が拾い読みされるのだと思う。ブログの訪問者はサイドバナーに並んだカテゴリーから好みの記事にたどり着けるという訳だ。あるいはブログ内検索でキーワードから探し当てることも出来る。メニュウは毎日1つずつ追加される。

カテゴリーの数がやたらに多いのはそのせいだ。メニューは多彩な方がいい。気をつけねばならぬのは、私自身の興味が偏在することによってカテゴリー毎の記事の厚みに差が出ることだ。それを個性だと言って開き直るのも気が引けている。極端に薄いカテゴリーがないよう気を配りたい。

将来的には、記事がもっと堆積して一つのカテゴリーに数百の記事が存在するようになったら、きっと困ると思う。課題である。

もちろん最後にレジに並ぶ必要が無いのが最大のセールスポイントだ。

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