ブラームス神社

  • 道中安全祈願

おみくじ

  • テンプレート改訂しました

独逸日記

  • ドイツ鉄道博物館のおみやげ
    2012年3月28日から4月4日まで、次女の高校オケのドイツ公演を長男と追いかけた珍道中の記録。厳選写真で振り返る。

ビアライゼ

  • Schlenkerla
    自分で買い求めて賞味したビールの写真。ドイツとオーストリアの製品だけを厳選して掲載する。

カテゴリー

« 2014年12月 | トップページ | 2015年2月 »

2015年1月31日 (土)

ブラジル

大陸封鎖を乱す国をナポレオンは攻撃する。結果として破滅をもたらすロシア遠征の前に、ポルトガルが槍玉に上がった。英国に港を使わせるなという言いつけを守らぬポルトガルを1807年11月に占領する。正確にはリスボンの占領。ポルトガル王ジョアン6世は英国の援助でブラジルに亡命し、ポルトガルの首都をリオデジャネイロに置く。ナポレオン失脚後1821年に、ポルトガルに帰還する際にブラジルに残した息子ドン・ペドロが1822年ブラジルの独立を宣言した。

大陸封鎖によって成立したブラジルは国家を支える産業として砂糖とコーヒーを選択する。欧州での熱狂的需要により輸出が見込めるからだ。甜菜糖というライバルが出現した砂糖に比べ、代用品が現れないコーヒーは有望な輸出商品と目された。

ブラジルのコーヒーが初めて欧州に輸出されたのが1818年。独立の直前だ。やがてブラジルのコーヒーは、オランダのジャワ、フランスの西インドを脅かす存在になる。

2015年1月30日 (金)

セントヘレナ島

アラビアはイエメンからアフリカ最南端を回って本国に帰る途中のポルトガル船が、南大西洋上に火山島を発見する。1502年のことだ。喜望峰を回ったあたりのこの海域は、南東の風が吹く。ビザンチン帝国のコンスタンティヌス帝の母親の聖人記念日にちなんで「セントヘレナ島」と名付けられた。大西洋上の貴重な補給港となってゆくがいくつかの駆け引きの結果英国の領有となった。

ざっと200年を経過した1732年、コーヒー貿易の莫大な利潤のために奔走するイギリスの東インド会社が、イエメン産のコーヒーの苗木をセントヘレナ島に持ち込んだ。コーヒーの生産可能な植民地では軒並みプランテーションが試みられていたのだ。けれども土地も狭く労働力も少ないセントヘレナ島のコーヒーはそのまま忘れ去られた。1815年に夢破れたナポレオンの配流される83年前の話である。

今日では当時の貴重なイエメン産のコーヒーの直系として珍重されているらしい。

2015年1月29日 (木)

浸透度の違い

コーヒーは、ビール、ワインと並ぶドイツの3大飲料と言われている。しかしながら、ビールやワインが地名や人名に色濃く痕跡を残しているのと違い、コーヒー関連の地名や人名はほぼ存在しないと申していい。

その違いはそれら飲用受容の歴史に起因するものだ。コーヒーのドイツ侵入は16世紀を大きく遡らない。ビールやワインは紀元前に起源を持つ。さらに、コーヒーはドイツ人にとって舶来であるのに対し、麦やブドウはドイツ産である。原料作物の栽培から醸造までが国内で完結するから、生産流通に携わる層は、コーヒーよりも分厚いと見ていい。

コーヒー関連の語彙こそ、そこそこの用例が存在するが、地名人名への非反映は、歴史そのままの反映と見ていい。

2015年1月28日 (水)

茶飲み話

「お茶を飲みながらのおしゃべり」の意味。あるいはそこでの「話題」のこと。やはり日本は「お茶の国」だ。コーヒー消費量世界上位ではあるのだが、日本語の語彙の上では「お茶」優勢だ。

ドイツ語で「茶飲み話」に相当する単語を集めてみた。

  1. Kaffeedurch 「コーヒーを飲みたい気持ち」のこと。
  2. Kaffeefahrt 「コーヒーを飲みに出かけること」
  3. Kafeegesellschaft 「コーヒー飲みの集まり」とりわけ午後の場合を指す。「Gesellschaft」は会社だから、少々大袈裟な表現。
  4. Kaffeeklasch 「コーヒーの飲みながらのおしゃべり」
  5. KaffeeKranzchen 「コーヒーを飲みながらのおしゃべり」。ただし時間帯は午後で、参加者は女性に限られた表現。
  6. Kaffeepause 英語のコーヒーブレークにもっとも近い言い回し。
  7. Kaffeeschlacht 「コーヒーを飲みながらのおしゃべり」「Kaffeeklasch」より口語的。
  8. Kaffeeschwester 「コーヒー好きの女性」。茶飲み話に熱中する女性のこと。
  9. Kaffeestundchen 「午後のコーヒータイム」のこと。

おしゃべりに限れば何だか午後限定が多い。時間帯を選ばぬのは、4番と6番くらいか。

2015年1月27日 (火)

コーヒーブレーク

コーヒーのある休憩時間。休憩する全員がコーヒーを飲まなくてもかまわないのだ。研修やオフィスの休憩時間を「コーヒーブレーク」と呼んでいることもある。

1920年代、コーヒーを扱うメジャーがシェアを争い低価格を競っていた頃、マーケティングの一環でコーヒーブレークという概念が提唱された。職場の休憩時間にコーヒーの飲用を進めたのだ。勤務中の休憩時間だから、アルコール飲料はだめということで、職場にコーヒーを普及させたということだ。

飲むと眠気が覚め、何となく元気が出るコーヒーは、休憩飲料に最適だった。ヴァレンタインデー同様、供給側の必要が生み出した風習。コーヒーを飲みながら作曲したブラームスにとっては、休憩飲料ではない。

2015年1月26日 (月)

美術館改装オープン

千葉県立美術館が、改装に伴う工事を終え、オープンした。県が県立美術館のリニューアルオープンの目玉に選んだのは、平山郁夫画伯だ。1月24日から大規模な特別展を企画してリニューアルに華を添えた。広大なスペースに作品が置かれ、見ごたえがあった。県としては万全の対応だ。

その県が、館内の展示室を会場にオープニングコンサートを目論んだ。平山郁夫画伯に並んで、音でリニューアルオープンを祝賀するということだ。次女たちのオーケストラ部に、大きな白羽の矢が立った。1月25日にはその式典があり、次女の後輩たちが演奏を披露した。れっきとした県からの要請。平山郁夫画伯との両輪を担う光栄を県から正式に授かった。

鼻が高いとはこのことだ。

14時と15時の2回公演を無事こなした。前日に神様が仕組んだ低くないハードルを、生徒たちは事も無げに軽々と超えて見せた。乙女たちは平山郁夫画伯とジョイントする意味とありがたみを腹に据え、粛々と準備を重ねてきた。少々の困難に立ち向かう意思も能力も既に備わっていた。見事な演奏。聴衆に困難の所在さえ意識させぬメリハリ。県からの付託という信頼に全力で応じようという心得が鮮やかだ。「やるときゃやるよ」という不言実行を目の前で見せてくれた。

世界最高の高校オケが、千葉県にある幸せ。

2015年1月25日 (日)

もう一つの大陸封鎖

ナポレオンが英国に対して仕掛けた制裁として名高いのだが、実はコーヒーに関して別に興味深い事例がある。ドイツ人のコーヒー好きに関係するのでブラームスの時代とははずれるが言及しておく。

第一次世界大戦の前年ドイツは16万トン強のコーヒーを消費し全てを輸入に頼っていた。そのうちの85%がハンブルク港を経由してドイツに入った。残り15%のほとんどがブレーメンだったらしいから、地中海経由はむしろまれだったと考えてよい。

第一次世界大戦が勃発すると、北海の制海権を握る英国がドイツへのコーヒー流入阻止を目論む。ドイツにとっての頼みの綱はオランダ。永世中立国ベルギーを蹂躙して始まった第一次世界大戦だから、ベルギー経由をアテに出来ない事情があった。オランダ領ジャワのロブスタ種をオランダ経由で受け入れる以外に方法はなかった。

1816年11月になって、オランダも英国の圧力に屈する形で対独コーヒー禁輸に踏み切る。国内で生産できないコーヒーの兵糧攻めだ。非常時とあって国民生活を犠牲にして軍隊へのコーヒー供給を優先してしのいできたが、これにも限界があった。

キールで発生した水兵たちの反乱は、発生直後に港の倉庫にあったコーヒーを略奪した。まさにドイツの息の根を止めた大陸封鎖だ。

2015年1月24日 (土)

みずかめ座同盟

今日が誕生日の私は、みずかめ座だ。ついでに調べると驚く。

  1. 1月24日 私、ヴィオラ奏者バシュメット、フリードリヒ大王
  2. 1月25日 指揮者フルトヴェングラー
  3. 1月26日 チェリスト ジャクリーヌ・ドゥ・プレ
  4. 1月27日 モーツアルト、ラロ
  5. 1月28日 アルトゥール・ルービンシュタイン
  6. 1月31日 シューベルト
  7. 2月 2日 フリッツ・クライスラー、ヤッシャ・ハイフェッツ 
  8. 2月 3日 メンデルスゾーン

私の誕生日の翌日から10日間がこのありさまである。作曲家ブラームスと縁が深い人々が集まった。

モーツアルト、シューベルト、メンデルスゾーンと並べればブラームスの目尻はきっと下がる。いかにもブラームスが憧れそうな馥郁たる雰囲気が充満しているではないか。

フルトヴェングラーやクライスラーがブラームスをおハコにしていたことは申すまでもない。

以上12名みずかめ座同盟だ。2月17日生まれの森鴎外も特別に入れてあげよう。

2015年1月23日 (金)

コンディトライ

「Konditorei」と綴る。「お菓子とケーキでお茶するお店」の意味。本来カフェとは厳格に区別される。何よりも客層だ。カフェはブラームスの生きた時代原則として女人禁制だ。コンディトライは女性もOKだった。ウィーンにはデーメルやザッハーなど名物店も多い。私のハネムーンの際にはコンディトライに通った。デーメルにもザッハーにも行った事がある。この両者、名物「ザッハトルテ」の本家争いをしたことがあるらしい。

ブラームスのような甘いもの好きの男性は両方に通っていたと思われる。

2015年1月22日 (木)

ラムザウアー

ブラームスの立ち寄りが確認されているイシュルのカフェ。1828年創業の老舗で建物が現存しているばかりか営業中でもある。

ブラームスの立ち寄りの目的はヨハン・シュトラウス2世との懇談だったと目される。この店はブラームスのゆきつけではなくて、ヨハン・シュトラウス2世のごひいきだったという。

2015年1月21日 (水)

グリーンシュタイドル

これもカフェの名前。王宮前のミヒャエル広場北西の畔にある。1847年創業の超有名カフェだ。ウィーンの三月革命はこのカフェの前で始まったとも言われている。

ある日オペレッタの作曲に行き詰まったホイベルガーが、店にたむろしていたヴァイオリニスト・クライスラーと作曲家フーゴー・ヴォルフの前にやってきて相談を持ちかけた。無茶なテキストをワルツの旋律に乗せろという注文に頭を抱えていたのだ。クライスラーとヴォルフから解決のヒントをもらい、ピンチを切り抜けたホイベルガーは後日2人にモカをおごったという。

ホイベルガーは、ブラームスの親しい友人でウイーンにいるときはしょっちゅうつるんでいたから、ホイベルガー贔屓のカフェになら1度や2度は出没した可能性が高い。

創業から50年目の1897年1月21日をもって閉店した。営業最終日の賑わいを今に伝える新聞のコラムが残っている。ブラームスが没する2ヶ月半前の話である。ブラームスの晩年の日常を詳細に報告したホイベルガーの手記には同日の記事があるもののこの店の閉店については言及されていない。ブラームスの病状が抜き差しならない域に達していたのだ。

2015年1月20日 (火)

ドムマイヤー

またまたウィーンのカフェの話。ウイーン西郊21区というよりシューンブルン宮殿のそばと申した方がいいかもしれない。シュトラウスのワルツを中心としたコンツェルトカフェとして名高いのがドムマイヤーだ。

日本映画「フーテンの寅さん」のロケがこの店の裏庭で行われたらしい。その縁でウイーン21区は東京都葛飾区と姉妹都市になっているそうだ。

葛飾区に移住するといいことがあるのだろうか。

2015年1月19日 (月)

鴎外とカフェ

19世紀後半のドイツでどれほどカフェが繁盛していたかの一端を示すために、森鴎外の「独逸日記」に出現するカフェを一覧にしておく。「骨喜」は「コーヒー」のことだ。

  1. 1885年05月29日 ベルリン バウエル茶店 Cafe Bauer
  2. 1885年11月28日 ドレスデン 中央骨喜堂 Cafe Zentral
  3. 1886年02月20日 ベルリン 国民骨喜店 Cafe National
  4. 1886年07月29日 ミュンヘン 英吉利骨喜店 Englisches Cafe 
  5. 1886年08月05日 ミュンヘン フィンステルワルデルのコーヒー店
  6. 1886年08月11日 ベルリン バウエル骨喜店 Cafe Bauer 1と同じ店。
  7. 1886年08月15日 ミュンヘン ミネルワ骨喜店 Cafe Minerva 言及のみ。 
  8. 1886年08月18日 ミュンヘン 東洋骨喜店 Cafe Orient
  9. 1886年08月30日 ミュンヘン 王国骨喜店 Cafe Royal
  10. 1886年12月20日 ミュンヘン カルル門骨喜店 Cafe Karlsthor
  11. 1877年01月01日 ミュンヘン 英骨喜店 Cafe l'Anglais
  12. 1887年04月20日 ベルリン 大陸骨喜店 Cafe Kontinental
  13. 1887年05月28日 ベルリン クレブス氏骨喜店 Cafe Krebs
  14. 1887年10月23日 ベルリン シルレル骨喜店 Cafe Schiller
  15. 1887年11月01日 ベルリン クレブス氏骨喜店 Cafe Krebs
  16. 1887年11月19日 ベルリン ヨスチイ骨喜店 Cafe Josty
  17. 1887年12月10日 ベルリン ヨスチイ菓子店 Conditrei Josty 16と同じか。
  18. 1888年01月29日 ベルリン シルレル骨喜店 Cafe Schiller 14と同じ。

日本初のカフェは1886年頃開業したらしいので、渡独中の鴎外は知る由もない。その代わりドイツでカフェに開眼したこと上記の通りである。困ったときの一覧ネタでもある。

鴎外の誕生日は2月17日だ。実はこのたびのコーヒー特集は、その前に終わってしまうから、本日の記事を誕生祝いに出来ない。2月17日は旧暦で申せば1月19日なので、苦し紛れに本日の公開とした。

2015年1月18日 (日)

ミネルヴァ

文豪・森鴎外の「舞姫」はカフェミネルヴァから始まる。「ミネルヴァ」はローマ神話に出てくる知恵の女神。ジュピターの頭から生まれてきたときすでに完全な姿だった。

ロベルト・シューマンはブラームスを世に紹介する文章の中で、ブラームスを「ミネルヴァのような」と表現している。目の前に現れたときすでに完全だったという意味だ。

それにしてもだ。作品番号でいう7番までの最初期の作品や破棄されて現存しない作品を一度聴いただけで、この持ち上げようだ。先見の明というか慧眼というかかなりラジカルだ。

鴎外の記述はカフェというよりむしろビアホールだ。揺り越すばかりの泡をたたえたジョッキが描写されているから、コーヒーネタとしては苦しい。

2015年1月17日 (土)

カフェバウアー

森鴎外の「独逸日記」にしばしば現れるベルリンのカフェ。

1877年10月14日ベルリンはウンター・デン・リンデン26番地に開業。目抜き通りの一等地に堂々開業したこのカフェは、コーヒーショップを思い起こしてはいけない。華麗な内装、桟敷席、高い天井と広いサロン、有名画家による壁画。コーヒー1杯で好きなだけくつろげるウィーン風のカフェという触れ込みだった。開業後瞬く間にベルリン名所になった。

ビリヤード台のほかに、新聞雑誌が600種おかれ、3人の司書がこれを管理していたという情報ステーションでもあった。東京日日新聞も置かれていたらしい。

だから、ブラームスもきっと一度は立ち寄っていたと思う。

2015年1月16日 (金)

シュヴァルツェンベルク

ケルントナーリンクをはさんでインペリアルの反対側にあるカフェ。旧城壁を撤去した跡に出来たリンクに面して建設された最古のカフェと言われている。旧城壁の内側だ。国立歌劇場、コンツェルトハウス、楽友協会に近い絶好の立地にオープンしたのが1861年だ。

ブラームスが1862年にウィーンに進出した頃には出来立てのホヤホヤのカフェだった。至近距離にあるインペリアルに出没していたブラームスがここを素通りとは考えにくいのだが、文献上で確認できていない。

2015年1月15日 (木)

インペリアル

カフェ・インペリアルはブラームスが通ったことが文献上確認できる数少ないカフェの一つだ。「Imperial」は「帝国」という意味。場所はケルントナーリンクに面した一等地。早い話が楽友協会の裏である。ブラームスの住居があったカールスガッセ4番地から見ると、楽友協会の反対側にあたるから、出勤途中や帰宅途中ではないが、何かと便利な立地だ。

ブラームスは芸術監督を辞した後も、楽友協会とは密接な関係を持ち続けたから、協会には足繁く通ったと見ていいのだが、伝記などでは「赤いハリネズミ」ほどには話題に上らない。

グスタフ・マーラーやリヒャルト・ワーグナーも通ったことが判っている。

2015年1月14日 (水)

ジュニオ

ローマのトレビの泉の辺にあるカフェ。

1888年、ブラームスがこのカフェを訪れている。音楽之友社刊行「ブラームス回想録集」第3巻136ページにおいて友人のヴィトマンが証言しているから間違いない。ドイツの画家たちのたまり場だったカフェで、友人の画家フォイエルバッハの足跡を求めて訪問したとある。

2015年1月13日 (火)

イタリアのコーヒー

ブラームスのコーヒー好きについては既に重ねて述べてきた。同等かそれ以上にイタリアも大好きなブラームスが、生涯9度に及ぶイタリア旅行の際にも、コーヒーだけは欠かさなかったと考えるほうが自然だ。同じ好物でもビールについては、旅行期間中はあきらめて、もっぱらワインだった可能性無しとしないが、コーヒーは難しい。という訳でイタリアのコーヒーをおさえておく。

  1. エスプレッソ 「espresso」と綴るイタリアコーヒーの根幹。イタリアにおいて「コーヒー」と言えばこれだ。英語で言う「express」だから「急行」から派生した。深煎り豆を高温高圧で短時間抽出したもの。短時間というあたりが「急行」の由来と思われる。小さなカップで砂糖のみというのが基本。
  2. カフェラッテ エスプレッソに暖めたミルクを加える。「latte」はイタリア語でミルクのこと。フランスならカフェオレとなるところである。
  3. カフェマキアート エスプレッソに泡立てたミルクを少量。
  4. カプチーノ ウィーンのカフェにもあるメニュウ。エスプレッソに泡立てたミルクを大量に。マキアートとの違いは泡立てミルクの量だ。
  5. カフェルンゴ 薄いエスプレッソ。エスプレッソよりお湯の量を多めに。抽出時間も長め。「Lungo」は「長い」だから辻褄はあう。
  6. カフェフレッド グラスに氷を入れてそこにエスプレッソを注ぐ。つまりアイスコーヒーなのだが、あまり一般的ではないらしい。

ブラームスは、イタリア旅行中、朝食時に何を飲んでいたのだろう。いきなりビールやワインでもなさそうだ。やはり朝はコーヒーだと思われる。

2015年1月12日 (月)

ジェッツ

まずは以下のリストをご覧いただく。

  1. 野球 メッツ Mets
  2. バスケットボール ネッツ Nets
  3. アメリカンフットボール ジェッツ Jets

上記全て、ニューヨークを本拠地にしているチームの愛称だ。お気づきの通り、韻を踏んでいる。3つとも「~ets」になっている。

これをなぜかと考えていて妄想が浮かんだ。アメリカンフットボールのジェッツは、かつての本拠地が空港に近かったことが由来だと説明されている。釈然としない。

ウエストサイドストーリーは、「ロミオとジュリエット」を現代ニューヨークに移植した作品。原作では、中世イタリア・ヴェローナを舞台にした家同士の確執が背景になっているところを、ニューヨークで対立している不良少年グループの抗争に転写している。この両グループの名前が「シャークス」と「ジェッツ」だ。

ニューヨークジェッツといえば、空港からジェット機への連想と説明されるより、ウエストサイドストーリーのとするほうが、私にはしっくり来る。ニューヨークのもう1チームがジャイアンツなどではなくて「シャークス」だったら、ダービーはもっと盛り上がるだろう。

コーヒーとは関係がないけれど、昨日からの流れで。2日連続のウエストサイドネタは、実は必然。乙女たちのマンボにブラームスのご加護を。

2015年1月11日 (日)

プエルトリコ

実は、ウエストサイドストーリーが好きだ。若い頃から大好き。今その成り立ちについて深く立ち入らないけれど、相当好きだ。シェイクスピアをベースにしながら、ニューヨークに舞台を移植した発想とともにもはや古典だろう。音楽が素晴らしい。バーンスタインの最高傑作だと思う。

第一幕の7曲目に「アメリカ」という曲がある。ヒスパニック系のシャークスの娘たちが歌う。プエルトリコへの差別を皮肉ったり、アメリカの機械文明をも槍玉に上げるスパイスの効いた佳曲だ。冒頭プエルトリコを賛美する調子で「Always the coffee blossoms blowing」と歌われる。いつもコーヒーが花盛りといった意味。もちろん肯定的なニュアンスだ。

これが、ウエストサイドストーリーにおける唯一のコーヒーへの言及である。

プエルトリコには1736年にフランス領マルティニク島からコーヒーが移植されて以来、基幹産業となっている。ミュージカル「ウエストサイドストーリー」の脚本家は、プエルトリコを象徴する産物としてコーヒーを取り上げたということだ。

2015年1月10日 (土)

タイムズ

1785年に遡る世界最古の新聞。ロンドンタイムズとも呼ばれる。保守系高級紙として君臨するがブラームスの伝記にも現れる。チャールズ・スタンフォードの証言によれば、本人もほとんど乗り気だったケンブリッジ訪問が、タイムズ紙のスクープによりご破算になったという。本人指揮による第一交響曲英国初演がこれで水泡に帰した。名士扱いを嫌うブラームスが報道を知ってへそを曲げたというのだ。

私が興味を持つのはひねくれた視点。ブラームスはその報道をどうやって知ったのだろう。タイムズ紙を定期的に購読していたのだろうか。あるいは誰かが気を利かせたつもりで教えたのだろうか。ずっと気になっていたのだが、また別の可能性に思い至った。

昨日の記事「カフェ三種の神器」がヒントになる。ウィーンの有名カフェには、欧州の新聞がずらりと取り揃えてあった。英国のタイムズが置かれていたことは間違いない。ブラームスはウィーンのカフェで、タイムズを読んだのではあるまいか。

2015年1月 9日 (金)

カフェ三種の神器

「ビリヤード」「チェス」「新聞」だ。それぞれ「Billard」「Schach」「Zeitung」と綴る。

ビリヤード台とチェス盤がカフェには付き物だった。新聞も不可欠で、大きなカフェには250種類の新聞があったとも聞く。ベテラン給仕ともなると常連客の顔と新聞が一致していて、黙っていても好みの新聞を提供してたという。

モーツアルトはカフェでしばしばビリヤードに興じた。

ブラームスにはチェスの話がある。あるとき「シューマンにどんなことを教わったのか?」と訊かれて「特に何も、チェスの指し方くらいだよ」と応えたという。厄介払い半分ジョーク半分の受け答えだ。

2015年1月 8日 (木)

ミルは水車

コーヒーミルは英語で「cofee mill」と綴る。「coffee」はともかく「mill」を辞書で引くと、「製粉機」「粉ひき」と書いてある。豆を挽くのだからこれで辻褄があう。

さてドイツ語ではどうか。「Kaffeemuhle」と綴る。「u」はウムラウトだ。この単語の後半「Muhle」をまた辞書で引くと「粉ひき」「製粉機」と並んで「水車」と書かれている。

昔、小麦粉を作る際の動力は水車だった。だから「水車」と「粉ひき」が同じ単語になっているということだ。よくよく見ると英語側の「mill」にも「水車」の意味があった。

もちろん現代のミルは、手動か電動。水力はない。

2015年1月 7日 (水)

ミル

コーヒー豆を挽く器具のこと。こだわる人はとてもこだわる。

音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第1巻122ページに興味深い言及がある。ジョージ・ヘンシェルが1894年4月24日早朝にカールスガッセのブラームス宅を訪問したときの様子だ。

広くて居心地のの良い部屋に、ウィーン風コーヒーの独特な香りが充満していると証言している。このとき「ミルがまだ机の上に載っていた」と書いてある。

自宅で朝を迎えたブラームスは、自ら豆を挽いてコーヒーを淹れていたことがこれで確実となる。記述が抽出方法に及んでいないのが残念だ。

65ページにも及ぶヘンシェルの手記の中に、コーヒへの言及が本件を入れて5箇所ある。いずれもブラームスのコーヒー嗜好を裏付ける貴重な証言だ。

2015年1月 6日 (火)

コーヒの浸透

コーヒーのドイツ社会への定着を推し量るとき、各都市におけるカフェの開業はよい目安になる。ついでだから欧州主要都市と比較して列挙する。

  • 1645年 ヴェネツィア
  • 1650年 オックスフォード
  • 1652年 ロンドン
  • 1659年 マルセイユ
  • 1663年 アムステルダム、デンハーグ
  • 1672年 パリ
  • 1679年 ハンブルク、ブレーメン
  • 1883年 ウィーン
  • 1686年 ニュルンベルク、レーゲンスブルク、プラハ
  • 1687年 ケルン
  • 1694年 ライプチヒ
  • 1697年 ヴュルツブルク
  • 1700年 ダンツィヒ、ヴィッテンベルク
  • 1708年 ハルバーシュタット
  • 1712年 シュトゥットガルト
  • 1713年 アウグスブルク
  • 1721年 ベルリン

北海経由と、ドナウ川経由を色分けしておいた。あくまでも最初のカフェの開業だから、コーヒーの伝播自体は少し遡ることは申すまでも無い。ドイツ最初のカフェはハンブルクだったとは。バッハが生まれる6年前の話である。

2015年1月 5日 (月)

コーヒーのドイツ侵入

コーヒーがドイツに入ったのは1640年だという説がある。詳し過ぎて眉唾なのだが、アムステルダムでドイツ商人がコーヒーを買い込んだという記録がある。これをもってドイツへのコーヒーの初上陸だというわけだ。記録に残るドイツ人の初落札くらいに考えておいたほうがよいかもしれない。

大事なのはアムステルダムだということだ。当時ドイツは海外に植民地を持っていなかった。だからコーヒーの供給はオランダ東インド会社に依存している。実はある意味でこれはお互い様だ。当時日の出の勢いを誇った海運王国オランダを支えたのはドイツだ。オランダに発生する船舶需要は、ドイツとりわけシュヴァーベンの木材が支えていたからだ。膨大な量の木材が筏に組まれてライン川を下ったという。

2015年1月 4日 (日)

ブラック違い

ブラームスがイシュルの子供たちに、ご褒美を与えるシーンに気になる描写があった。コーヒーカップの底に溶け残った砂糖をスプーンで掬い取って、子供たちに与えたという記述だ。

ブラームスの嗜好は、ほとんどの証言者が「ブラック」だったと口を揃える。日本人の感覚だと「砂糖もミルクも入っていないコーヒー」だと受け止める。だから「底に溶け残った砂糖」という記述が不自然に感じられる。

ドイツにおける「Schwarz」つまり「ブラック」は、ミルクやクリームなど乳製品の排除だけが、要件で、砂糖の有無には制限がない。「ブラック」は元より色だから、乳製品を混ぜさえしなければ、定義を満足できる。砂糖を入れても色は変わるまい。だから「ブラック」から「砂糖」も排除する日本の定義の方が、不自然だ。

ブラームスの知人たちは、「巨匠の好みがブラックだった」と証言するだけで、砂糖の有無には関知していない。本来のブラームスの好みが「砂糖入り」だったのか「砂糖抜き」だったのか、判然としないのだが、イシュルでのエピソードは、有力な手掛かりになる。

2015年1月 3日 (土)

メモリアルイヤー

新年を迎えると、「今年は誰それの生誕○○周年だ」などという話題がにぎやかになる。1815年生まれのビスマルクは生誕200周年に相当する。後日それには言及する予定である。そのほか実はここで申し上げておきたいネタがある。

本ブログ「ブラームスの辞書」は2005年5月30日開設なので、今年が生誕10周年に相当する。ブログ大国日本において、開設10周年を向かえるブログなんぞ珍しくもあるまい。その間記事が5本しか存在しなくても10周年は10周年だ。一方で我がブログはこれまで毎日更新を厳守してきた。記事の備蓄の具合から見て、このまま一日の抜けもなく10周年に到達するのは確実である。カッコをつけていないで盛り上がることにしている。

現在進行中のコーヒー特集を終えたら、それ相応の準備にかかる。記念の特集はすでに記事の仕込を終えている他、ブログの運営や心がけに関する記事をしばらくの間連ねることになる。

ブログ開設以降に生まれた子どもがもう10歳だ。クラシックに興味を持つ子が現れても不思議ではない。

2015年1月 2日 (金)

証言者の顔ぶれ

昨日の記事へのコメント。

昨日、音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」全3巻に出現するコーヒーへの言及記事を一覧化した。

同回想録集全3巻はブラームスの知人14名による証言の集大成だ。14名のうち下記9名がのべ25回にわたってコーヒーに言及している。頻度としてはワインと同等で、ビールを凌ぐ。アルコールを含まないコーヒーは、アルコール飲料よりも時と場所を選ばない。ブラームスが日頃、深くコーヒーに接していたことがよく現れている。

  1. アルバート・ディートリヒ
  2. ジョージ・ヘンシェル ブラームスの部屋に充満する香りを「ウィーンのコーヒーの香り」と表現している。かなりな嗅覚だと思われる。
  3. フローレンス・メイ
  4. リヒャルト・ホイベルガー 全体の文量の割には、コーヒーへの言及は少ない。
  5. リヒャルト・フェリンガー コーヒーカップの底に残った砂糖をすくう場面は貴重。
  6. ヨーゼフ・ヴィトマン トゥーンの朝、ブラームスが使用するミルがウィーン製だと断言している。メーカーを特定できたのだろうか。あるいは、避暑地にまでわざわざウィーンからミルを持参していることへの驚きを表現したか。ヴィトマン自身かなりのコーヒー愛好家であると思われる。
  7. カール・ゴルトマルク
  8. エセル・スマイス
  9. グスタフ・イェンナー

全員の記述を総合すると、おそらくブラックが彼の好みだ。豆はイエメン産のモカ。ウィーン製のミルを使用している。ネルを使ったドリップか、ポットに水と挽いたコーヒーを入れて沸かすのが不明だが、どうも前者っぽい。自宅か避暑地かでも違っていたと思われる。砂糖を入れていた可能性はわずかに残るが、ミルクは使っていない模様。

2015年1月 1日 (木)

コーヒーの痕跡

音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」全3巻は、ブラームスの知人たちによる証言の集大成になっている。ブラームス本人が日記を書かなかったこともあって、貴重な同時代史料だ。その中でコーヒーへの言及がある箇所を一覧にしてみた。掲載ページ順に列挙した。赤文字は証言者である。

  1. 1巻P068 A・ディートリヒ 1867年の夏をディートリヒの別荘で過ごした記述。美しい庭でのコーヒータイムがブラームスのお気に入りだったと伝える。 
  2. 1巻P087 ヘンシェル 1874年5月ケルン。ヘンシェル自身が初めてブラームスに会った日の出来事。ブラームスは仲間とクナイペで大好きなワインやコーヒーを飲んで夜中まで騒いでいたとある。
  3. 1巻P102 ヘンシェル 1876年7月9日ヘンシェルの日記の記述。難癖をつけてコーヒーハウスの支払いを拒む郵便局検査官の話題。
  4. 1巻P103 ヘンシェル 1876年7月9日ヘンシェルの日記。リューゲン島滞在中の夕食では、決まってビールを3杯飲み、仕上げにコーヒーを1杯とある。
  5. 1巻P112 ヘンシェル 1876年7月17日の記述。前日16日の出来事として、海岸の喫茶店でいつものコーヒーを飲んだとある。
  6. 1巻P122 ヘンシェル 1894年4月24日ウィーン。こちら。
  7. 1巻P153 フローレンス・メイ 1871年夏バーデンバーデンのクララの別荘。毎度入りびたりのブラームスと午後のコーヒータイムでいつも鉢合わせし、コーヒーカップが下げられた後、クララとブラームスが連弾するのをしょっちゅう見たと記す。
  8. 1巻P191 フローレンス・メイ 1888年暮。ウィーンでのブラームスの日常を描写している。「赤いハリネズミ」で昼食をとった後、近くのカフェでブラックコーヒーを飲みながら新聞を読むと証言している。
  9. 1巻P195 フローレンス・メイ 1894年か1895年のイシュル。カフェ・ヴァルターの店先の木の下に座っているところに現れた5歳の男の子に、コーヒーカップの底にたまった砂糖をスプーンですくって与えたとある。おお、ブラックではなかったということか。
  10. 2巻P089 ホイベルガー 1892年10月25日記述。ベアトリクス通りのカフェに出かけたとある。
  11. 2巻P093 ホイベルガー  1892年11月28日記述。ウイーンのカフェ・クレムザーに出かけた話。
  12. 2巻P099 ホイベルガー 1893年3月26日記述。ブラームスのことをイシュルのピアニストたちが「ブラックコーヒーの常連」だと噂している話。
  13. 2巻P138 ホイベルガー 1895年7月5日。マーラー、ケスラー、ブラームスとイシュルのカフェで会ったとある。
  14. 2巻P185 ホイベルガー 1896年8月28日。体調のすぐれぬブラームスとイシュルのカフェに。
  15. 2巻P233 フェリンガー 1885年7月8日。ミュルツツーシュラークのホテル・ミュルツターラーホーフのベランダでコーヒーを飲む様子を、フェリンガーの母は夫に手紙で伝えている。手紙の中で「いつものコーヒー」と表現されているのは「ブラックコーヒー」だというのが明らかになる。
  16. 2巻P237 フェリンガー ミュルツツーシュラークの夏、子ども好きの本領を発揮する場面。ブラックコーヒーを飲んでいたブラームスが子どもに焼き菓子を与える場面が出てくる。
  17. 2巻P258 フェリンガー ページをめくるといささか唐突に、ブラームスの習慣の話しになる。食後には隣の部屋に移りブラックコーヒーを飲みながら新聞に目を通すとある。さまざまな新聞の名前が書いてあるのでそこがカフェであると推定される。
  18. 3巻P076 ヴィトマン 1886年5月初めてのトゥーン滞在。初日の朝の光景が描かれる。マルセイユの知人(エストランジャン伯爵夫人)から送られた上等のモカを、ウィーン製のミルで自ら挽いたとある。その豆をヴィトマンにお裾分けしたとも書かれている。
  19. 3巻P086 ヴィトマン 1886年夏のトゥーン滞在を切り上げる際、残ったコーヒー豆と器具一式をヴィトマンの妻に預けたことをもって、ヴィトマンは翌夏もブラームスがトゥーンに滞在すると確信している。
  20. 3巻P127 ヴィトマン ブラームスを魅了するイタリアの要素を列挙する場面に「最高のコーヒー」とある。
  21. 3巻P136 ヴィトマン 1888年のイタリア旅行の途中、ローマのカフェ・グレコに立ち寄ったと証言されている。
  22. 3巻P155 ゴルトマルク ブラームスとの初対面の場所としてウィーンのカフェ・チェコと証言している。
  23. 3巻P196 エセル・スマイス ブラームスが食後決まって猛烈に濃いブラックコーヒーを何杯もお代わりするとある。
  24. 3巻P218 イェンナー ブラームスに弟子入りするためにウィーンに出てきたイェンナーが当面の生活に困らないように、ブラームスが日用品を譲った。その中に「コーヒー沸かし」がある。サイフォンでもドリッパーでもなくいわゆる「ヤカン」状の容器だと思われる。
  25. 3巻P222 イェンナー ブラームスとの日常生活の描写。「12時半頃ブラームス先生を迎えに行き、赤いハリネズミで昼食とお茶」とある。この「お茶」が本当に「お茶」だったのか疑問の余地がある。

以上。なかなか壮観だ。昨日、子供らの演奏ネタで盛り上がったから、本業もおろそかにしてはいかんと気合を入れた。今年もおバカな記事こそがいきがい。だから正月こそおバカな記事が必要だ。正月にかまけてぬるい記事を放つようになったらおしまいである。あけましておめでとう。

  • « 2014年12月 | トップページ | 2015年2月 »

    フォト

    ブラームスの辞書写真集

    • Img_0012
      はじめての自費出版作品「ブラームスの辞書」の姿を公開します。 カバーも表紙もブラウン基調にしました。 A5判、上製本、400ページの厚みをご覧ください。
    2020年2月
                1
    2 3 4 5 6 7 8
    9 10 11 12 13 14 15
    16 17 18 19 20 21 22
    23 24 25 26 27 28 29
    無料ブログはココログ