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    2012年3月28日から4月4日まで、次女の高校オケのドイツ公演を長男と追いかけた珍道中の記録。厳選写真で振り返る。

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    自分で買い求めて賞味したビールの写真。ドイツとオーストリアの製品だけを厳選して掲載する。

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2015年3月31日 (火)

ジャム入りドーナツ

ジャムが入ったドーナツで、粉砂糖をかけて食べるドイツの名物菓子。南部ではクラプフェンと呼ぶ一方、北部ではベルリナーという。このベルリナーはもちろんドイツの首都ベルリンのことで、「ベルリン風」くらいの意味。かの地では大晦日にこれを食べる習慣があるという。

何故かは不明ながら、この「ベルリナー」が一部では「ビスマルク」と呼ばれているらしい。美食家で大食漢のビスマルクではあるのだが、スイーツの名前となると違和感もある。

誰か理由を知らないか。

2015年3月30日 (月)

ソーセージの中身

ビスマルクと料理の関係を調べていて興味深い話をみつけた。

「法律とソーセージは成立の裏側を知らない方が、心安らかでいられる」という言葉をビスマルクが漏らしたらしい。

広く知られている通り、ソーセージはドイツの代表的な食材で、1500種類あるとも言われている。街ごとにさまざまなレシピーがあり、それらが昔から守られている。庶民にも観光客にも広く親しまれているのだが、その製法とレシピーは作り手にしかわからない。どんなにおいしいソーセージでも何が用いられているかは判らぬということだ。思わぬものが入っていたりするということを暗に仄めかしている。実際の話、訳のわからぬものを混ぜ込んだ不心得者もいたに違いない。「知らぬが仏」のドイツ版という感じである。

庶民の人気食材の裏側を、「法律」と並べて評したところに妙味がある上に、鉄血宰相ビスマルクに結びつけたところが肝である。得たいの知れない説得力がある。

2015年3月29日 (日)

ビスマルクの体重

ビスマルクがかなりの巨漢で、身長が190cm付近だった話は割と言及される。体重の話題を探していてとうとう見つけた。清水書院刊行の人と思想シリーズの182巻「ビスマルク」の204ページ。ビスマルクがストレスのあまり暴飲暴食をした話の流れの中で、1879年に体重が124kgだったと書かれている。身長が190cmあったとしてもかなりな体重だ。

2015年3月28日 (土)

ビスマルク風ピザ

プロイセンの宰相にしてドイツ統一の立役者ビスマルクの名前を冠したピザ。何でもビスマルクはステーキに半熟の卵をのせて食べるのを好んだとか。だから半熟卵がトッピングされたピザを「ビスマルク風ピザ」と呼んでいるらしい。卵はあくまでも半熟であることが求められるという。一般の宅配ピザ屋でも品揃えされているらしい。

ビスマルクやブラームスが果たしてピザを食べたかどうかまでは確認出来ていない。

2015年3月27日 (金)

ニシンの酢漬け

ドイツ帝国宰相ビスマルクは巨漢で、大酒豪大食漢だったといわれている。単なる大食いではなくて美食家だったともいう。ビスマルクの名前がついた食べ物について調べていたらまたヒットした。それが「ニシンの酢漬け」だ。ドイツ語では「Bismarckhering」だ。「Hering」は単に「ニシン」の意味。

ニシンの小骨を取り除いたマリネのイメージ。もちろんニシンは海の魚だからドイツ北部の料理だ。ブラームスの故郷ハンブルクでも良く知られた料理なのだと思う。

2015年3月26日 (木)

ビスマルクの家

ビスマルクはドイツ帝国創設の功臣として、ドイツ国民から崇拝されたこともあって、その住居は名所化しているケースが多い。大抵は広大な敷地を持つ屋敷なのだが、中には小さな住まいもあった。

1832年から1年間ゲッティンゲン大学に在籍していた頃の下宿がある。これが現地ゲッティンゲンではビスマルクの家として名所化している。市街をグルリと取り囲む城壁跡の内側、南西の端にある。ゲッティンゲン中央駅からはほぼ南に800mほどの位置。

ドイツ語では「Bismarck Hauschen」(aはウムラウト)と綴られる。Hausの縮小形なので、小さな家の意味。出世前の学生にふさわしい。

1862年に宰相に就任してにわかにビスマルク熱が高まったために名所化したが、滞在当時は無名の存在だった。ブラームスがヨアヒムとともにゲッティンゲン大学に通った頃はもちろんアガーテと知り合ったころでさえ、まだ名所扱いはされていなかった。アガーテの自宅は、ヨアヒムから「城壁のそばの家」と証言されている。アガーテの自宅とビスマルクの下宿がご近所だった可能性が無いとは言えない。

2015年3月25日 (水)

ビスマルクは鉄血か

「鉄血宰相」は、ビスマルク関連文章が高い確率で言及する言葉だ。1862年プロイセン宰相に就任した際の有名な演説に由来する。ドイツの統一に戦争は不可避だとの見解を早々と提示したということだ。軍事予算が可決されないという危機にあたり、憲法条文の不備をついて巧みに切り抜け、1871年までの3つの戦争に3連勝してドイツ帝国を成立させた。

「鉄血宰相」の語感は、いかにも喧嘩っ早い好戦的なイメージだが、1871年にドイツ帝国が成立した後は、1890年の退任まで戦争を仕掛けていない。外交交渉のツールに圧倒的な軍事力を用いたことはあるが実際に戦っていない。ドイツ統一の過程において戦争が必須であることは、就任演説の通りだが、その後は戦争を避けた。同じ頃英仏は世界を舞台に武力で植民地を切り取る戦争に明け暮れていた。それらを棚に上げてビスマルクを鉄血宰相呼ばわりはやや違和感を感じる。植民地の獲得には消極的だった姿勢とも一脈通じている気がする。

2015年3月24日 (火)

はばたき

一昨日、おだやかな好天の中、次女たちの後輩37代の卒部式があった。すでに卒業式を終えている3年生を、後輩たちが送り出す伝統の儀式。卒業生は思い出深い文化ホールに制服を着て、楽器を持って集合する。

冒頭いきなり、顧問の先生が制作した45分のスライド映写がある。彼女らの3年間を凝縮した力作。この日のスライドにするために先生が日ごろコツコツと撮りだめた映像が、彼女たち自身の演奏をバックに粛々と流れる。上映中は歓声と笑い声が続く。

後輩代表の涙涙の挨拶や、顧問指揮者の絶句あたりから、会場の卒業モードが高まってゆく。私だって3分あいさつした。いくらでも話すことはあるのだが、長く話すと涙腺決壊のリスクが高まるから、サラリと切り上げた。堅い話はご法度で、子供らの反応を見ながら語りかけに徹した。

震災の影響で極端に部員が少なかった次女たち36代は、大所帯だった先輩35代の引退を心細く感じていた。後輩たちが入ってこなかったら、部活が維持できないと真剣に心配していた。そうしたら、キビキビの1年生が大挙して入部してくれた。それが一昨日卒部した37代だった。その後、頭数の少ない36代を1年生として支えてくれたおかげで、次女たちは無事引退できた。あの引退公演の日、恒例のハグタイムで流れたメモリーは、決定的な涙腺クラッシャーだった。37代の残した数々の快演は、素晴らしいものばかり。しかし私は断じてあのメモリーのサプライズに一票だ。

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これがみんなへのお礼。

そして深々と惜別の演奏に入る。苦楽をともにした38代2年生と37代3年生による「オペラ座の怪人」だ。2年生は先輩に席を譲り、弦楽器の前列には3年生が並ぶ。今日ここまでの練習のないぶっつけ本番。昨年の5月以来の演奏。何の問題もないかのように、圧倒的な弦の刻みが空気を引き締める。木管楽器のソロもキビキビと嬉しそう。

そしてドイツ公演のアンコールだった「ふるさと」。今度は1年生39代も入る。女王のプライドに満ちた冒頭弦楽器の弱音。「いかにいます父母」「志を果たして」と涙腺クラッシャブルなテキストが続く。

ラストはこれまた全員でラデツキー行進曲だ。3年生がこの制服を着て演奏する最後の曲。およそ50日後に引退公演を迎える38代への強烈なメッセージ。ブラボーの声がかかる。鳴り止まぬ拍手。

思えば次女たちが同じように送られてからやっと1年だ。こうしてこのオケは毎年、念を後輩に受け継いでゆく。今日送られた卒業生はおよそ50日後のスペシャルコンサートで演奏会の裏方に回り、大学生活最初のゴールデンウィークを嬉々として後輩に捧げることになる。

はばたけ37代。

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2015年3月23日 (月)

州都ビスマルク

ドイツの13の連邦州の話ではない。ドイツにはビスマルク(Bismarck)の名前を州都にしているケースは存在しない。第二次大戦後、敗戦国ドイツからプロイセン色が徹底的に排除されたからそれも致し方ない。

ところが米国ノースダコタ州にビスマルクがある。1889年11月2日、サウスダコタ州とともに州に昇格した。39番目の州。このときビスマルクが州都と決められた。州に昇格する以前はダコタ準州時代から州都になっていた。ダコタ準州の成立は1861年。このときはヤンクトンが州都だったが、1883年にビスマルクが州都となった。鉄血宰相ビスマルクが中央政界に進出したのは1862年だから1861年準州発足時に州都の名前に取り入れられるハズがない。辻褄が合う。

1871年普仏戦争の勝利そしてドイツ帝国成立の立役者ビスマルクの名は米国にも伝わっていた。住民の3分の1がドイツ移民であったノースダコタ州がビスマルクにあやかる命名をしたとしても不思議ではない。ノースダコタ州成立の1889年は初代皇帝ウイルヘルム1世が没したあとだから、いささか微妙。ビスマルクは次のウイルヘルム2世とウマが合わなかったからだ。1890年には解任されているので1889年11月というのはギリギリのタイミングである。

20世紀にはいって独米両国は2度にわたって戦火を交えた。その間この州都が名前を変更していた形跡がない。

2015年3月22日 (日)

Eisen und Blut

ビスマルクはプロイセン宰相に就任した最初の演説で有名になる。演説の最後を以下のように結んだ。

Nicht durch Reden oder Majoritatsbeslusse werden die Grossen Fragen der Zeit entschieden,sondern druch Eisen und Blut.

  • Reden 演説
  • Majoritatsbeslusse 多数決
  • Grossen Fragen 大問題
  • Zeit 現代
  • entschieden 決定する「entsheiden」の過去分詞
  • Eisen 鉄
  • Blut 血

「昨今の大問題は、演説や多数決ではなく、鉄と血によってこそ解決される」とでも訳されよう。ここでいう「昨今の大問題」は「ドイツ統一」を指す。高校の歴史の教科書にならほぼ必ず載っている「鉄血宰相」は、この「Eisen und Blut」に由来する。

問題はこの演説が実際に行われた日だ。ビスマルクの宰相就任はおそらく1862年9月22日に皇帝から要請された。10月が年度初めのプロイセンでは年度末にあたる。国会の召集は1863年度にはいった10月1日で、例の演説は本会議ではなく前日9月30日の予算委員会で発せられた。

2015年3月21日 (土)

国王ビスマルク1世

英国の外務大臣クラレンドン伯爵の言葉。ビスマルクの持つ影響力が国王をもしのいでいる様子を皮肉った発言だった。ビスマルクがプロイセン宰相に就任した1862年からドイツ帝国宰相を罷免された1890年までの間、英国の首相は10人にも及ぶ。ビスマルクの28年間の長期政権は、英国からみれば宰相のそれではなく、最早国王という感覚なのもうなずける。

クラレントン伯爵のこの発言は1865年だったことも興味深い。ドイツ帝国成立前であることはもちろん、普墺戦争よりも前だ。1864年のデンマーク戦争で、デンマーク側に立った英国の介入を、外交手段で封じたビスマルクの手腕をめぐる発言だ。

プロイセンでもドイツ帝国でも、宰相は内閣に対し責任を負っていない。国王にのみ任命権があり、罷免も国王だけの権利だった。

その後の宰相在任が26年にも及ぶことを予見していたとは思えないが、何らかの才能をビスマルクから感じ取っていたことは間違いあるまい。

2015年3月20日 (金)

欧州の警視総監

こんなものが現実に存在する訳ではない。欧州秩序維持の中心をになった人物の比喩でしかない。最初はいささか疑問無しとしないが、行きがかり上ナポレオン。神聖ローマ帝国に引導を渡すなど、ドイツは蹂躙された。ほぼ欧州全域が彼の軍門に下った。

ナポレオン失脚後の欧州を仕切ったのがオーストリアのメッテルニヒ。ナポレオン前の体制に戻すことをコンセプトにおよそ30年総監の座にあったが、3月革命で失脚。

メッテルニヒの後任はと探すとやはりナポレオン3世しかいない感じ。普仏戦争での大敗でイメージは悪いけれど、それまでの実績は立派である。

そのナポレオン3世に引導を渡したのが他でもないビスマルク。昨日言及したビスマルク体制だ。普仏戦争までの10年間は武力に訴えたが、ドイツ帝国成立後は豹変する。武力はあくまでも伝家の宝刀で、抜くぞ抜くぞと見せかけつつ外交で欧州を仕切った。

後任を育てないまま、ウイルヘルム2世との確執でビスマルクが辞任すると、欧州の平和は揺らぎだす。ドイツはフランスとの関係はそのままに英露との関係を悪化させてしまう。第一次大戦にまっしぐらとなる。

2015年3月19日 (木)

ヨーロッパコンサート

どこぞのオーケストラの欧州公演のことではない。

19世紀の欧州。英仏独墺露の5大国が君臨した時代。彼らは競って海外に植民地を求めた。本国から遠く離れた植民地で、列強同士の利害の衝突も起きてくる。植民地をめぐる列強同士の利害関係は、話し合いで解決されるのが恒例になっていた。その話し合いの場のことを、比喩的に表現したのが「ヨーロッパコンサート」だ。関係当事者の外相会談で植民地関連の揉め事が解決されている。植民地現地の意向は当然のように無視された。

欧州内での揉め事の際にも発動した。地中海が絡むときにのみイタリアも呼ばれた。

日清戦争の講和条約だった下関条約に対し、ヨーロッパコーンサートの面々は、不快の意思表示をした。ドイツがフランスとロシアを誘って三国干渉に踏み切ったとされているが、1878年の露土戦争以降、ドイツがヨーロッパコンサートを仕切っていたことから、ドイツが積極的に動いたと説明される。当初は英国にも声をかけていたらしい。アヘン戦争頃から列強の中国への進出が頻繁になったのだが、日本の台頭がそのバランスを崩すと懸念したことは間違いない。日露戦争の仲裁者がアメリカだったのはヨーロッパコンサートの面々にとっては、不愉快な出来事。

日清戦争後に、欧州列強が日本に横槍を入れることをブラームスが予期していたという話は、チャールズ・スタンフォードが証言しているが、ヨーロッパコンサートの存在を意識していれば、予測はさして難しくなかったのかもしれない。

2015年3月18日 (水)

王権神授説

「王の支配権は神が与え給うたもの」という学説。絶対主義時代をささえた考え方だ。さらに「王は神以外からは何の拘束も受けない」「王は神に対して責任を負う」などと広がってゆく。

ウイルヘルム1世崩御後、ビスマルクと対立したウイルヘルム2世は19世紀も終わりに近づいた段階で、演説の中で王権神授説を持ち出した。「どんな失政をしても国民に説明義務はない」くらいなことは言ったのかもしれない。

これを伝え聞いたビスマルク支持派の中にジョークが広まった。

ドイツ帝国の権威は神が与えたもの。ドイツ帝国の創設者は誰か?それはどう贔屓目に見てもビスマルクだ。それなら皇帝はビスマルクを神とあがめるべきだというもの。

「神様、仏様、ビスマルク様」である。もしビスマルクが日本に生まれていたら、間違いなくビスマルク神社があちこちに創設されていたハズだ。

2015年3月17日 (火)

ビスマルク引退

ウィルヘルム2世との確執は、半ば想定されたものだった。皇帝親政を指向するウィルヘルム2世と鉄血宰相の衝突は時間の問題。1890年3月18日ビスマルクは辞表を提出してフリードリヒスルーに隠居した。

ドイツ国内の反応はさまざま。後のノーベル文学賞受賞者で、進歩党に所属するモムゼンは、ドイツ統一を達成した実行力をたたえる一方で、手法の強引さも冷静に指摘する。ビスマルクの功績はそのまま軍事力による他国からの領土獲得だったから、いずれ取り返されるのではと危惧する。剛腕ゆえの敵の多さにも起因してか賞賛一辺倒ではなかった。

ところが海外の反応はおしなべて「引退を惜しむ」という論調。1871年普仏戦争以降、欧州中枢部で戦争が起きなかった功績はビスマルクにあるという評価。常に仮想敵国であり、煮え湯を飲まされ続けたフランスのマスコミでさえ、老雄の引退を惜しむ記事を奉りつつ、ビスマルクの後継者の資質に疑問を指しはさむ。フランス包囲網はたしかにフランスを孤立させはしたが、プロイセンはけしてフランスに攻め込まなかったことこそ記憶すべきだと。英国、ロシア、オーストリアなどの列強も結局はビスマルクの構築したおよそ30年の平和の果実を享受した。

やがて回想録の執筆が始まる。本人の記憶に裏づけ資料を紐付けながら、腹心たちが原稿を書き下ろす全6巻の大著。このうち1巻と2巻がビスマルク没後すぐの秋に刊行された。飛ぶような売れ行きで欧州の紙価を高め、わずか2週間で30万部が売れた。第3巻は、現帝への批判に満ちているので第一次大戦後の出版になったが、それでも19世紀ドイツ出版界最高のベストセラーとなり、この上を行くのは聖書だけとも言われた。刊行2週間後には英国で英語版がリリースされこちらもベストセラーになった。

ブラームスは既にこの世を去っていたので彼はこの大ベストセラーを読んでいなかった。健在なら絶対に購入していたと思う。

2015年3月16日 (月)

生誕80年

1895年4月1日。ビスマルクは80歳になった。このとき既に政界を引退していたビスマルクだが、その影響力は大きかった。影でいろいろと企みをめぐらすことも多く、時の政権からは必ずしも歓迎されていなかった。その証拠にドイツ帝国議会は、議長からの「ビスマルク生誕80周年に祝意を表する」という提案をあっさり否決してしまった。

国内から自業自得の声も上がったが、海外からは「大人気ない」と批判された。

つまり敵も多かったということだ。政治の世界のこうした確執は、下々の市民にとっては格好のゴシップだ。80歳の誕生日を祝う祝わぬというネタは、ドイツの国益には何等影響はなかったと思われるが、1895年といえばブラームスは存命だったから、このニュースを聞いてどう感じたか興味深い。

2015年3月15日 (日)

没後2058年

紀元前44年3月15日は、シーザーがローマの元老院で暗殺された日だ。昨年のドイツ史でいろいろ調べているうちにローマにはまってしまい、何気なく判明した。今日はシーザー没後2058年の命日だ。何回忌というのだろう。

そんなことより今日は長男の誕生日。長男はシーザーが死んだ2037年後に生まれたということだ。

2015年3月14日 (土)

公平な立場

書籍「鮮烈ビスマルク革命」は、かなりビスマルク寄りの内容だ。ビスマルク贔屓の姿勢が目立つ。ブラームス自身も私もビスマルク贔屓だから、とても読みやすかったのだが、ブログ記事執筆ための情報収集ともなると、公平な視点も必要になる。先の書物に欠けている公平な視点を補うのに最適な本を紹介する。

清水書院刊行、加納邦光著の「ビスマルク」という本。センチュリーブックスというシリーズの182巻という位置づけ。元々このシリーズは古今東西の思想家の伝記が集められている。ビスマルクを思想家として扱った本だ。

ビスマルク信奉者には厳しい記述も頻繁に現れる。特にビスマルクは同時代のライバルたちを排除しまくったせいで、有能な後継者を育て得なかったばかりか、ドイツという国自体が、強力なリーダー無しに立ち行かなくなってしまったと説く。それが次の世紀の2つの大戦での敗戦の原因であるとか、果てはヒトラーの登場を準備したという論調も紹介されている。ドイツの民主主義と自由主義の発展を半ば意図的に阻害したと説明される。

公平な記述の他にありがたいのは巻末の年表だ。この年表をブラームス関連年表と比較することで興味深い掘り下げが可能になる。年表にも索引にもブラームスの名前は一切出現しないけれど、ブラームスが生きた時代を手際よく集約した代物となっている。

さらに、ビスマルクと同時代を生きた大物の伝記も参考にした。特に以下の2冊。

  1. ナポレオン3世 鹿島茂著「怪帝ナポレオン3世」
  2. ルートヴィヒ2世 シュミット木村真澄美「ルートヴィヒ2世の生涯」

2人とも反ビスマルクなので、この中のビスマルク記述は厳しいことはあっても無意味に甘いことは無い。その他オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世やその后妃エリザベートについての記述も参考になる。

2015年3月13日 (金)

参考文献

ビスマルクネタを収集するに当たって、清水書院刊行の加納邦光著「ビスマルク」が大変参考になった。その末尾の「参考文献」欄は事実上のビスマルク関連書物目録という体裁になっている。著者が広い範囲から情報収集したことがわかる。

そこから興味深いものを抜粋する。

  1. 獨逸国首相比斯馬爾克傳 1875年
  2.  

  3. 日耳曼大宰相比斯馬克政累起源 1877年
  4.  

  5. 比西馬克時代獨逸帝国史 1898年
  6.  

  7. 鉄血宰相ビスマーク逸伝 1914年
  8.  

  9. ビスマルク 1917年
  10.  

  11. ビスマルク演説集 1919年
  12.  

  13. ビスマルク伝 1932年
  14.  

  15. ビスマーク 1935年
  16.  

  17. ビスマルクの外交政策 1939年
  18.  

  19. ビスマルク 闘う人 1941年
  20.  

  21. ビスマルク書簡抄 1944年
  22.  

  23. ビスマルクの平和政策 1971年

ビスマルク関連の文献がこんなにあるのかという感じ。

2015年3月12日 (木)

砲台の名前

ビスマルクが没した1898年まさにその年に、ドイツは清国からの租借地に要塞を築いた。チンタオ要塞だ。1914年第一次大戦が起きると日英同盟を大義名分として日本がチンタオを攻める。10月31日が攻撃開始の日とされている。

要塞内にはおよそ4500名が立て籠もったが、11月7日に降伏し約4000名が捕虜になった。チンタオ要塞攻撃に参加した日本軍は2万数千とされている。降伏の前日にチンタオ要塞の5つの砲台に日本兵が取り付いて攻撃を開始したことで、降伏に踏み切ったらしい。表向きの名目は弾薬が尽きたことだった。

その5つの砲台の名前の中に、「ビスマルク北」「ビスマルク南」「モルトケ」があった。防御施設の要塞にとって砲台は力の象徴だ。これら一基ごとに名前が付けられているのは当然だと思う。そこにビスマルクやモルトケの名前を採用するのも何だかピッタリと来る。要塞の建設の年に亡くなった鉄血宰相と軍神モルトケにあやかって、武運を祈るのだ。

総司令官ヴァルデック大佐は、その後千葉県の習志野に収容されていた。

2015年3月11日 (水)

ユーリエ生誕170年

今日は3月11日。東日本大震災から4年経過した。

実は3月11日はシューマン夫妻の三女ユーリエの誕生日でもある。1845年の生まれだから今日は170周年ということになる。

母クララの面影を色濃く残すユーリエは、ブラームスのひそかな思慕の対象だった。彼女の婚約の知らせに狼狽したというエピソードとともに記憶される女性。その結果「アルトラプソディー」が作曲されたことで名高い。

当のユーリエは、ブラームスの思いに気づいてたという可能性にはすでに言及しておいた。

2015年3月10日 (火)

話題転換の妙

記事「28年」では、鉄血宰相ビスマルクの在任期間と、ブログ「ブラームスの辞書」目標到達までの時間が一致するというおしゃれな偶然に言及した。いわばブログ運営とビスマルクの接点だ。

その後、2日続けてビスマルク関連記事を発信した。先般の記事は、来月2日まで続く第二ビスマルク特集の幕開けでもあった。ブログ運営系の話をビスマルクに転ずる接点におかれた記事が、両者を具備するのは当然だ。

共通の和音を媒介して別の調に移行するのは転調の基本である。

2015年3月 9日 (月)

御意見番

「知識経験ともに豊富で、誰にでも臆せず意見できる人」くらいの意味か。語感から申せばあまり若造では無理っぽい気がする。まれに「天下の」がつく。

例によって音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第2巻79ページで友人のヴィトマンが1880年代後半の時点でブラームスを「新聞に隈なく目を通す政治事件の御意見番」だと評している。続けて「その視点は常に、ドイツとドイツ国民にとっての利益」が判断基準だったと断言する。どういう単語が「ご意見番」と翻訳されているか興味深い。

当時、ドイツ帝国成立後ビスマルク体制の末期に相当する。今まで述べてきたビスマルク関連の話題のほとんど全てに精通していたと考えて間違いは無い。

2015年3月 8日 (日)

大学の先輩

社会に出てから、仕事関係の知り合いが実は同じ大学の出身だったとわかると何となく親近感が湧く。10年以上の差があると話が合わないこともあるが、5年以内だと先輩にせよ後輩にせよ盛り上がる。ドイツでは大学の転校が頻繁に起きるから先輩後輩の絡みは日本よりも多い。

ビスマルクがワーグナーを通じて工作を試みたバイエルン王ルートヴィヒ2世の父、マクシミリアン2世は、ゲッティンゲン大学とベルリン大学に学んでいる。ビスマルクとまったく同じだ。ビスマルクが4つ年下だから、マクシミリアン2世はどちらの大学においても先輩にあたる。1864年に53歳で崩御し、跡を継いだのがルートヴィヒ2世だ。ワーグナーがプロイセン、オーストリアに対抗する第三の勢力になれと講釈をタレた話をしたが、実はそれは父王マクシミリアン2世の政策でもあった。

父王は大学の先輩だが、その息子はビスマルクにとっては若造だろう。

2015年3月 7日 (土)

28年

ビスマルクがプロイセンの宰相に就任したのが1862年だった。その退任は1890年だから、「1890-1862」という引き算で28年という在任期間が求まる。彼は28年の長きに亘って宰相の座にあった。

スペシャルな偶然がある。

私がブログ「ブラームスの辞書」を立ち上げたのは2005年だ。2033年5月7日のブラームス生誕200年までの毎日更新を目標に掲げているから、「2033-2005」という引き算をしてみる。答えは「28」と出る。

正確に申せばビスマルクは27年と6ヶ月の間宰相を務めた。私のブログは27年11ヶ月の間、毎日更新を目指す。宰相の激務に比べればちっぽけなものだが、私とビスマルクの器の違いを勘案すればちょうどいいハンデだ。

ブラームスのご加護にこの偶然を味方に出来れば、きっと達成できる。

2015年3月 6日 (金)

構想の原点

ブログ「ブラームスの辞書」がまもなく開設10周年を迎える。そして書籍「ブラームスの辞書」も刊行10周年を迎える。ブログ開設当初は、書籍「ブラームスの辞書」執筆の動機にさかんに触れたが、最近はずっとそのことには言及していない。10周年を機に再度執筆のアイデアについて言及する。

世の中に音楽辞典は多い。概ね以下に分類できそうだ。

  1. 音楽用語辞典 楽譜上に現れる用語の意味を記す。
  2. 作品辞典 古今の音楽作品を網羅する。
  3. 人名事典 作曲家と演奏家に分かれる。

私だって愛好家の端くれとしてこれらを座右においている。

「ブラームスの辞書」は強いて申せば上記1音楽用語辞典の変形だ。収載の用語がブラームスの作品上に現れるものに限っている。「ブラームス専用」であることに意義がある。ありふれた音楽用語でも作曲家によって使い方が違うということが前提になっている。ブラームス自身が多彩な使い回しを得意としたから、それらの秘密に迫りたいと欲したところが、発想の原点になっている。

およそブラームス作品である限りメジャーな作品もマイナーな作品も同等の重みで扱うという方針を掲げた。収載の対象を「作品番号のある作品」に限ったことで自己矛盾を引き起こしていることは既に明らかだが、旗揚げ時は意気揚々としていた。

作曲家別音楽用語辞典という発想は既存の出版物を見る限り、ありふれた発想ではなさそうだ。特定の作曲家に絞ることでニーズ自体は極端に狭くなるから、商売にはなじみにくそうだが、趣味としてなら成り立つ。

2015年3月 5日 (木)

楽悲傍達の間

「楽悲傍達」とは聞きなれない。私の造語だから無理もない。この4文字の後ろに「観」という文字を補うといい。「楽観」「悲観」「傍観」「達観」という言葉が出来上がる。

ブログ「ブラームスの辞書」運営の心構えを言い表している。これら4つの境地ではないということだ。「楽観も悲観もしていない上に、傍観ほど他人行儀ではない。はたまた達観というほど冷めてもいない」くらいの意味合いだ。

楽観していないことがトップに来る。油断していないと言い換えることも出来る。次に来るのは悲観していないということ。ハードルは高いがクヨクヨはしないという決意が2番手である。さらには傍観でもないと続く。他人事ではないですとの宣言。当たり前だ。記事を連ねることそれ自体が継続だから、止まるも行くも自分次第。最後に達観でもないとしめくくる。お気づきの事とは思うが、「冷めていません」との宣言。

2033年5月7日のフィニッシュまで長丁場だ。クヨクヨしてはいけない。けれども記事のひねり出しに余裕がある訳ではない。けれども他人事ではない。記事を生むも生まぬも自分次第だ。なすがままにというような悟りの境地でもない。

達成までの残り記事が少なくなったら変わってゆくかもしれない。

2015年3月 4日 (水)

就活解禁

ブログで長女を取り上げるのは久しぶりだ。

大学生の就職活動の解禁は今年から早まって3月1日となった。我々のころとは比較にならぬ複雑さだ。しんどいしんどいと言いつつ、あれこれ積極的に対応している。昨年から就職情報の収集を始めたが、着眼と消化が鮮やかだ。

解禁を翌日に控えた2月28日、私は長女と次女と母と連れ立って、南房総にドライブに出かけた。長男はお留守番だったものの、家族4人でのドライブは久しぶりだ。就活解禁を前に、英気をやしなった。

お花畑と海を満喫できた。妹とともに終始おばあちゃんを気遣う様子が、花や海にもまして嬉しかった。

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2015年3月 3日 (火)

未完の理由

シューベルトの交響曲ロ短調は「未完成」として名高い。これを第8番として認識していたがどうも怪しいらしい。未完の交響曲に番号が与えられているのも不思議と言えば不思議である。

このロ短調交響曲が「未完」であることの原因として、「3拍子の連続」を指摘する人がいる。

第1楽章が4分の3拍子、第2楽章が8分の3拍子、さらにスケルツォをお決まりの4分の3拍子で書き始めて行き詰まったというのがその根拠だ。

3拍子の連続がそれほど珍しいのかブラームスで確かめてみた。対象は全室内楽24曲、交響曲協奏曲全8曲、これにピアノソナタ3曲を加えた35曲である。つまり多楽章ソナタだ。

第1楽章から第3楽章が同じ拍子というケースは1件も無かった。第1楽章と第2楽章が同じ拍子というケースでさえたった1件、ピアノ協奏曲第1番だけである。第2楽章と第3楽章が同じというケースは何件か発見できた。

危ないのはピアノ四重奏曲第3番。第1楽章が4分の3拍子で、第2楽章がスケルツォだから、相当ピンチだが、スケルツォを8分の6拍子とすることで回避している。ピアノ五重奏の第3楽章も同様だ。

3連続3拍子というのは確かに異例だ。ましてや3月3日の記事としても若干無理があろう。

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2015年3月 2日 (月)

情報量

ネット上のコンテンツを評価する尺度の一つと目される。当然「多い」ことが高評価に繋がる。おそらく単に記事の量が多いだけという場合には、「情報量が多い」とは言われない。サラリーマンの日常や家族のやりとりが相当数堆積したところで「情報量」などと称してはお里が知れてしまう。

  1. 情報の絶対的な多さ
  2. 情報の鮮度(更新の頻度)
  3. 情報のお役立ち度
  4. 情報のオタク度
  5. 情報のここだけ度

おそらく上記のようなパラメータが複雑に絡んでいると思われる。

ブログ「ブラームスの辞書」は3600日を超えた。

「情報量」を売りに出来るようなブログを目指したい。

2015年3月 1日 (日)

アガーテ忌

今日3月1日はアガーテ・フォン・ジーボルトの命日。1909年3月1日に没した。私の性格からして2009年の没後100年に公開するのがふさわしいが、当時はまだ彼女の命日を知らなかった。だからやむなく本日の公開とする。没後106年だ。

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