書かないという主張
私に関して申せば記事は、文字の羅列。そこからブラームスへの思いを何とか浮かび上がらせようと格闘しているところだ。譜例や画像は本当に少ないから、文字の羅列という要素が幅を利かせている。
書くことが唯一の主張と申してよい。それが自然だが、実は記事の総数がソコソコ増えてくると別の切り口も見えてくる。それが本日のお題「書かないという主張」だ。3600を超える記事を公開しながら言及されていないことに意味が出てくる。言及を避けることに意味があるのだ。
- クララとブラームス 芸術のパートナーとしての2人の関係については再三言及している一方、恋愛の当事者としての2人の関係を取り上げることは無かった。
- 演奏家論 ブラームス作品の演奏を横並びにし、演奏家による違いの「好き、嫌い、良い、悪い」に言及した記事がない。わずかに4~5人「良い」という切り口で言及したことがある。
2者に共通するのは、私が話題に取り上げなくても世の中にはこれらについての文章がたくさんあるということだ。クララとブラームスを切り口に据えた恋愛ネタは、これを取り上げることと記事の品格を両立する自信が無いということだ。大半を推測に頼らねばならないから、さじ加減が難しい。ブラームス生誕200年までブログを継続するうちに、その辺りを克服する筆力がついたら取り上げるかもしれない。
2番目の演奏家論不在もまた私の能力に起因する。同じ作品を演奏しながら、演奏者によって差異が出ること自体は疑う余地は無いが、その差異を毎度聞きわける耳を持っていない。聞きわけが満足に出来ないのだから、「好き嫌い」はともかく「良い悪い」の議論が出来るハズがない。ましてや人様にお勧めなどもっての他である。クララ&ブラームスの恋愛ネタは、いずれ言及する日が来るかもしれないが、こちらは絶望だ。
本当は我が家にあるCDについてあれこれと屁理屈を弄すれば数百本の記事になることは明白だ。「ブラームスお気に入りCD」などというカテゴリーを立ち上げれば、それなりに盛り上がるだろう。アクセスのされ方を研究する限り、アクセス増の早道にでもなりそうだ。これに背を向けるのは記事の本数稼ぎという面でも、アクセス獲得という面でもマイナスだがやむを得ない。
スペシャルコンサートまであと12日。
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