小出し
物事を一度に公開せずに、少しずつ公開することくらいの意味か。
私が19歳でブラームスを生涯の作曲家に決めたとき、ブラームスは既にこの世になかった。当たり前である。音楽心がついた頃には、ブラームスの全作品が世の中に公表済みであったということだ。望みさえすればほぼ全ての作品の録音を聴くことが出来た。ブラームスという作曲家への興味が深まるにつれて次々とレコードやCDを買い求めた。まさに「ずるずると」という表現がはまりこむ状態だった。もちろん楽譜も全てが公表済みだ。全ての作品が公表され尽くしていてこれ以上増えないことは、研究の対象としてはまことに好都合だ。
ブラームスと同世代の人々はそうではなかった。ロベルト・シューマンのセンセーショナルな紹介文に始まる約40年と少々の間、珠玉の作品が小出しにされたのだ。クララ・シューマンやヨアヒムはブラームスが次々と小出しする作品を真っ先に味わう権利を有していた。物心付いたときには全て出揃っているのとどちらが幸せだろう。2つのピアノ協奏曲が店頭で当たり前のように隣り合わせに陳列されていることに慣らされてしまっているから、普段は忘れているが、両協奏曲は20年の歳月を隔てているのだ。ニ短調協奏曲が唯一のピアノ協奏曲だった時間が20年もあったということなのだ。ブラームス作品を全部手許で聴けて幸せだが、この種の小出しならされてみたい気もする。
実は小出しも嫌いではない。ブログ「ブラームスの辞書」は書き溜めた記事の中から毎日1つを小出しにすることで成り立っている。
スペシャルコンサートまであと7日。
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