ヘルメスベルガー四重奏団
ヨーゼフ・ヘルメスベルガー・シニアによって1849年に結成された弦楽四重奏団。息子のヘルメスベルガー・ジュニアに引き継がれ1902年まで活動を継続した。創始者ヘルメスベルガーシニアは1842年に活動を開始したウィーンフィルのコンサートマスターだ。コンマスが弦楽四重奏団を組織するという同オケの伝統はこの時から始まる。
同カルテットの功績は枚挙に暇が無い。いわゆる「ウィーン古典派」により完成された弦楽四重奏というジャンルを磐石なものにした。ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲の復活や、シューベルトの復活に尽力した。1868年にはダヴィッド・ポッパーをチェリストに迎えたほか、チャイコフスキーのコンチェルトの初演者として名高いブロツキーをセカンドヴァイオリンに据えるという威勢を誇った。サッカーで申せばレアルやバルサみたいなものだ。
1862年11月16日に同四重奏団のメンバーとブラームス本人のピアノでピアノ四重奏曲第1番のウィーン初演があった。これがピアニストブラームスのウィーンデビューだ。同月29日にはピアノ四重奏曲第2番の世界初演が同じメンバーで行われた。
まだハンガリー舞曲も出ていない。「ドイツレクイエム」も出ていない。ハンブルクから9月にウィーンに進出したばかりのよそ者ブラームスの作品が、わずか2ヵ月後にヘルメスベルガー四重奏団に演奏された事実は重い。ブラームスをヘルメスベルガーに紹介したのは、ピアニストのユリウス・エプシュタインだ。ブラームス作品の出版前の楽譜を見てヘルメスベルガーは、自宅にブラームスを招いて試演し、ついには公開演奏に踏み切った。「ベートーヴェンの後継者が現れた」と絶賛することも忘れない。
ウィーン最高の弦楽四重奏団の創始者にして、ウィーンフィルのコンマスが与えた評価は、ウィーンでのブラームスの名声を高めたに違いない。
これを機に同四重奏団はブラームスと緊密な関係を続けることになる。弦楽四重奏曲第1番の初演のほか、ヴァイオリンソナタ第2番の初演をヘルメスベルガーシニアが担った。
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