急ブレーキ
運転手が急ブレーキをかけると、中に乗っている人の身体は前方に投げ出される。速度によって程度は様々だが、何人たりと言えども慣性の法則から免れることは出来ない。シートベルトはそのためにあると申してよい。
音楽でそれを感じることが出来る数少ない場所が弦楽六重奏曲第1番の中にある。第1楽章189小節目だ。展開部も中盤182小節目に、全楽器渾身の「ff」に到達する。第1楽章始まって初めての「ff」だ。ヴィオラの16分音符はチェロと協力して第1主題の変形を奏でている。ヴァイオリンは変則的な3連符の半音進行で切迫感を煽る。187小節目で当面の目的地ハ長調に達する。
- ヴァイオリン 3連符
- ヴィオラ 16分音符
- チェロ 8分音符
という役割分担でハ長調の和音が「ff」で5拍間固定される。ヴィオラは1番2番とも重音とされて、推進のエネルギーは最大値に達する。どうなることかと思った瞬間の189小節目、ヴァイオリンとチェロが小節頭に楔を打ち込むと同時に、ヴィオラが3連符にすり替わる。このとき身体が前に投げ出される錯覚に陥るのだ。
続く190小節目には8音符にたどり着いて急激にダイナミクスが減じられる。実際にはテンポが減じられる訳ではないが、推進力の減衰が遺憾なく表現される。ヴィオラ奏者2人は一致協力して192小節目までの3小節間でヴァイオリンの泣きを準備するのだ。推進力の減衰とともに和音の微妙な色合いをも変化させねばならない。
実はこの場所ヴィオラ弾きにとって第1楽章屈指の見せ場である。
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