長いハミング
音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第1巻117ページに面白い話が載っている。1876年夏、バルト海に浮かぶリューゲン島でブラームスと休暇をともにしたジョージ・ヘンシェルの証言。
ピアノ四重奏曲第3番第3楽章アンダンテをハミングしていたら、ブラームスがお気に召したようで、50小節目の半音階的フレーズにさしかかったところで、拍子をとるように優雅に身体を動かして、伴奏をしてくれたとある。
いやはや興味深いのだが、謎も含まれる。この場所、掲載されている譜例は、同楽章の50小節目アウフタクトからのチェロの旋律だ。ヘンシェルはチェロの旋律をハミングしたとわかる。それでは、その場所で伴奏をしてくれたというのはどのパートだろう。急遽その場にあったピアノを鳴らしたのだろうか。本文の表現だけでは断定は出来ぬが、チェロ以外のどこかのパートをヘンシェル同様にハミングしたのではあるまいか。
ピアノのパートは、絶対にハミングにはなじまないフレーズになっているので、ハミングしたとすれば、ヴァイオリンかヴィオラのパートに違いない。直感ではヴィオラのパートを推したい。50小節の冒頭で、ブラームスはヴィオラの「Fis」を歌えば、ダブルシャープの「Fisis」を出すヘンシェルと8分音符一個分だけ可憐な衝突がおきるからだ。
さて、驚きは他にもある。ヘンシェルはそのハミングをどこから始めたのだろう。「アンダンテをハミングしていたら」という本文の表現だけでは、必ずしも明らかではない。楽章の途中からだったとしても何等不思議ではない。しかししかし、この作品この楽章を愛する者の一人として申し上げれば、絶対に楽章冒頭からハミングを開始したと確信している。
ヒントは譜例だ。これがチェロの旋律になっている。同楽章冒頭のチェロは、ブラームスがチェロに与えた最高の旋律だ。ヘンシェルはその最高のチェロのパートを最初からハミングしたのだ。
とすると、もっと凄いことがわかる。彼は冒頭から延々50小節間ハミングを続けたことになる。主旋律がヴァイオリンに移る箇所ではヴァイオリンのパートに乗り換えたかも知れぬが、作曲者の眼前で50小節ハミングで歌うというのは只者ではない。
ブラームスがお気に召したというのはそのトライだと思われる。
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