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2015年10月31日 (土)

標題考

19世紀欧州の音楽シーンを象徴する概念に「絶対音楽」「標題音楽」がある。この2つの概念は相反する概念で、当時の音楽業界を2分した論争があったとされている。

この2つの概念の定義など私の手には余るが、愛するブラームスが前者「絶対音楽」陣営の重鎮だったことだけはいつも心に留めている。絶対音楽などと言うとものものしいが、超平たく申せば「標題音楽」じゃあない音楽だ。つまりブラームスは標題音楽ではない作品を発表し続けた作曲家だったと位置づけられている。大まかな話である。

「標題音楽」とは「標題」を伴う音楽だ。となるとsymphnie(交響曲)konzerto(協奏曲)intermezzo(間奏曲)は標題には当たらないという結論にたどり着く。これらの表現はブラームス作品の根幹だからだ。楽曲の曲種、ジャンル名はここでいう「標題」には当たらないということなのだ。曲種名、ジャンル名とは別に作品に付与された詞書きが「標題」と呼ばれていると解さざるを得ない。「田園」のような単語とは限らない。文章であることもしばしばだ。

また、作曲家本人の関知しないところで誰かが勝手にニックネームを奉ってしまったケースもここでいう「標題」には当たらない。1番を「第10」、2番を「ブラームスの田園」、3番を「ブラームスのエロイカ」と呼ぶケースもあるが、ブラームスの交響曲は標題音楽とは考えられていない。

一方、ブラームスの創作の一つの柱を形成する歌曲にはしばしばタイトルが付いている。しかしそれらが標題音楽と見なされることはない。テキストが元々タイトルを持っていて、ブラームスはただ付曲しただけの位置づけだからだ。

上記を総合すると、標題とは「作曲家本人が自らの作品に対して付与する詞書き」と解されよう。その目的は「作品の理解や普及を助けるため」と目される。ブラームスの生きた時代にはその意味の「標題音楽」がかなり栄えていた。ブラームスの若い頃の作品には一歩間違えれば「標題音楽」に走りかねない気配も散見される。どっちに転ぶ目もあったのに「絶対音楽」を選んだのがブラームスなのだ。

ブラームスは自分が言いたいことは音楽だけで完結することを美徳としていた節がある。タイトルや詞書きの助けを借りねば言いたいことを表現出来ないのは作曲技術の未熟とさえ考えていた可能性を想定したい。形式、楽器編成、和声構造等のあらゆる種類の制約の中で、自らの音楽的主張を盛り込みきってこその作曲であると考えていたのではあるまいか。無論そうした技術・作曲技法は、芸術と継ぎ目無く融合していなければ話にならぬのは、不可避の前提であった。

ブラームスは特に器楽作品において標題を伴わぬ作品を連発した。しかしながらブラームスは自らの音楽を「絶対音楽」と考えていたとは必ずしも断言できない。標題を付与せぬ姿勢が一貫していることすなわち「絶対音楽」という短絡は実は何だか危ない気がする。ブラームスはそんなものには興味がなかった可能性も低くないと思う。

つまり、ヴァイオリンソナタ第一番を、人々が「雨の歌」と呼よんだところで、それは人々の都合でしかない。

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