音強のバランス
弦楽五重奏曲第2番ト長調op111の成立を巡るエピソードだ。
第1楽章はチェロの雄渾な旋律によって立ち上がる。チェロの登場に先立つこと1小節、ヴァイオリンとヴィオラ各2本の計4本は協同してさざ波状の分散和音を響かせる。ブラームスはこの伴奏声部のダイナミクスに「f」を使用している。
初演を担ったロゼ四重奏団のチェリストやヨアヒムはこの「f」に疑問を差し挟んだ。この場面主役はチェロであるから、他の楽器のダイナミクスは「f未満」であるべきだというのがその論旨である。24あるブラームスの室内楽の20番目の室内楽だけに、意見をした仲間もブラームスの嗜好には知悉した上での助言である。一応ブラームスはあれこれ対応策を提示して議論するが、結局元のままになった。現在流布する楽譜は「f」となっている。チェロは「sempre f」だから、主旋律のチェロに音強表示上の優越を発生させていない。ヨアヒムを筆頭とする知人たちは、この点を不審に思ったと解される。チェロに主旋律マーカーを付与するか、他のパートに微調整語を与えてチェロの優越権の表明があっても不思議ではないところだ。ブラームスの語法に精通している者ほどそう感じるはずだ。
これらの議論についてどちらかの陣営に軍配を上げるのが本稿の主意ではないし、私にその能力もないが、実は嬉しいことがある。ブラームスがこれらのダイナミクスの微細な違いに対して非常に敏感だという事実一点である。それでこそ「ブラームスの辞書」を書いた甲斐があるというものだ。
ブラームスが信頼するに足る友人の助言を一旦は受けて、あれこれと代案を模索したが、結局元のままに落ち着いたという事実は重大だ。いろいろなこと全てを承知でやっぱり全パートに「f」を奉ったと思わざるを得ない。チェロパートに置かれた「smepre f」は意味深である。結果として助言を退けざるを得なかったブラームスのせめてもの譲歩だと思えてならない。つまりこの「sempre」「常に」には軽い強調が意図されていると見たい。「継続のsempre」ではない、第二の「sempre」いわば「強調のsempre」を提唱する理由の一つがこれである。
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