室内楽史的位置づけ
厳密に突き詰めようとするなら、「室内楽の定義」は、少々厄介だ。だから「室内楽の歴史」にだってその厄介さが投影されてしまう。当然のことながら私の手には余る。ブラームスを室内楽史上に位置づけようなど、僭越もいいところだ。
作品は個別に味わえば事足りる。歴史的側面など無用だと言われれば返す言葉は無い。しかし、それこそが私の性格、本ブログのキャラだ。突き詰めの完全さは棚上げにして、今ブラームス室内楽の位置づけを私なりに試みる。
「室内楽という巨木に咲く、最後の大輪」
異論、お叱り覚悟の上。8歳年下の盟友ドヴォルザークが厄介な例外を形成するかとも思えるが、ブラームスの死後に室内楽を残していないという点が、決め手となってそう断ずる。バルトークやショスタコーヴィッチの関係者には不興を買うことも覚悟の上だ。彼ブラームスは音楽史上における室内楽の連綿とした伝統を深く心得ていた。それを踏まえた上でなお、敢然と自作を世に問うた。時代錯誤のそしりを覚悟で室内楽の保守本流の真っ只中に自作をそっと置いた。
根拠を提示すればするだけ、反論の余地も与えてしまう。知識の浅さも露呈するだろう。ブラームスが遺した人類の至宝24曲だ。室内楽ツアーを終えるにあたっての率直な感想である。
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