時候の挨拶
手紙の冒頭に置かれる季節感を盛り込んだ定型の挨拶文のことだ。文例集なども出回っている。温暖化をはじめとする異常気象はともかく、この時期はこんなものという経験の蓄積が反映している。古来日本人は季節の移ろいを愛でてきた。たまによこす手紙にタイムリーな季節感の反映がないことは野暮とされてきた。徒然草にも、大雪の朝に届いた手紙の中に、その雪への言及がないことを興ざめとする件がある。
そもそもブラームスを含む欧州のクラシック作品に日本的な季節感を過剰に期待してはいけないのだ。ヴィヴァルディが珍重されるのは、例外だからなのだ。
ひるがえって我がブログ「ブラームスの辞書」では、記事の中に時候の挨拶が掲げられることは少ない。限られた文字数の中で思いのタケを盛り込むことに特化した結果、時候の挨拶が省略の憂き目に遭っているのだ。
どうだろう。毎日更新の記事が毎回時候の挨拶で始まったら重たくなるような気がしている。逆に記事の枯渇を時候の挨拶でごまかすようになったら潮時だと思っている。
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