ワールド
中学生ならば「world」と綴って「世界」と答えれば丸を貰える。大学生でも社会人でもきっと誤りとはされないだろう。しかしカタカナで「ワールド」と書くと別のニュアンスが生まれているとも感じる。
特定個人の強烈なキャラクターにより、良くも悪くも他と明確に区別出来る小集団・小領域が形成されている場合、「○○ワールド」と称されることがある。「○○」に入るのは特定の個人名だ。小宇宙というニュアンスに近い。その特定の個人にカリスマ性が宿っていることも少なくない。
古今の大作曲家は皆ワールドを持っていると思われる。ワールドを持つことが大作曲家の定義かとも錯覚してしまう。たとえば同じピアノという楽器を用いながら誰にも真似の出来ない作品を書き、それらが一聴して彼の作品と解る体臭を持ち、結果作品群としても揺るがぬ個性を発揮する。ショパンしかり、バッハしかり、ベートーヴェンしかりだ。ピアノがオケに変わってもオペラに変わっても同じ事だ。
無論ブラームスにもワールドがある。
私はそのワールドにとことん惚れ込んだ人間だ。そして私の著書「ブラームスの辞書」はブラームスワールドのガイドブックでありたいと心から願うものだ。さらにこのブログは4000に近い記事を積み上げてもなお発信をやめない。
いつの日か「アルトのパパワールド」になることを夢見ている。
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