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2016年5月31日 (火)

伝記たるもの2

昨日「伝記たるもの」でロベルト・シューマンの伝記を巡ってのクララとのやりとりから、ブラームスの伝記観に光をあてた。

本日はスイスの詩人ヴィトマンとのやりとりから再びブラームスの伝記観を覗いてみたい。

晩年にさしかかったブラームスに厄介な出来事があった。若い頃父親に宛てた手紙が、よからぬ人物に渡り、競売屋のカタログを飾ってしまったのだ。友人が即刻落札しブラームスに返却したことで事なきを得たらしい。この事件をキッカケにヴィトマンがブラームスの伝記観を聞いたというのだ。

芸術家の伝記の良し悪しは、記述を通じてその芸術家の尊敬に繋がるかどうかにかかっているという。この尺度で見てブラームスが当時の伝記を格付けしている。音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第3巻98ページだ。

<よい>

  • シラー
  • ゲーテ

<ふつう>

  • モーツアルト

<わるい>

  • ベートーヴェン 一部の手紙によってベートーヴェンの人間性の悪さが伝わりかねない。「知らなきゃよかった」と感じる歓迎されない情報が混入している。

「事実を書けばよいというものではない」とも読める。

私のブログは、どうだろう。ブラームスへの尊敬に繋がるのだろうか。

2016年5月30日 (月)

伝記たるもの

シューマンの友人ヴァジレフスキーが、最初のシューマン伝を書いたと述べた。

ところがところが執筆にあたり協力を求められたクララは、感謝の意思表示はしたものの協力を拒んだ。クララはつまりワジレフスキーを信じていなかったといういことだ。

だからシューマン伝ではあるもののクララ未亡人のお墨付きではないのだ。ブラームスも出来映えには不満を表明している。曰く「公平であることは結構だが、冷淡であってはならない」「伝記を読むことが万人にとっての喜びになるべき」とある。

ヴァジレフスキーという人は、デュッセルドルフのコンサートマスターだった。ここのオケは晩年のシューマンと確執があった。最終的には決裂した。そこのコンマスの記述だから、決裂の原因の一つであった精神の変調について誇張した表現が目立ったらしい。

ブラームスの感想はこのことを踏まえていると感じる。

クララの感想もブラームスと一致していた。

後年クララは、新たなシューマン伝の執筆をブラームスやヨアヒムに相談している。ブラームスは「伝記の執筆には心と同時に文才も必要」と述べ、自分にもヨアヒムにも手に余ると答えている。

ブラームスの伝記観を垣間見ることが出来る。

2016年5月29日 (日)

伝記1冊記事10本

以前ドヴォルザークイヤーの間、いろいろな調べ物のために書物をあたった。つくづく感じたのは、ブラームスに関する資料の豊富さだった。もちろんバッハやモーツアルト、ショパン、ベートーヴェンというようなスーパースターに比べれば劣るものの、ドヴォルザーク系の資料に比べれば遙かに恵まれている。ドヴォルザークだって相当な人気者のはずだが、日本語で読める資料はあまり多くないと感じた。

ブラームスの伝記は日本語で読めるという条件で絞ったとしても豊富だ。

未読の伝記1冊を買って来るとそれだけでネタが10本分は集まる感じだ。伝記作者が違えば元にした執筆の方針も範囲も変わってくる。根本のソースは同じでもキチンと全てを晒してくれる場合もある。初耳のネタにはもちろん飛びつくが、既知のネタであっても掘り下げ方が様々で面白い。複数の伝記において言及されるネタは、ブログ記事にするにも安心感がある。また伝記によって内容が微妙にずれているエピソードもあって興味深い。

今までどうにも納得が出来なかった事実関係が、新規入手の伝記1冊で解決ということもある。

2016年5月28日 (土)

ヨコ展開

話題の展開のさせ方の話だ。

ブログ「ブラームスの辞書」は話題をブラームスに限っている。ざっと見て7割はブラームスネタだ。何を血迷ったかこのノリで2033年のブラームス生誕200年まで継続しようと決めたから記事のネタを確保しなければならない。

従来はブラームスの伝記に登場する他の作曲家にも話題を広げるという手法用いてきた。バッハがその代表だ。実は最近この逆を考えている。他の作曲家の伝記にブラームスがどの程度引用されているかという視点だ。

私がブラームス以外で伝記をまともに読んだことのある作曲家は多くない。ベートーヴェン、バッハ、モーツアルト、ドヴォルザーク、シューマンくらいだ。この中で言えばシューマンとドヴォルザークの伝記にはブラームスの名前が頻繁に出てくる。バッハの伝記にはまず登場しないが研究書になると見かけるようになる。ベートーヴェンとモーツアルトではブラームスにはほとんど言及されない。

感心したのはドヴォルザークだ。予想以上にブラームスが出てくる。2人の関係を思うと当然だ。ブラームス本人の伝記では載っていないようなことまで言及されている。ということはシューマンが長生きしていたらもっと伝記にブラームスの名前が出たのだと思う。代わりにクララの伝記の中でたくさん言及されているのもうなずける。ワーグナーやリスト、あるいはブルックナーの伝記を調べたら面白そうだ。

面白そうだとは思うのだが、気が進まない。

2016年5月27日 (金)

伝記の罠

伝記の目的は、主人公の宣伝だ。もっと思い切って断言するなら長所の宣伝だ。凄さ、偉さを読者に伝えることが主眼である。この目的に照らして誇張と省略が行われているのが普通だ。さらに資本主義の論理がこれに加わる。伝記といえども書物である以上、出版社にとっては飯のタネだ。売れなければならない。売れる内容が、真実よりも優先されるという事態も起きる。

たとえばクララ・シューマンの伝記は、主人公クララの凄さ、偉さを読者に伝えることが目的だ。読者はそれを期待している。登場人物はそうした目的に合致するよう描写されている。クララの伝記の中に出現する以上、それがヨハネス・ブラームスであっても例外にはならない。あとがきに「これをキッカケにクララのことを好きな人が少しでも増えれば幸いです」などという著者のメッセージが書かれているようだといよいよ覚悟が要る。

一方わが「ブラームスの辞書」はこれら伝記とは以下の点で一線を画す。

  1. ブラームスの凄さなんぞ、読者の方が既によく知っているという前提に立っている。だからブラームスの凄さ、偉さを今更改まって伝える必要がない。
  2. 伝えたいのはブラームスの凄さではなくて、私自身がどれほどブラームスを好きかという点にある。

とはいえ、「ブラームスの辞書」の情報ソースは伝記を含む書物である。クララをはじめとする他者の伝記が、それ相応の誇張や省略を含むことは十分承知だ。もっとも注意しなければいけないのは、ブラームス自身の伝記に含まれるこの手の操作だ。かく申す私自身既に誰かの思うツボの中にいる可能性は低くない。

その点で一番安心なのは作品かもしれない。

2016年5月26日 (木)

じんわりと伝記

お気づきの方は少なくないはずだ。5月20日にクララシューマンの没後120年を話題にしてから、実は伝記特集に突入していた。

乙女たちの引退公演の余韻は余韻で楽しむのだが、ブログ記事の更新だけは別物だ。粛々と話題をつないでゆく。

2016年5月25日 (水)

ウルトラマン

1966年7月17日から放送された、「特撮変身巨大ヒーロー物」の嚆矢。当時小学校1年だった私ももちろん夢中になった。お化け視聴率をたたき出した伝説には事欠かない。これをキッカケに「巨大ヒーロー」が続々と登場した。人類のために宇宙人や巨大生物と戦うのだから、どこかでマグマ大使とバッタリ鉢合わせしないかと真剣に悩んでいた。大人の事情を全く考えずに、手に負えない敵が現れたら協力すればいいのにとマジで思っていた。だからウルトラセブンとウルトラマンの共演が実現したときは、心から嬉しかった。

これらのヒーロー物は完全に一つのワールドを形作っている。ウルトラマンの世界はそれだけで完結していて、マグマ大使は入り込む余地がないのだ。仮面ライダーやサンダーバードだって同じだ。

大作曲家も事情が似ている。特定の個人にとことんのめり込んでいると、あたかも独立の世界が存在しているような錯覚に陥る。ブラームスに傾倒するあまり、他の作曲家が見えなかったり聴けなかったりする。身に覚えありまくりだ。確かに大作曲家と目される面々は、強烈な個性が宿っているのだが、生存当時は社会から超越したり隔絶されていた訳ではないのだ。特定作曲家の作品全集がCDや楽譜で手軽に入手出来るという環境は、よく考えると不思議だ。

ブラームスの生涯を詳しく観察すると、大作曲家のエピソードが必ず存在する。ブラームスの時代には既に亡くなっていた人もいれば、同世代を生きたライヴァルたちの痕跡が記されている。ウルトラマンとウルトラセブンの共演みたいなものだ。

2016年5月24日 (火)

ヴァジレフスキー

ウィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・ヴァジレフスキは、ボン在住の音楽学者・指揮者兼ヴァイオリニストだ。ロベルト・シューマンの友人である。最初のシューマン伝の著者でもある。

1853年夏ヨアヒムにシューマン訪問を勧められたが、ブラームスは決断できない。しからばとばかりに今度はヴァジレフスキー訪問を勧めたのだ。ここでブラームスは、シューマンについてのより深い知識を得た。最終的にシューマン訪問を決意したのは、このヴァジレフスキーの説得によるところが大きい。

彼の説得が不調に終わり、ブラームスがシューマンを訪ねていなかったら音楽史は、少しは変わっていたと思う。

2016年5月23日 (月)

エピソードの効能

クラシック音楽のとりわけ名曲と位置づけられる作品には、様々なエピソードがセットになっているケースが少なくない。ブラームスにだってヤマほどある。

たとえばヴァイオリンソナタ第1番を「雨の歌」たらしめている事情は、シューマン夫妻の末っ子フェリクス抜きには説明出来ない。ブログ「ブラームスの辞書」でもしばしば言及してきた通りだ。

そこで疑問。ヴァイオリニストがそうしたエピソードを知っているのといないのとでは演奏に差が出るものなのだろうか?エピソードを知っていてもただちに素晴らしい演奏が出来る訳ではないことは私を見れば明らかだ。たとえばテクニック面で差の無いヴァイオリニストが2人いたとする。一人は音楽の本質とは関係ない伝記的事項に精通しているが、もう一人はさっぱりだった。はたして2人が演奏する「雨の歌」には差が出るのだろうか?

私の考えは既に固まっている。「差が出ない」と思う。「知っていた方が良い」とさえ言えないと思う。2種類のCDを用意されて「さてこれらの演奏のうち、フェリクスのエピソードを知らずに弾いているのはどちらでしょう」と問われたらお手上げだ。暗譜もこれに似ている。「さてこれらの演奏のうち暗譜で弾いているのはどちらでしょう」は、究極の難問だ。つまり区別出来はしないのだ。

弾き手側の知識の有無は演奏の出来に影響しないとは思うが、聴き手になると無視出来ないと思う。そうしたエピソードは、聴き手側の脳裏に深く進入して、鑑賞の味わいに影響する。エピソードを知る前と後では、同じCDを聴かされても感じ方が変わることは多いにあり得る。少なくとも私の聴き方はそうだ。

2016年5月22日 (日)

伝記

書籍のジャンルという意味において「伝記」は大変大きな勢力になっている。特定の人物の生い立ち、業績を記した書物とひとまず定義出来よう。

小学校の学級文庫でも多く蔵書されている。野口英世、ベートーベン、ヘレン・ケラー、リンカーン、キュリー夫人、ライト兄弟、ナイチンゲール、エジソンといったあたりが常連。伝記が書かれる書かれないの基準は全くもって曖昧だが、子供向けの伝記は更に拍車がかかる。一応教育上良いということなのだろう。

伝記は、主人公の一生の間に起きたエピソードの羅列と言い換えることが出来る。これを書くことを思いついた伝記作者は、主人公の人生をトレースする資料を集めねばならない。主人公本人の日記、自伝、書簡などが残っていれば第一級の史料となる。同時代に記述されたという意味でも価値は高い。この史料の弱点は、主人公の幼少の時代が空白になることである。作曲を5歳でしてしまうような天才でも日記が3歳から残っていたりすることは希だろう。仮に書いていたとしても残っているかどうかも課題になる。将来子供が偉人になることを想定して幼少時代のことを詳細に書き残す親がいるかどうかである。その点モーツアルトの父レオポルドはかなり優秀と言わねばなるまい。我が家の子供たちも私が書いた日記が皆それぞれ生後6年分残っている。写真付きなのでレオポルドより上だが、肝心の子供の才能が悔しいけどレオポルドに負けている。

ブラームスも同じだ。どの伝記を読んでも幼少時のことはあまり詳しく書かれていない。早くからピアノの才能を示していたが日記は残っていないのだ。それどころか大人になってからの日記も残っていない。多分書いていないのだろう。それでも伝記のページをめくると20歳でシューマン家を訪問して以降の記述が厚くなっている。古来からの研究の成果だが、友人知人がブラームスのことを書き残していることが多くなることが貢献している。筆頭格はシューマン夫妻だ。

ブラームス本人は自ら多くを語る方ではない。「言いたいことは楽譜の上に」という寡黙な職人タイプである。伝記が退屈しないのはひとえに友人知人のおかげである。何だか日本史に似ている。古事記日本書紀が編纂される以前の歴史書は現在伝わっていない。歴史書が存在したことは確かながら、断片にとどまっている。さらに古事記日本書紀は、8世紀になって完成された書物だ。8世紀から数百年前を記述している点が弱点にもなっている。いわゆる同時代史ではない。これを補って日本史の黎明期の記述に幅を与えてくれているのが中国の史書だ。中国では王朝が代わると前の王朝の歴史書を編纂する仕組みになっていたという。その度に周辺の国々の様子が丹念に記録されていた。「周囲には野蛮人の国々がこれだけあって皆我が王朝に忠誠を誓っていた」という筋立てである。

作品の出来映えとは対照的に口数の少ない主人公が周囲の人間の証言でいきいきとよみがえったという側面が誰にもまして強いブラームスである。

2016年5月21日 (土)

最後のページ

「真実なる女性 クララ・シューマン」という書物がある。クララ・シューマンの伝記の老舗だ。我が家にあるのは1980年出版の第7版だ。

クララファンはもちろんシューマンやブラームスの愛好家の帰依を勝ち取ってきた。そりゃあ伝記だから、美化も誇張もあるだろうが、ロマン派真っ只中を駆け抜けたクララの伝記だけに登場人物が華麗で飽きが来ない。

このうちの18章が「ヨハネス・ブラームス」とタイトリングされている。1853年のブラームスによるシューマン家訪問のことが描かれる172ページのことだ。

この本によれば、クララとロベルトの初対面は1828年だ。結婚が1840年で、死別が1856年。16年の結婚生活だ。初対面からカウントしてもシューマンとのおつきあいは28年ということになる。

一方ブラームスとの初対面は1853年で、クララが没したのが1896年だからその交友期間は43年にも及ぶのだ。クララ側はともかくブラームスの人生の後ろ3分の2はクララとの交友に支えられていたことになる。

先の「真実なる女性 クララ・シューマン」という本は277ページで結ばれる。そこに置かれているのはクララ・シューマン没の記事ではない。クララの死から1年も経ずして没したヨハネス・ブラームスの記事である。クララ・シューマンの伝記はブラームス臨終の記事で結ばれているということなのだ。少なくともこの伝記の作者は、クララにとってもブラームスは無視し得ない存在であったと考えていたことは明らかだ。

クララがその死後、ロベルト・シューマンの横に葬られているのに対し、ブラームスはウイーン中央墓地に一人で眠っている。私のようなブラームス愛好家にとっては、切ない事実である。ブラームスがモーツアルトやシューベルト、ベートーヴェンと並んで葬られているにしてもだ。

残した音楽が世界中から愛されていることと引き換えだとしても、合点がゆかない。しかし、その手の理不尽を一手に引き受ける度量もブラームスの魅力のうちである。少なくとも残された作品のたたずまいからそう推定出来る。

2016年5月20日 (金)

クララ没後120年

本日2016年5月20日はクララ・シューマンが没してから120年にあたる。今年は地味にメモリアルイヤーだ。1996年5月20日フランクフルトにて没した。

ブラームスは葬儀に参列後、体調を崩して、一周忌を待たずに没することになる。

2016年5月19日 (木)

ドイツ行進曲総集編

ドイツ行進曲総集編。

  1. 2016年04月18日 ドイツの吹奏楽
  2. 2016年04月19日 マーチの作曲家
  3. 2016年04月20日 モルトケ伯爵
  4. 2016年04月21日 同一歩調
  5. 2016年04月22日 Alte Kamaraden
  6. 2016年04月23日  双頭の鷲の旗の下に
  7. 2016年04月24日 プロイセンの栄光
  8. 2016年04月27日 フリードリヒ・ウィルヘルム3世 
  9. 2016年04月28日 三帝行進曲
  10. 2016年04月29日 ラッパ信号規定
  11. 2016年05月01日 ホーエンフリードベルク行進曲
  12. 2016年05月02日 ピーフケ
  13. 2016年05月03日 ラコッツィ行進曲
  14. 2016年05月05日 ヨルク軍団行進曲 
  15. 2016年05月06日 皇帝の初陣
  16. 2016年05月09日 カラヤン
  17. 2016年05月13日 Weilmannsheil
  18. 2016年05月15日 ラデツキー行進曲
  19. 2016年05月17日 パンツァーリート
  20. 2016年05月18日 バリーリンドン
  21. 2016年05月19日 本日のこの記事

やっぱり特集は落ち着く。

2016年5月18日 (水)

バリーリンドン

スタンリー・キューブリック監督の映画。18世紀の欧州が舞台の波乱万丈のストーリー。1976年だから中学3年だったが、夢中になって観た。中学生には難解だったが、音楽がほぼクラシック音楽だ。作品の舞台になった18世紀の雰囲気を出すために採用したことは明らかだ。ヘンデルのサラバンドや、シューベルトのピアノ三重奏曲などが好きでサントラ盤のレコードをよく聞いた。

元々この監督は「2001年宇宙の旅」や「時計仕掛けのオレンジ」など作品中の音楽にクラシックを採用することが多いが、必ずしも時代の雰囲気を出すためではなかったが、「バリーリンドン」は、ぴったりの意図だ。

プロイセンの兵士たちが飲みながら合唱した中に、「ホーエンフリードベルク行進曲」があった。プロイセンの雰囲気を手っ取り早く醸し出すためのツールになっていた。

2016年5月17日 (火)

パンツァーリート

映画には音楽が欠かせない。「映画音楽」というジャンルは無視しえぬ大きな領域になっている。作品の出来よりも音楽で記憶されている映画も少なくない。中学高校時代戦争映画大好きだった私は、その中の音楽にも興味があった。戦争映画のテーマ音楽は、なぜか行進曲が多いと思う。「史上最大の作戦」「大脱走」「戦場に架ける橋」などなどだ。

とりわけ「バルジ大作戦」が音楽の気に入り度という意味では最高だ。大戦末期のドイツ軍の反攻を主題にしていた。連合軍の視点から描かれる映画が多い中、ドイツ軍目線からのストーリーが際立っていた。決戦前夜「さあ行くぞ」とばかりに歌われる「パンツァーリート」がお気に入りだった。個人的には「魔弾の射手」の至宝「狩人の合唱」に匹敵するカッコよさだと思う。

これは映画のためのオリジナルではなく、元々ドイツ軍のオフィシャルな行進曲だったのだ。ドイツの軍隊行進曲の正当な系譜の上にある作品だ。道理でカッコいいわけだ。

2016年5月16日 (月)

部活三年保育

次女の後輩たち39代を送り出すスペシャルコンサートが終わった。

演奏を支える裏方に徹したのは今年卒業したばかりのOGたち。実は昨年5月のスペシャルコンサートで引退した子供たちでもある。昨年5月の引退以来、「受験コンチェルト」のソリストとして華麗なパフォーマンスを披露したばかりだというのに、「これが伝統だ」とばかりに大学生活最初の5月を後輩たちの引退公演に捧げてくれた。

総勢40数名が元部長・副部長の指揮下でステージ裏、客席、ホワイエを総括する。「段取り8分」を地で行く周到な準備と機転に拍手だ。

無事演奏会を終えた彼女たちの達成感も半端ではない。プレイヤーとしての活動は2年と1か月で終わってしまうのだが、その1年後にやってくる後輩たちへの支援をもって卒業と認定したい。

名づけて「部活3年保育」である。

2016年5月15日 (日)

ラデツキー行進曲

新春恒例のニューイヤーコンサートのラストで演じられる名高い行進曲。手拍子によってステージと客席が一体になる感じが心地よい。

1848年2月パリに始まった革命は、3月にはドイツ各地に飛び火した。ハプスブルク帝国内も同様でウイーンでも市民が蜂起したくらいだから、地方の主要都市は軒並みだった。当時ハプスブルク帝国の支配下にあったイタリアでも事情は似ていた。市民勢力の勢いは大したものだったが、悲しいかな横の連携が取れていなかったから、体制側はそこに付け込んで各個撃破して鎮圧した。

イタリアはベネチアの革命勢力を鎮圧したのがオーストリアのラデツキー将軍だった。申すまでもない。ラデツキー行進曲は見事ベネチアを鎮圧した将軍に対する讃歌だったということだ。

次女の高校オケでは、スペシャルコンサートで必ずアンコール曲となる。引退する3年生と1年生が唯一協演する。演奏後ステージ上で3年生から1年生まで入り乱れてハイタッチになることもある。わずか1ヶ月しか重ならない1年生と3年生の絆を象徴する作品だ。

本日14時開場15時開演のスペシャルコンサートのラストナンバーになる。恐らく18時を過ぎてからの演奏になるはずだ。

2016年5月14日 (土)

間に合う人たちへ

いよいよ明日、次女の後輩39代引退公演となるスペシャルコンサートが開かれる。関係者のだれもがテンションを上げてきている。演奏はもちろんなのだが、もはやサプライズの仕掛け合いだ。相手の笑顔をあれこれと想像しながら、みんなサプライズの仕込みに余念がない感じ。飛び交うプレゼントのヤマを眺めるだけでも圧巻だ。

まだ間に合う人は何卒。

2016年5月13日 (金)

Weilmannsheil

狩人のかけ声のことだ。狩人どうしが幸運を祈る挨拶。「Weidmannsheil」という呼びかけに対して「Weidmannsdank」と応じるしきたりがある。

これが行進曲のタイトルにもなっている。シュヴェーリン駐屯イェーガー第14大隊の楽長レックリングが1886年に作曲した。驚くことに8分の6拍子に転ずるトリオが、名高いドイツ民謡になっている。「Im Wald und auf der Heide」という。野山を駆け巡る狩人の喜びを表したテキストがついていた。

スペシャルコンサートまであと2日。

2016年5月12日 (木)

RB Leipzig

「レッドブルライプツィヒ」はブンデスリーガ2部2015-2016シーズンを2位以上が確定し来シーズンの1部昇格が決定した。すごいことだ。2008~2009年シーズンを16位で終えたコットブスが2部に降格して以来、旧東ドイツ地区チームの一部昇格となる。

昇格争い中、街はたいそう盛り上がっていたとも聞く。乙女たちはその盛り上がりの中ライプチヒを訪れた。乙女たちのドイツ公演の舞台となったニュルンベルクのクラブ1FCニュルンベルクも3位以上が確定し、昇格入れ替え戦への出場が決まった。これは紛れもなく吉兆だ。

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スペシャルコンサートまであと3日。

2016年5月11日 (水)

ブログ開設4000日

2005年5月30日のブログ開設から本日で4000日が経過した。その間ブログ「ブラームスの辞書」は一日も記事の更新を欠かしていない。

乙女たちの引退の晴れ舞台スペシャルコンサートまであと4日に迫ったあわただしい中、記念の日を迎えた。

時間に余裕のある方は、どうか私の傾倒振りの根拠を生でご覧いただきたい。習志野文化ホールにお問い合わせいただけることをおすすめする次第。

2016年5月10日 (火)

アーケオプテリクス

鳥の先祖と目される始祖鳥の学名がアーケオプテリクスだ。学名なのでラテン語だ。「暁の羽毛」くらいの意味。正式には「アーケオプテリクスリトグラフィカ」という。

始祖鳥はドイツ特産である。現在10体の標本が確認されているらしいがみなドイツ産だ。1855年に最初の標本が発見された。しばらく翼竜だと思われていたらしい。この標本残念ながら既に散逸されたという。1861年にまた発見されている。大きさは大きめのハト程度。羽毛の痕跡が鮮やかながら、骨格は小型肉食恐竜に似ている。この標本故意か偶然か口元が欠落している。鎖骨があってくちばしに歯が無いのが鳥の特徴だが、おかげで歯の有無が確認出来ず関係者をやきもきさせたという。安値で英国が買い取ったから今、ロンドンにある。

1877年になってとうとう完全な化石が発見される。ゾルンホーヘンの隣アイヒシュテットからの出土だ。ミュンヘンからニュルンベルグに向かう途中にある小さな街は、良質な化石産地として有名だ。これには超高値がついた。プロイセン王立博物館が落札するのだが20000マルクという破格値。ブラームスの交響曲1曲の原稿料15000マルクより高かった。落札は企業家ジーメンスの資金援助で実現した結果、今はベルリンのフンボルト博物館にあるから人々はこれを「ベルリン標本」という。学名は「アーケオプテリクス・ジメンシイ」という。出資者ジーメンスに由来するネーミングだ。

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世界でもっとも美しい化石の賞賛をほしいままにする超有名標本だから、世界中の博物館や理科室にレプリカがある。この写真も某高等学校の理科室の前の廊下にあるもの。

以上の3体がブラームス生前の発見である。1855年といえばシューマン宅をはじめて訪問した2年後だ。入院中のシューマンに代って留守中の面倒を見ていた頃だ。この時は翼竜だと思われていたとすれば新聞に「始祖鳥」の名が踊ったことはないかもしれない。次の1861年はウイーンに定住する2年前だ。ハンブルグでコーラスの指揮活動のかたわら新聞を読んでいれば目にすることもあったと思われる。1877年になるとウイーン定住後だ。いくらかゾルンホーヘンにも近くなった。論争に決着を付ける嘴付きの完全骨格だから新聞の扱いも小さくなかったと思うが、はたしてブラームスに古生物なんぞにうつつを抜かすヒマがあったかどうか。ヴァイオリン協奏曲の仕上げでヨアヒムとの文通に忙しかった頃だ。

今日から愛鳥週間。

スペシャルコンサートまであと5日。

2016年5月 9日 (月)

カラヤン

言わずと知れた20世紀を代表する指揮者。どこの家にもCDの一枚や二枚はあるものと思われる。我が家にもあるのだが、最もお気に入りの一枚を紹介する。

「Prussian and Austrian Marches」というタイトル。「プロシアとオーストリアのマーチ」と解していい。プロシアはプロイセンで、ビスマルクやモルトケを擁してドイツ帝国の礎となった国。オーストリアはここではハプスブルク帝国とほぼ同義。で、プロイセンとハプスブルクの軍隊行進曲を集めたCDということになる。しかも演奏はベルリンフィルのメンバーで構成されたブラスオーケストラだ。マニア垂涎とはまさにこのことだ。
気品と風格にあふれる。ヒステリックに音を荒げる瞬間は皆無の小粋な演奏だ。あくまでもコントロールされたフォルテシモとバランス。ただただ幸せだ。

2016年5月 8日 (日)

イタリアをこの手に

定期演奏会が終わった。

高校の音楽系サークル4つの合同定期演奏会だ。オーケストラ部以外の3年生はここで引退になる。オーケストラ部にはおよそ10日後引退の花道が別に用意されている。つまり定期演奏会は準決勝なのだ。15日のスペシャルコンサートこそが決勝戦。出番はスペコンから比べればたったの1時間なのだが、ここで奇策に出た。乙女たちは先のドイツ公演でも大絶賛されたマーラーの第五交響曲の第4楽章アダージェットをラインナップからはずしたのだ。いわば決勝戦に備えてエースを温存したようなものだ。

トーナメントは一発勝負だ。決勝戦に備えてのエースの温存はリスクを伴う。得てして準決勝で墓穴を掘るものだが、乙女たちは違った。アダージェットの代わりにと繰り出した「カバレリアルスティカーナ間奏曲」が絶品の出来映えだった。エースの代役で出てきたサブがあれよあれよという間に完封した感じだ。まあ何と申すべきか「これをドイツでやらなかったのはもったいない」という演奏。超久々に聞くカバレリはどこで練習したのか別次元だった。誤解を覚悟で断言すると、明らかに「アダージェットの予告編」だ。これを聴かせておいてアダージェットを出さないのは拷問に近い。

あれからずっとカバレリが頭の中で鳴っている。アダージェットによって磨かれた弦楽器たちの表現の幅、引き出しの数が、底知れない余裕感を醸し出していた。準決勝を上から目線でやり過ごす感じ。管弦楽のためのラプソディー、イタリア奇想曲で予定通りの大活躍をした管楽器と打楽器が際立っていただけに、中間のカバレリで弦の充実をひっそりと聴かせてもらえたのはありがたい。

スペシャルコンサートまであと7日の今日、ゲネプロに臨む。

2016年5月 7日 (土)

絶妙な誕生日

5月は次女の居た高校オケのヤマ場。3年生が引退するので新旧交代となる。引退公演は決まって5月だ。高校の中にある音楽系サークルが合同で定期演奏会をするのがほぼ毎年5月4日だ。そしてその少々後のスペシャルコンサートで完全引退となる。

合同定期演奏会が5月4日と決まっているのに対して、スペシャルコンサートは不定だ。今年は15日だが昨年は9日だった。その前はたしか11日だ。合同演奏会の5日から10日後である。
だからブラームスの誕生日5月7日は必ず合同定期演奏会とスペシャルコンサートの間にやって来る。その頃乙女たちは現役最後の追い込みの真っ只中ということになる。我がブログの主人公ブラームスの誕生日は、いつもそうした緊張感の中で通り過ぎる。
絶妙といわざるを得ない。
スペシャルコンサートまであと8日。

2016年5月 6日 (金)

皇帝の初陣

日本で初陣といえば、武士の子がはじめて戦闘に参加することをいう。戦国時代にはしょっちゅういくさがあったから、初陣の機会を選ぶことができた。負けない戦いを選んで初陣にしたのだ。元服前後10代前半が初陣適齢期で、通過儀礼の意味合いも加わってくる。名高い武将の初陣はキチンと記録に残っている。

中世欧州の騎士でもこうした意味の初陣があったから、貴人については初陣が記録されている。オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の場合、1848年のイタリア戦役が初陣だった。ラデツキー将軍を司令官にイタリアを鎮圧する戦い。勝利を祝うために「ラデツキー行進曲」が作曲されたことは有名だ。詳しい初陣の様子を調べた。エンメリヒ・ドゥルン・ウント・タクシス近衛騎兵隊長に連れられて、サンタルチアの会戦に出陣した。

日付を調べて驚いた。1848年5月6日の出来事。ブラームス15歳の誕生日の前日だった。このときはまだ即位前で、年末には皇帝の位につくことになる。ブラームスが生きている間ずっと皇帝の座にあった。

スペシャルコンサートまであと9日。

2016年5月 5日 (木)

ヨルク軍団行進曲

ヨルク軍団とはルートヴィッヒ・ヨルク伯爵が率いる軍団。彼はもちろんその司令官だ。ナポレオンのロシア遠征には、屈服させられたドイツ領邦の軍隊が3分の1ほど合流させられていた。総勢50万の3分の1だからけした舐めたものではない。ヨルク軍団は、ロシアの司令官と密かに呼応して、ナポレオンの部隊から離脱したのだ。これをキッカケにドイツのナポレオン解放戦争に火がついたと考える学者は多い。

元々はボヘミア守備隊マーチだったが、ヨルク軍団の勇敢な行動を記念してヨルク軍団マーチと呼ばれるようになった。

初演は1809年ウィーンだ。作曲者はなんとなんとあのベートーヴェンである。WoO18だ。ベートーヴェンもまたドイツ史の一コマ。

スペシャルコンサートまであと10日。

2016年5月 4日 (水)

創設132年

その年、ブラームスはオーストリア南部の保養地ミュルツツーシュラークに滞在し、第四交響曲の作曲に着手した。ブラームス51歳の夏だ。

日本代表FW岡崎所属のレスターシティが、創設132年目でプレミアリーグ初優勝を決めた。開幕前のオッズは5000倍で、選手年俸総額ではプレミアリーグ所属20クラブ中下から4番目と申せば、どれほどの番狂わせかわかるだろう。1試合の番狂わせならともかく、リーグ年間38試合の結果ともなればもはや実力だ。
レスターシティの創設は1884年である。
スペシャルコンサートまであと11日。

2016年5月 3日 (火)

ラコッツィ行進曲

一般にハンガリー民謡とされる行進曲。さまざまな作曲家により引用されているが、ひとまずベルリオーズが名高い。

実は、ブラームスによるピアノ編曲がある。マッコークルの作品目録では、「AnhangⅢNr10」という番号だ。1850年代の作品だ。クララへの手紙で言及されているらしく、これを主題とする変奏曲の作曲を試みたと取沙汰されるが、真偽の程は不明。ちゃんとCDも出ていて我が家には2種類ある。

スペシャルコンサートまであと12日。

2016年5月 2日 (月)

ピーフケ

Johann Gottfried Piefkeは1844年から終身プロイセン第3軍団軍楽総監の地位にあった人。記事「マーチの作曲家」で述べた軍楽隊長の典型だ。ビスマルクの元で戦った3つの戦争のうち、最初の2つ1864年のデンマーク戦争と1866年の普墺戦争で実際に従軍した。とりわけデンマーク戦争の天王山・デュッペル要塞戦では、飛来する弾雨の中休まずタクトを振り続けて士気を鼓舞したことで名高い。

彼の作品は現在でも10曲が知られている。

デンマーク戦争に次ぐ1866年の普墺戦争に際しては「ケーニヒスグレーツ」を作曲した。8分の6拍子の珍しいマーチだが、わずか3時間で作曲したとされている。トリオで4分の2拍子になるところが凝っている。そのトリオは、ホーエンフリードベルクという古いマーチの引用である。このマーチはフリードリヒ大王がオーストリアに勝った際の記念マーチだった。対オーストリア戦の戦争を祈願する意図があった。

スペシャルコンサート まであと13日。

2016年5月 1日 (日)

ホーエンフリードベルク行進曲

伝フリードリヒ大王作曲の古風なマーチ。1750年までには成立していたと目されるAMⅢ1bの番号が付与されている。

ホーエンフリードベルクは地名だ。プロイセンがオーストリア軍に勝利したシレジア地方の村の名前である。つまりプロイセンにとっては縁起のいい地名であり、戦勝を記念して将兵を鼓舞する意図がある。それどころか、この戦いで勝利したことにより「大王」の名前で呼ばれ始めたとさえ言われるほどである。
普墺戦争の際の天王山になったケーニヒグレーツの勝利を記念した「ケーニヒグレーツ行進曲」の中、トリオにこの旋律がそっくりそのまま引用されていることから見て、縁起の良い旋律であると当時から認識されていたことは確実だ。
スペシャルコンサートまであと14日。

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