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    自分で買い求めて賞味したビールの写真。ドイツとオーストリアの製品だけを厳選して掲載する。

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2016年9月30日 (金)

奴隷貿易

アフリカと新大陸の間に発生した人類史の汚点という側面がやけにクローズアップされてはいるのだが、実は奴隷売買の歴史はずっと古い。戦争のあるところには必ず付いて回った。

ゲルマン人とローマの交易においてコハクが最重要品目だったことは既に述べたが、それ以上に巨大で重要な市場を形成したのが奴隷だった。ローマとゲルマンの絶え間ない抗争は、奴隷の供給という面で無視出来ない。勝ち戦であれば物資の略奪と捕虜の獲得が必ず付いて回った。

奴隷にも価格差があった。性別、年齢、人種、特技、容姿により取引金額が変わったのだ。特技というと腕に職を持っていた場合に高く売れた。醸造、毛皮なめし、医術、薬草などの技術や知識のことだ。

人種で申せばゲルマンは圧倒的に優位だった。頑健で忠実という評判だったらしい。ゲルマン人の屈強な男4人がかつぐ輿に乗って外出するのがローマ貴族のステイタスであったという。とりわけ珍重されたのが金髪だった。金髪の奴隷を侍らせるのは一部の特権階級に限られていた。

ローマ対ゲルマンの戦があるという情報を得ると奴隷商人たちは書き入れ時とばかりに集まった。ローマの勝利は重要なのだが、あまり多くの捕虜が出ると、奴隷の価格が暴落して身上を潰すものもいたという。

2016年9月29日 (木)

コハク

古代の植物の樹脂が地中で石化したもの。実質的に鉱物扱いされる。遠くローマの時代から人類に愛好された。ゲルマン人とローマ人の交易品の代表格だ。ゲルマン側からの輸出品の超目玉である。吸血性昆虫が封じ込められたコハクから、恐竜のDNAを再生をするのには欠かせない素材でもある。

産地はバルト海沿岸。ゲルマン人の故郷とも目される地域。現在世界最大のコハク生産国はポーランドで80%を占める。とりわけグダニスクだ。ブラームスの生きた時代はダンツィヒと呼ばれ、プロイセン領だった。コハクといえばプロイセンだった。

英語で「Ambar」というから、ドイツ語で何と言うか調べたら驚いた。「Bernstein」だった。同名の名高い指揮者がいた。

2016年9月28日 (水)

通算80万アクセス

昨日、ブログ開設からの通算アクセスが80万に到達した。

10万アクセスのキリ番は以下の通り。

  • 10万アクセス 2008年04月03日 開設1040日目 なんとブラームスの命日。
  • 20万アクセス 2009年06月25日 開設1488日目 448日
  • 30万アクセス 2010年12月14日 開設2025日目 537日
  • 40万アクセス 2012年04月27日 開設2525日目 500日
  • 50万アクセス 2013年05月13日 開設2911日目 386日
  • 60万アクセス 2014年06月23日 開設3312日目 401日
  • 70万アクセス 2015年07月28日 開設3712日目 400日
  • 80万アクセス 2016年09月27日 開設4139日目 427日

最初の10万アクセスへの到達に1040日かかって以降、その後の10アクセス毎の到達時間は安定している。最短は40万から50万アクセスへの386日。次女のオーケストラ部引退の一年と重なっている。そちら系の記事の方が読まれているという証拠だ。

次の10万もきっとこのくらい。100万への到達はおよそ900日後と乱暴に試算する。ざっと2年半後だ。2020年3月頃。

2016年9月27日 (火)

風の眼

古代ゲルマン人の住居について調べている。紀元前1世紀以降、ローマ人との接触により歴史に書き残されている。ローマ人の感覚で見れば「粗末な小屋」だったらしい。竪穴式住居の大型のものというイメージ。縦4~6m、横6~10mの長方形。家畜と一緒に住んでいたようだ。

出入り口は1つか2つで窓は無い。換気用の穴が壁に開けられている程度だ。だからこの穴は「風の眼」と呼ばれた。現代のドイツ語では「Windauge」と綴る。「Wind」は「風」で、「Auge」は「眼」あるいは「眼差し」である。ブラームスの歌曲「君の青い瞳」の原題「Dein blaues Auge」としてなじみ深い。

そう。一部の言語学者たちは、この「Windauge」を、英語でいう「窓」つまり「Window」の語源ではないかと考えているという。

「窓」の語源が「風の眼」とは風流である。

2016年9月26日 (月)

エッツェル

5世紀に欧州を席捲したフン族の王「アッティラ」のドイツ名だ。「Etzel」と綴る。

現代ドイツの道路地図を開く。目指すは巻末索引だ。「Etzel」で始まる地名は意外と多い。

「Etzelberg」「Etzeldorf」など。本当にアッティラに関係するのかについてはなお、疑ってかかる必要もあるけれど、弘法大師由来の地名起源話と同じく、民衆の願い込みの話だろう。あるいはフン族の侵入の怖い思い出の反映かもしれない。フン族の名は、そのものずばりがハンガリーに投影されているくらいだ。

2016年9月25日 (日)

アッティラ

「Attila」と綴る。フン族の王として有名だが、本名かどうか怪しいらしい。西暦410年頃生まれて454年に没したとされている。

フン族の欧州デビューは西暦374年。ローマ人の記述に現われる。もちろん当時の王はアッティラではないのだが、名前は伝えられていない。目撃者がみんな死んでしまったために詳しい事跡が伝わらないという。当時の欧州人にとってはエイリアンの襲来にも匹敵する衝撃だったとされている。手を焼いたローマ人はフン族にパンノニア、今のハンガリーあたりの土地を授与した。「西ローマには来ないでね」というおまじないに近い。

ゴート語で「父」を意味する「Atta」に、縮小詞「ila」が付与されて「Attila」になったという学者もいる。ゴート人とりわけ東ゴートはフン族の最初の接触者であり、被害者だったらしい。

さてパンノニアを中心としたフン族の支配は、広大な領域に及んだ。貢納が義務付けられたという意味ならば、その勢力はブリタニア、今の英国にも及んでいた。ドイツもほぼ全域がフン族の影響下にあったと考えていい。西ローマ帝国がライン川でかろうじて踏みとどまっていたようなイメージだ。

2016年9月24日 (土)

皇帝列伝

ブラームスがシチリアを旅行した際、パレルモでホーエンシュタウフェン朝の廟所を訪ねたと書いた。おそらくそのときブラームスの脳裏には神聖ローマ帝国が去来していたに違いない。

  • 01 オットー1世
  • 02 オットー2世
  • 03 オットー3世
  • 04 ハインリヒ2世
  • 05 コンラート2世
  • 06 ハインリヒ3世
  • 07 ハインリヒ4世
  • 08 ハインリヒ5世
  • 09 ロタール3世
  • 10 コンラート3世
  • 11 フリードリヒ1世(赤髭王)
  • 12 ハインリヒ6世
  • 13 フィリップ
  • 14 オットー4世
  • 15 フリードリヒ2世
  • 16 コンラート4世

<大空位時代>

  • 17 ルドルフ1世
  • 18 アドルフ
  • 19 アルブレヒト1世
  • 20 ハインリヒ7世
  • 21 ルートヴィヒ4世
  • 22 カール4世
  • 23 ヴェンツェル
  • 24 ループレヒト
  • 25 ジキスムント
  • 26 アルプレヒト5世
  • 27 フリードリヒ3世
  • 28 マクシミリアン1世
  • 29 カール5世
  • 30 フェルディナンド1世
  • 31 マクシミリアン2世
  • 32 ルドルフ2世
  • 33 マティアス
  • 34 フェルディナンド2世
  • 35 フェルディナンド3世
  • 36 レオポルド1世
  • 37 ヨーゼフ1世
  • 38 カール6世
  • 39 カール7世
  • 40 フランツ1世 マリアテレジアの夫
  • 41 ヨーゼフ2世
  • 42 レオポルド1世
  • 43 フランツ2世 ナポレオンの皇帝就任で神聖ローマ帝国の終焉。

上記が神聖ローマ帝国の皇帝のリスト。ブラームスが思いを馳せたホーエンシュタウフェン朝は赤文字で示した7名。そしてそれに続く大空位時代の後、ルドルフ1世がハプスブルク家最初の皇帝。青文字がハプスブルク家出身の皇帝。紫文字はハプスブルクロートリンゲン朝だ。ブラームスの脳味噌にはこのくらいの情報はきっちりと刷り込まれていたと思われる。

2016年9月23日 (金)

ホーエンシュタウフェン朝

12世紀から13世紀にかけて神聖ローマ皇帝6名を輩出した家柄。もっとも名高いのはフリードリヒ1世、人呼んで「赤ひげ王」だ。第3回十字軍の総司令官でもある。

彼に限らず歴代の神聖ローマ皇帝はドイツ王でありながら、イタリアにこだわる。「神聖ローマ帝国の盟主」という自覚からか肩に力が入った人が多い。赤ひげ王は5回イタリア遠征を試みている。ローマ教皇との摩擦もさることながら、お膝元ドイツの経営がおろそかになるので、ロクなことは無い。

ホーエンシュタウフェン朝は、シチリア王国の経営には一応成功していたからましなほうだが、イタリア本土までもと色気を出すとうまく行かない。

1266年シチリア王コッラディーノ(コンラーディン)は、ローマ教皇さしまわしのシャルル・ダンジューに破れナポリで処刑される。ホーエンシュタウフェン朝はこれで途絶えるが、歴代の王はシチリア島パレルモの大聖堂に祀られることとなった。そしてドイツ史上異例の緊急事態である大空位時代が始まる。

ブラームスは1893年最後のイタリア旅行でシチリアを訪れた際、ホーエンシュタウフェン朝ゆかりのパレルモ大聖堂に参拝したと同行の友人ヴィトマンが証言している。ヴィトマンはブラームスのドイツ史への造詣に感嘆している。

2016年9月22日 (木)

国定公園

国立公園に準ずる景勝地という意味だ。「国」という漢字が含まれているが、管理は都道府県になる。ひとまず定義は棚上げとして、この「国定公園」の英語訳は「Quasi-National park」となっていた。冒頭の「Quasi」は英語としては浮き上がっている。

「はあぁ」ってなもんだ。

その「quasi」はイタリア語だ。音楽用語として、ブラームスが全生涯で16回使用している用語として、「ほとんど~で」のほか「~っぽく」という解釈を試みておいた。

本件、「国定公園」が「国立公園に準ずる」という意味であるなら「quasi」には「~に準じて」の意味があることになる。「急行」に対する「準急」、「優勝」に対する「準優勝」、「決勝」に対する「準決勝」など、主たる単語の前に付着することで、その意味を減じる効果がある。

「ほとんど~で」「~っぽく」という解釈をしておいたが、そこでは「準じて」の意味が意識されていなかった。つまり「近似」と意識はしていたが、「超えてはいけない」とは感じていなかった。微調整語ではあるのだが、微調整の方向は抑制に限られている可能性がある。

これっておバカ?

2016年9月21日 (水)

ステーキの焼き加減

音楽用語に登場する「ben」は「十分に」と解されている。ブラームスの楽譜上では下記4種の用語しか修飾しない。

  1. marcato
  2. legato
  3. tenuto
  4. cantando

不思議なことにこれらの語は「molto」で修飾されにくい。ずっと不思議に思って調べているが、「十分な」情報が得られない。解決に結びつくとも思えないが、面白い情報があったので書いておく。

ステーキの焼き加減を示す用語がある。

  • レア
  • ミディアム
  • ウエルダン

もはや日本語にもすっかりなじんでいる。このうちの「ウエルダン」をイタリア語では「ben cotto」と言う。「cotto」は「焼いた」という意味だから全体で「十分焼いた」となり、ウエルダンの意味合いになる。ものの本によればけして「molto cotto」とは言わないらしい。「ben」と「molto」はキチンと区別されているのだ。

ちなみに「poco cotto」といえば「生煮え」の意味するようだが、ステーキの「レア」は「al sangue」といい「poco cotto」とは言わないという。何だか深い。

2016年9月20日 (火)

Insalata russa

イタリア語。直訳すれば「ロシア風サラダ」だ。イタリアのレストランでオーダーするとポテトサラダが出てくる。意外な感じがする。日本人一般のイメージとしてじゃがいもはドイツの代表的な食材だ。それをマヨネーズで和えたサラダでだから「Insalata tedesca」とでもなっているのかと思った。少なくともイタリア語スピーカーにとって、ポテトサラダといえば「ロシア」という共通認識があったことだけは確実だ。現在ロシアにおけるじゃがいもの生産高は、ドイツを上回っている。

ブラームスがイタリアを旅行して、ポテトサラダを食べたという確たる証拠はない。

2016年9月19日 (月)

Riccio rosso

「赤いハリネズミ」のイタリア語訳。「赤いハリネズミ」はブラームス行き付けのウイーンのレストランの名前。「riccio」は「いが」の意味なのだが「ハリネズミ」という意味も派生している。「rosso」はボンゴレロッソでもおなじみの「赤」だから、あわせて「赤いハリネズミ」となる。

「riccio」の複数形は「ricci」。「ricci di mare」は「海のいが」で何と「ウニ」の意味。

ブラームスのヴァイオリン協奏曲のカデンツァを集めたCDを録音したルジェーロ・リッチはイタリア系アメリカ人。念のため調べたらスペルは「Ricci」だった。まさか「うに」ではないと思うが興味深いので言及しておく。

2016年9月18日 (日)

オルトラーナ

「Ortorana」と綴るイタリア語で「菜園風の」という意味。さすがにこれは音楽用語にはなっていない。「Allegro ortorana」などという発想記号があったら楽しいとは思う。ローマ時代の貴族は自宅に菜園があり、そこで取れた野菜を食していた。サラダの起原を調べると出てくる話だ。

イタリアレストランのメニューで「Pizza Ortorana」とあれば「菜園風ピザ」を意味し、野菜が載ったピザが供される。つまり「Pizza con verdura」の気取った言い回しということだ。この「con」は音楽用語でもおなじみだ。

「Allegro con brio」や「Andate con moto」などに見られる。

2016年9月17日 (土)

ゲルマニクス

ローマ帝国皇帝の名前はやたらと長い。本名に加えて家名や様々な称号が連結されているからだ。たとえば、トラヤヌスは以下の通りだ。

  1. インペトラル 大将軍、最高司令官の意味
  2. カエサル 本来カエサルはユリウス・カエサルの家族名だが、皇帝たちによって世襲
  3. ティウイ 「ティウィ・ネルヴァエ・フィリウス」で「神格化されたネルヴァの息子」の意。
  4. ネルヴァエ
  5. フィリウス
  6. ネルヴァ 「ネルヴァ・トラヤヌス」で本名。
  7. トラヤヌス
  8. オプティムス 「最上」を表す特別の敬称。
  9. アウグストゥス 「尊厳なるもの」の意味。個人名のすぐ後に来る。事実上の「皇帝」の称号。
  10. ゲルマニクス 目覚しい戦勝を記念して称号化される。対ゲルマン戦の勝利。
  11. ダキウス 同上。対ダキア戦の勝利。
  12. パルティクス 同上。対パルティア戦の勝利。
  13. ポンティフェクス 「ポンティフェクス・マクシムス」で「大神祇官」
  14. マクシムス
  15. トリプニキアエ 「トリピニキアエ・ポテスタティスⅩⅩⅠ」で「護民官21年」。即位と同時に護民官に就任し、毎年更新されるから、トラヤヌス帝の在位年数が21年と判る。
  16. ポテスタティスⅩⅩⅠ
  17. インペラトルⅩⅢ 戦勝に際する歓呼の声を受けた回数。この場合13回。
  18. コンスルⅥ 執政官。共和制時代の名残り。任期2年を6期務めた。
  19. パテル 「パテル・パトリアエ」で「国の父」。特別の功労があった皇帝に贈される。
  20. パトリアエ

このうちの10番目のゲルマニクスが気になる。長い称号の中にゲルマニクスが含まれる皇帝は大変多い。シーザーが属州化して以来平穏だったガリアでは、戦は起きなかったので、それを鎮圧することもなく「ガリウス」の称号は発生しない。ゲルマニクスの称号が多いということは、しばしばゲルマン人が反乱したからだ。

元々28あったローマ軍団は、トイトブルクの戦いでアルミニウスに惨敗して3軍団を失った。残った25軍団のうち、8軍団がライン河畔、7軍団がドナウ河畔に置かれた。対ゲルマンの国境警備がいかに重視されていたかがわかる。即位後の皇帝がハクをつけるためにゲルマニアに親征し、大勝を演じて大袈裟に凱旋することが、しばしばあった。

皇帝の名前にゲルマン由来の言葉が混入するのはこのためだ。

2016年9月16日 (金)

属州

ローマ史を語るうえで大切な要素。イタリア半島以外のローマの支配領域のことだ。勢力を拡大する中、新たに獲得した地域を属州をおいた。ラテン語では「Provincia」という。属州からもたらされる富がローマを支えていた。属州の総督は儲かる。カエサルもガリア総督時代に相当蓄財に励んだらしい。

サッカーの世界では「田舎のクラブ」の意味となる。ローマ時代の「属州」の意味にも通じる使い方だ。「プロヴィンチャ」はサッカーの世界では共通語である。

2016年9月15日 (木)

ゲルマン人は長身か

紀元前2世紀に接触が始まったゲルマン人についてローマの著述家はしきりに「長身」を強調する。いわく「我々より頭一つ高い」という具合だ。現代のサッカーの世界でいうイタリア対ドイツを想像してはいけない。190cm近いセンターバックに空中戦を挑むフォワードのイメージは誤解を招くだけだ。

当時のローマの成人男性の平均身長は155cm程度だったらしい。古代のゲルマン人男性の身長は出土する骨などから172cmと推定されている。172cmと155cmの差18cmが、「頭一つ抜けている」という表現に呼応すると思われる。172cmは当時としてはなるほど長身で、20世紀のドイツ人男性の平均身長175cmに迫っている。

一部では170cmを切っていたと推定されるブラームスは、古代ゲルマン人の平均に届いてはいないが、古代ローマ人から見れば十分に長身である。

2016年9月14日 (水)

ライン初の架橋

ローマ対ゲルマンの国境線としてのライン川の位置付けの高さは既に何度も言及した。このライン川にはじめて橋を架けたのはカエサルだという。ローマの執政官でガリアを征服した男だ。優秀な政治家なのだが、かなり腕の立つ文筆家でもあった。彼が征服の苦労を「ガリア戦記」に残したおかげで今から2000年以上前のフランスやドイツを一部含むガリアの様子が判る。

紀元前52年頃、カエサルはライン川に橋を架けた。川底に木製の杭を打った木造橋だが、わずか10日で完成したらしい。ゲルマン人に対する示威行為で、大軍を渡河させて征服戦に打って出ることはしなかったが、ゲルマン人はこれを警戒したと思われる。すぐに火をつけて焼き払ったとされている。ライン川を防衛の最前線というカエサルの考えを裏付ける話だ。

はっきりとした場所は不明で、コブレンツあたりというのが定説らしい。当時の川幅は500m、あたりの水深は最大でおよそ8mとされている。

2016年9月13日 (火)

黄色

トイトブルクの大敗の後、ローマ人は対ゲルマン政策を改めた。ゲルマン人を武力で屈服させることを諦め、離間による安定を志向するようになる。ゲルマン人の中の「親ローマ派」を取り込んで、内部対立を煽ることで漁夫の利を得ようとするものだ。だからゲルマン人同士の戦いが増えてくる。

トイトブルクの戦いの後、ヴェーサー川ほとりでケルスキー族とローマが再びにらみ合った時、英雄アルミニウスの弟がローマ側についていた。小競り合いにとどまって合戦にまでは至らなかったとされているが身内の争いは少なくなかったのだ。

アルミニウスの弟の名がローマ側の記録に残っている。「Flavus」というのだ。語感からしてゲルマン風ではなくラテン語のノリが感じられる。「Flavus」とはラテン語で「黄色い」という意味だ。本名ではなく単なるニックネームかもしれない。

落花生に発生するカビにより猛毒アフラトキシンが生成される。このカビの学名が「Aspergilus Flavus」という。アルミニウスの弟と同じ名前だ。毒素アフラトキシンは、カビの学名「Aspergilus Flavus」の頭文字に、毒を表す「Toxin」をくっつけた合成語である。カビの学名になら「Flavus」も悪くないが、人の名前としてはややかわいそうな気がする。

2016年9月12日 (月)

アルミニウス

Arminius(BC16~AD21)は、ゲルマン民族の一派ケルスキー族の王。ケルスキー族の本拠地は現在のデトモルトのあたりとされている。ブラームスの最初の就職地だから、ケルスキー族の話くらいはきいたことがあるかもしれない。

アルミニウスの親の代以前にローマに屈服したこともあり、当時の習慣としてローマで教育を受けた。シリアでの勲功により騎士に列せられるとともにローマ市民権を獲得した。市民権の獲得には皇帝の同意が必要だから、アルミニウスの器量がうかがい知れる。当時の皇帝はアウグストゥスだ。

やがてゲルマーニアの司令官ヴァルスの信頼厚い部下となるが、ゲルマーニアの属州化の意図を知り謀反。ヴァルスの信頼を逆手にとって巧妙な罠を仕掛け3万のローマ軍を全滅させた。世に名高い「トイトブルクの戦い」だ。ローマ人からゲルマンの独立を守ったと評価され、ドイツにおいては英雄視されている。

アルミニウスという名前はいかにもラテン語風だ。彼の名は元々「ヘルマン(Hermann)」だったのを、ローマ人が勝手にラテン語風に言い換えていたとも伝えられる。宗教改革で名高いルーターは、アルミニウスに心酔し時代の辻褄を無視して、アルミニウスに「Hermann」という洗礼名を与えた。民衆への布教にアルミニウスのカリスマ性を利用しようとしたらしい。

さて1775年、ドイツ帝国成立の4年後、デトモルトにアルミニウスの像が建立された。トイトブルクの合戦の勝利を記念するものだ。当時はトイトブルクの正確な位置が解明されておらず、ケルスキー族の本拠と目されたデトモルトに建てられたという経緯がある。

デトモルトに着任したブラームスは当然この像を見ていたはずだ。

2016年9月11日 (日)

デトモルト近郊

1856年ロベルト・シューマンが没したことにより、ブラームスの献身は一区切りを迎えた。明くる1857年5月31日からおよそ一週間デトモルトに滞在し宮廷で演奏した。クララの紹介はあったものの、これは実質就職試験だった。結果は「採用」だった。同年9月からデトモルトの宮廷勤務が始まった。9月から12月までの季節限定勤務で、1859年までの3年間続けられた。

デトモルト。ビーレフェルトの南東およそ25kmに位置する小さな街。小さくはあるがリッペ・デトモルト公国の首都。森に囲まれた自然環境と、けして多忙ではない職務の間、ブラームスは周囲の自然を堪能した。

デトモルトについて調べているうちにこの街が、ドイツ史の中で特筆される位置にあることがわかってきた。特にブラームスが滞在した19世紀中ごろまでは、名実共に歴史の街だった。

世に言う「トイトブルクの戦い」。敗者はローマ帝国ゲルマニア駐在の司令官ヴァルス。勝者はケルスキー族の王アルミニウスの戦。「桶狭間」と「本能寺」と「関が原」をあわせたような位置づけにある。

まずは「桶狭間」。海道一の弓取り今川義元が、当時無名の織田信長に敗れた戦い。「雨」「奇襲」「油断」が、戦国最大の番狂わせを実現させた。ヴァルス率いるローマ軍団18000が、雨の中トイトブルクの隘路で全滅させられた。

そして「本能寺」。勝ったアルミニウスは、ローマに学んで東方戦線での勲功により騎士に列せられていた、れっきとしたローマ市民。あろうことかヴァルスの部下。この戦いはアルミニウスの謀反だ。

最後に「関が原」。戦いの帰趨が後世に与えた影響という意味で比肩する。歴史に「たられば」は無いと前置きされながら、「もし結果が逆だったら」としばしば考察されてきた。おそらくローマはエルベ川までを属領としたに違いない。現代のドイツはかなり形を変えていたと考えられている。

さて9月11日といえば、アメリカを震撼させた同時多発テロの日だが、このトイトブルクの戦いは西暦9年9月11日とされている。

アルミニウスが属したケルスキー族の本拠地こそが、デトモルト付近だ。ブラームスが勤務していた頃は、トイトブルクの古戦場もデトモルト近郊だと信じられていた。

2016年9月10日 (土)

戦線の節約

記事「Limes」で、ローマとゲルマンの境界がライン、ドナウの両大河で形成されると書いた。これに「ローマ版万里の長城」である「Limes」が両者の国境という位置付けだった。ガリアを平定したカエサルは、少なくともライン川を越えて戦線を拡大する意図は無かったと言われている。

ところが、カエサルの養子で後継者のオクタビアヌスは、皇帝アウグストゥスになって以降、別の考えを持っていたようだ。ローマ対ゲルマンの最前線を「ラインドナウ線」から「エルベドナウ線」に押し広げたいと考えていたようだ。乱暴に申せばローマの支配地域を旧西ドイツ1個分増やすということだ。国境が東に遷移する。カエサルが手ごわいと言っていたゲルマン人を本拠地から追い出す戦争をせねばならない。アウグストゥスの妻の2人の連れ子、ティベリウスとドゥルーススの手柄で、ほぼその目論見は達成されていた。少なくとも2回、紀元前9年と紀元5年には、ローマ軍がエルベ川に到達している。

アウグストゥスのプランの裏には「ライン・ドナウ」を国境にするより「エルベ・ドナウ」を国境にする方が、最前線が100km以上短くなるという現実的な動機がある。国境警備に必要な兵員の数は、国境線の長さに比例するから、国境線が短くなれば兵員の数を削減出来る。

さらに現在のボン付近から、レーゲンスブルクまで550kmに及ぶLimesという柵を設けていたが、エルベ・ドナウの国境線にすれば、ドナウとモルダウを繋ぐ距離の柵で事足りる。おおよそ100kmの柵でOKだ。

アウグストゥスのプランはほぼ実現していたと見るべきだ。

2016年9月 9日 (金)

ライミーズ計画

フランスのマジノ線に対抗してドイツが独仏国境に敷設した要塞線の建設計画のことだ。1940年までにおおよそ完成し、ドイツでは「Westwall」と呼ばれた。「西の壁」だ。ドイツ伝説の英雄の名をとって「Siegfriedlinie」ともいう。

バーゼルからルクセンブルクまでちょうどマジノ線とにらみ合う形で作られたが、マジノ線よりは数段簡素だった。戦闘に際しての効果よりも宣伝効果の方が高かったといわれているほどだ。対仏開戦不可避の機運が高まるこの時期、独仏が直接国境を接するこの地域を、戦略的に重視していることを印象付ける効果があった。

この要塞線の建設計画が「ライミーズ計画」だ。スペルを調べていてぎょっとした。「Limes」だ。「Limes」はローマ人が対ゲルマン民族の国境警備のために敷設した防御柵のことだ。これをローマ風に「リーメス」と読まずに英語風に「ライミーズ」としたことが既に宣伝効果を狙ったものだとわかる。建設の前年まで本物のリーメスの遺跡発掘調査が行われたいたことを巧妙に利用した。大規模な要塞工事を発掘調査でごまかそうという意図が明白だ。偵察衛星の無い時代はこれで十分だったのだ。

そうしておいて、ドイツ機甲師団は、マジノ線を迂回してベルギー経由でフランスに殺到した。

2016年9月 8日 (木)

Limes

異民族の侵入を柵で止めようという発想は、どうも東西共通らしい。中国の万里の長城程ではないが、欧州にも似たような遺跡がある。これを「Limes」(リーメス)と呼んだ。ローマ人がゲルマン人の侵入に備えた柵だ。

一般にローマ人とゲルマン人の勢力範囲はライン川とドナウ川を境界線として均衡したとされているが、それだけでは説明に苦しむ時もある。ライン以東やドナウ以北にローマ人の遺跡が見つかることもあるからだ。このとき「Limes」を想定すると説明がし易くなるという。

ライン沿岸のボンの東南からドナウ沿岸のレーゲンスブルクまでおよそ550kmにわたる長大な柵である。方言や一部地名の分布が「Limes」と一致するケースが見られる。

2016年9月 7日 (水)

ローマ

ドイツの歴史を調べていると、古くなればなるほどローマの香りが際立ってくる。あるいは、生涯に9回企てられたブラームスのイタリア旅行について調べていても、当然ながらイタリアがクローズアップされる。

ドイツはイタリアと縁が深い。古代ゲルマン人の姿はローマの歴史家の著述によって生き生きと現代に伝えられている。紀元前12年から紀元9年にかけて、ローマの勢力が事実上エルベ川に達していたことは確実視されているから、現在のドイツ領内にローマ由来の遺跡が埋まっている。ライン以西、ドナウ以南ではとりわけ顕著だ。時代が下って神聖ローマ帝国の皇帝たちは、ドイツ王でありながら行きがかり上イタリア経営にも乗り出していたし、ブラームスゆかりのウイーンは、何かとイタリアとの繋がりが濃い。

困ったことになってきた。どうもローマに興味が湧いてきた。ブラームスにこじつけられるローマネタは粛々と公開すればいいのだが、ブラームスに結びつかないローマネタが膨らみそうな気配である。

という訳でイタリア特集。

2016年9月 6日 (火)

夏休み終了

お気づきの諸賢も多かろう。8月11日に「人名特集総集編」をアップして以来、ブラームスネタを避けて、ブログ運営ネタをおよそ3週間連ねてきた。これがブログ「ブラームスの辞書」の夏休みであった。実際に記事の更新を休むわけにはゆかないから、夏休みと申しても休みになっていない。そして9月3日から避暑地ネタをかねた競馬ネタを3本続けたものの、これが次の特集とまでは広がることはない。

本日次女の21回目の誕生日をキッカケに夏休みを終えて明日から、次の特集に踏み込む。

2016年9月 5日 (月)

競走馬の名前

昨日に続いて競馬の話題。競馬の主役である競走馬には名前がある。命名には一定のルールもあるのだろうが、ドイツ競馬には面白いルールがあった。ドイツで生まれた牝馬は、母馬と同じイニシャルの名前にしなければならないらしい。ブラームスが生きていた当時からこのルールがあったかどうかは不明。たとえば「クララ号」がドイツで産んだ牝馬に「ユーリエ号」とは命名出来ない。「カトライナ」「シャルロッテ」「コロナ」「キアラ」など「C」で始まる名前を選ばねばならないということだ。

さて馬名といえば気になるのが「Brahms」という名前の馬がドイツ競馬にいたのかとうことだ。実際にいたらしい。1974年生まれの牡馬に「Brahms号」がいた。どうにも戦績は芳しくない。

ちなみに日本には「ブラームス」という馬がいるのかと調べた。

  1. シンボリブラームス
  2. トウカンブラームス
  3. マイネルブラームス

1番の「シンボリブラームス」は、新堀牧場の生産馬なのだが、ここの馬には「シンボリ」を冠した馬が多い。「~」の部分に作曲家名が入っている馬が少なからず存在して面白い。「~バッハ」という馬は数十頭いる。命名者が作曲家バッハをイメージしていたのか怪しく感じるのだが、「~ブラームス」にはその心配は無用だろう。

2016年9月 4日 (日)

競馬の話題

ドイツ競馬の最高峰「バーデン大賞」の話を続ける。

クララ・シューマンは1868年9月4日バーデンバーデンからブラームス宛に手紙を書いた。用件をいろいろ書いた後、「当地では、競馬の話題で持ちきりです」と結ぶ。これがまさに「バーデン大賞」の話題である。同レースは9月第一日曜と決まっている。手紙を書いた9月4日は金曜日だから、レースの前々日だ。前々日となれば出走馬はもちろん、枠順だって決まっているはずだから、人々は盛んに話題にするだろう。

記事「バーデン大賞」でブラームスが同レースを見たかもしれない年を列挙したが、この手紙の存在により、1868年は候補からはずれる。もしブラームスがバーデンバーデンに滞在中なら、それを知らせる手紙を書くはずがないからだ。

一方で、手紙の結びに話題として同レースを引き合いに出すということは、ブラームスがこのレースを知っていた証拠でもある。

2016年9月 3日 (土)

バーデン大賞

ドイツ最強馬を決めるレース。バーデン・バーデンで開催される。国際的にも有名な保養地に集まるセレブ向けにと開催されたのがキッカケ。避暑客目当てのため夏の開催になる。第一回は1858年。今では毎年9月第一日曜日に開催される。

バーデン・バーデン近郊のリヒテンタールは、下記の通りブラームスが夏に滞在したことでも知られている。

  • 1865年
  • 1866年
  • 1867年
  • 1868年
  • 1869年
  • 1871年
  • 1872年

このうち1868年までは、滞在というより短期の立ち寄りに近い。1869年以降は長い滞在になる。1870年は普仏戦争によって滞在をあきらめていると思ったら、バーデン大賞自体も中止だった。レース翌日の新聞に優勝馬の名前が載ったに決まっているから、競馬に興味が無くても目には留まっていた可能性が高い。

2016年9月 2日 (金)

意外な機能

ブログ「ブラームスの辞書」の運営において備蓄記事は最重要事項である。2033年5月7日までの継続を何としても実現するためのリスク管理の根幹でさえある。分厚い備蓄に由来する心の安寧こそが、記事を思いつくゆりかごになっている。

未公開記事を定期的に読むことにしている。ほぼ読書代わりだ。自分で書いたのに、記憶から落ちてしまっている記事もあって、本当の読書に負けない効果もある。公開済みの記事は定期的に目を通していて、誤植をこっそり手直ししているが、未公開記事だって同様だ。それらに目を通すことで事前に誤植が発見できればこれに勝ることは無い。

何よりも、繰り返し記事を読み直すことで表現の無駄を削ったりも出来る。あらたなアイデアのキッカケになることもあるのでバカにしたものではない。

2016年9月 1日 (木)

バランス

定義は意外に難しい。これに配慮出来ることが大人の証明だったりする。なぜなら、バランスを欠く言動はしばしば「大人げない」と形容されるからだ。明らかに良いとされることでも極端はいけませんということだ。

団体競技のチーム編成でもバランスはもっとも重視される。4番打者ばかりのチームが必ずしも最強ではないことはよく知られている。食育の基本は栄養のバランスである。ヴィオラのサイズも実は体格とのバランスなのだろう。

ブラームスの作品について言及される書物やブログを見ていて、しばしば感じるのは器楽偏重の傾向だ。器楽の良い作品が多いのは事実だが、しばしばバランスを欠いていると感じる。あるいは、ブラームスの交響曲を論じる際のベートーヴェンとの関係について配慮のし過ぎを感じることがある。

クララ・シューマンとブラームスの交流を思うときも同様だ。「好いた惚れた」の切り口に議論が偏りすぎると感じることが多い。読まれて何ぼの本やブログであれば、読者を退屈させないために面白おかしく話を脚色することはあるのだと思うが、行き過ぎはげんなりである。

ブラームスの作品を俯瞰して感じるのは、「知」と「情」のバランスだ。知識としての作曲技法が勝ってもいけない。かといって本能の赴くままに旋律を連ねてもいけない。先にへべれけに感動した後に楽譜やアナリーゼを読んで二度ビックリがブラームスのパターンだ。様々な人間の感情を形式の中に盛り込みきって過不足の無い状態だ。おそらく本人は「バランスを取ろう」などとは爪の先ほども思っていないはずだ。本能の赴くままに作曲するとバランスがとれてしまうのだ。こういう種類の天才もあると思う。

かく申す私のブログは、ネタがブラームスに極端に傾いていてバランスを欠いている。つまり大人げないブロブだということだ。

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