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2016年10月31日 (月)

怖い物を見たい

人間の嗜好とはとかく不可解な事が多い。寒い中わざわざスキーに出かけるし、危険を顧みずに冬山にも登る。「わかっちゃいるけどやめられない」人は多い。

そのうちの一つに「怖い目に遭いたい」がある。お化け屋敷に入ったり、ホラー映画をみたり、ジェットコースターに乗ったりする。「怖い物見たさ」という言い回しがキチンと定着していることからもそれが伺える。

本日の話はその最たる物。

バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのシャコンヌニ短調は古来名曲として君臨してきた。その一方でたった一挺のヴァイオリンによって演奏されることを、放置しておけない人が幾多の編曲を試みてきた。

メンデルスゾーンについて調べていて、息を呑んだ。どうやらメンデルスゾーンは話題のシャコンヌを編曲している。というよりヴァイオリンソロのパートをそのまま保存し、ピアノ伴奏を追加したというのだ。これが本当なら聴きたい。

20歳で「マタイ受難曲」を蘇演し、バッハ復活に先鞭をつけたメンデルスゾーンのバッハへの見識は論を待たない。それをきっかけに始まったバッハルネサンスの中で様々な演奏が模索され、現在の目から見ると奇異なトライもあったというが、メンデルスゾーンによるシャコンヌのピアノ補強もインパクトは相当大きい。

ということで、今ではその貴重な録音のCDがある。ブラームスのヴァイオリンソナタの売り場を探していて偶然ゲット。ヴァイオリンソナタ第一番の余白に、シャコンヌのメンデルスゾーン編曲がおさめられている。何かの縁だ。

2016年10月30日 (日)

フィンガルの洞窟

スコットランドに実在する洞窟。18世紀に発見されて以来の名所である。

1830年20歳のメンデルスゾーンは、この地を訪れた感銘を元に作曲したのが序曲「フィンガルの洞窟」だ。以来オーケストラの定番レパートリーになっている。あのワーグナーまでもこの描写力を称賛しているという。

実はブラームスにも「フィンガルの洞窟」がある。作品17-4を背負う女声合唱だ。作品17の4曲は何と言ってもその編成が粋である。ソプラノ2部、アルト1部を伴奏するのがハープと2本のホルンという代物だ。

スコットランドの詩人マクファーソンの叙事詩がフィンガルの洞窟の名声獲得に一役買った。それをヘルダーが独訳したものをブラームスがテキストに採用したのだ。ハ短調4分の2拍子アンダンテの粛々とした歩みが印象的だ。

ブラームス自身は英国に渡ったことがないから現地を訪れていないが、マクファーソンの叙事詩の他、メンデルスゾーンの序曲も知っていたと思われる。

2016年10月29日 (土)

マタイを贈られる

1823年のクリスマスのことだ。14歳のフェリックス・メンデルスゾーンは、祖母からバッハの「マタイ受難曲」の筆写スコアを贈られた。何たるプレゼントだ。羨ましさで言えばバッハ全集第一巻をクララから贈られたブラームスに匹敵すると感じる。バッハは何かとクリスマスがお似合いだ。

メンデルスゾーンはこの6年後に、贈られた作品「マタイ受難曲」の演奏にこぎつける。世に名高い「マタイ受難曲の蘇演」だ。贈った方も贈った方なら、贈られた方もただ者ではない。

ブラームスが友人ホイベルガーと指揮者の暗譜について語っている。暗譜の風潮に批判的なコメントを発した後、メンデルスゾーンに言及している。それによればメンデルスゾーンは「マタイ受難曲」を暗譜で指揮したばかりか、楽団員にも暗譜を求めそれを実現したらしい。ブラームスはそのことを絶賛することで、昨今の暗譜の流れなどまだまだ序の口扱いしている。ブラームス自身は楽友協会の芸術監督時代に「マタイ受難曲」を取り上げた経験があるからメンデルスゾーンの凄さが身にしみているのだ。

メンデルスゾーンは祖母から贈られたスコアを6年かけて勉強したことは間違いない。暗譜はその副産物だろう。

2016年10月28日 (金)

交響曲ハ長調

リヒャルト・ワーグナー現存する唯一の交響曲。弱冠19歳の作品。

ホイベルガーはこの作品についてのブラームスの見解を証言している。音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第2巻53ページだ。「ここからあのワーグナーが生まれるとは驚きだ」というものだ。

示唆に富んだ証言である。19歳の若書きにしては良く出来ているというニュアンスと、後年の楽劇群に比した落差の大きさも言い現していると感じる。同時にメンデルスゾーンの態度にも言及している。メンデルスゾーンは楽譜をちょっと見ただけで何も言わなかったらしい。曰く「メンデルスゾーンも忙しかったのだろう」だ。

同交響曲の自筆スコアは、現在行方不明だ。1833年ライプチヒ・ゲヴァントハウスの演奏会で取り上げられた時に紛失したという。このときゲヴァントハウスの指揮者だったメンデルスゾーンが何か事情を知っていた可能性は高いが真相は闇の中だ。ブラームスがメンデルスゾーンに言及しているのは偶然とは思えない。

2016年10月27日 (木)

M.B.

1809年にメンデルスゾーンが生まれたのはハンブルクだ。申すまでもなくブラームスの故郷でもある。だからという訳ではないがブラームスはもちろんメンデルスゾーンを知っていた。直接会ったことは無いと思われるが、作品を通じて親しんでいたと見るべきだ。

さらに1853年にデュッセルドルフを訪問してシューマン夫妻に会い、しばらく滞在した間、メンデルスゾーンの友人でもあったシューマンから情報を仕入れたに決まっている。おそらくブラームスはメンデルスゾーンに好意的な印象を持ったと思う。

明くる年1854年の春。ロベルト・シューマンの入院との前後関係は不明だが、ヨアヒムに全2集からなるピアノ小品集を贈った。タイトルは「ある音楽家の日記から」といい、ヨハネス・クライスラー作曲とされている。第2集には現在op9になっている「シューマンの主題による変奏曲」から10番目と11番目の変奏が抜けたものが入っていたらしい。興味深いのはこの第1集の最後4曲目に「M.B.の想い出」というロ短調の小品が置かれていたことだ。この「M.B.」は「Mendelssohn Barthordy」の頭文字である。ブラームスなりのメンデルスゾーンの印象が作品に反映されていたことは確実だ。

この曲集をヨアヒムに贈ったことはとても興味深い。ヨアヒムの才能を発見したのは他ならぬメンデルスゾーンだ。ヨアヒム10代の頃ロンドンに同行したこともあるという。自分にシューマンを紹介してくれた恩人ヨアヒムはメンデルスゾーンとも深い親交があったということだ。「私はあなたの恩師メンデルスゾーン先生を、シューマン先生と同様に尊敬しています」というメッセージが込められていたと感じる。

1848年に38歳の若さでこの世を去ったメンデルスゾーンだが、もし少々長生きしていたら、ヨアヒムはきっとブラームスを恩師メンデルスゾーンに紹介していたと思う。

残念なことにこの曲集は現存していない。

2016年10月26日 (水)

本当の狙い

ジョン・エリオット・ガーディナーという指揮者がいる。合唱の業界では名前の知られた人物だ。彼の率いるモンテヴェルディ合唱団は高く評価されている。我が家にもブラームスの合唱曲のCDがいくつかある。その彼がブラームスの第一交響曲を録音したCDが出ている。発売の時には話題になったからご存知の方は多いと思う。

「Bramhs Symphony 1」

「Gardiner」

とだけ書かれている。だからこのCDの目的は第一交響曲を聴かせることなのだと思う。お店で見かけて何気なく手にとって裏を見た。「ありゃ」ってなモンだ。

ブラームスの第一交響曲の前に3曲が収められている。

  1. ブラームス:埋葬歌op13
  2. メンデルスゾーン:「我ら人生の半ばにありて」
  3. ブラームス:運命の歌op54

ブラームスの合唱作品にメンデルスゾーンのアカペラの合唱曲を挟んでいる。この曲、記事「我ら人生の半ばにありて」で言及した通り、ウィーンジンクアカデミーの演奏会でブラームス自ら取り上げている。いわばブラームスゆかりの合唱作品だ。第一交響曲の前座としてやり過ごすには、あまりに意味深だ。一連の経緯を知らずして、この選曲に到達するはずがない。

CDを聴いてみたら、本当の狙いはメンデルスゾーンのアカペラ合唱曲なのではないかと思えてきた。

2016年10月25日 (火)

我ら人生の半ばにありて

1864年1月6日、ブラームスはウィーンジンクアカデミーの演奏会でメンデルスゾーンの無伴奏合唱曲「我ら人生の半ばにありて」op23-3を演奏した。

意外にもメンデルスゾーンはドイツバロックの香りを放つ秀逸な合唱曲を数多く残した。ブラームスもそう感じていたのだと思う。その証拠にバッハ、エッカルト、シュッツら古いドイツバロックの合唱作品にメンデルスゾーンを添えたのだ。意欲的なプログラミングだ。

しかしブラームスはこの年の春まで務めた後、ジンクアカデミーの芸術監督の座から退いている。超玄人好みの選曲に、周囲がついて行けていない空気を読んだものと思われる。

2016年10月24日 (月)

弾丸ツアー

次女の後輩たちが挑む全国大会が一昨日福島県郡山市で開催された。演目は満を持したサンサーンスの「バッカナール」。

晴れ姿を見届けに行ってきた。貸し切りバスを仕立てての日帰り弾丸ツアーに参加した。関係者約30名和気藹々のバスツアー、紅葉前線の遅れだけが想定外の楽しいツアーとなった。

たったの9分のためにいい大人がバスで繰り出す。行きの車内でDVDで上映して、過去の演奏を味わうことで気持ちを高めていった。人に親切にして徳を積み重ねつつ「甲子園」を目指す。

ただただ、あの演奏が誇らしい。あの演奏を披露した学校の関係者であることがひとえにうれしい。「金」という賞の色に収まりきれぬ演奏の価値。10代半ばの乙女たちの渾身の演奏は、サンサーンスへの敬意にあふれた暗譜演奏。冒頭のピチカートは、まるで邪気を追い払うかのような鮮烈な響き。元弓がヴァイオリンG線を深々と噛む音色にはただならぬ決意が立ち込める。管楽器たちの厄介なソロ群は技術的なことより、プレッシャーから逃げ出さぬ根性が見事だ。県予選よりさらに磨きがかかったテンポやダイナミクスの配置。終盤の爆発のために序盤では音量もテンポも抑制されている。指揮者の意図が隅々にまで周知されている演奏だ。全員の方向性の一致なしには絶対に出せぬ音色。気品と推進力が高いレベルでバランスしたと申すべきか。

演奏が終わり、記念撮影にと現れた子ども達は、ステージでの威容とは対象的な清楚な高校生に戻る。郡山というアウェイをホームに代えるような数の保護者が記念撮影の進行を見守っていた。来年の5月まで、あの演奏が繰り返し聴ける。

車内ささやかな祝勝会をかねたバスが戻ったころ日付が変わっていた。

2016年10月23日 (日)

秋の季語

古来日本人は季節のうつろいを愛でてきた。

花はいろいろあるのに黙って花といえば「さくら」だし、月はいつでも眺めることが出来るのに黙って「月」と言えば秋だ。そうした感性は長い年月を経て蓄積されて、歳時記となった。

日本で長くブラームス愛好家を続けていると、時として「ブラームス」が秋の季語ではなかろうかという錯覚に陥る。ブラームスやブラームスの作品が秋と結びつけて語られる機会が多いと感じている。ドイツやオーストリアでも同様な現象が起きているのだろうか。楽壇を2分する論争の渦中にいたブラームスだから、古来作品を巡る論争にさらされてきたが、伝記や解説書を読んでも「秋とブラームス」を結びつけた例にはお目にかかれない。

もしかするとこれは日本独自の現象なのかもしれない。日本人が秋とブラームスを結びつけている原因を楽譜の上に求めることが出来るのだろうか。楽譜がどうなっていると日本人は秋を感じるのだろう。

実は興味深いことに全てのブラームス作品が皆秋と結びつけて語られるかというと、どうも濃淡があるように思う。定性的な話で恐縮だが、一部の作品に限られていると感じる。たとえば「秋はブラームスに限る」と言いながら子守歌やハンガリア舞曲を聴く人には出会ったことがない。だいたい下記の通りと思うが、秋と結びつけて語られることが多い作品の統計など取りようがないから始末が悪い。また、仮にそれが出来ても実際には曲の最初から最後までベッタリと秋を結びつくわけではあるまい。

  1. 晩年のクラリネット入りの室内楽
  2. 作品番号にして116から119のピアノ小品の一部
  3. 交響曲なら3番か4番
  4. ヴァイオリンソナタ第3番

晩年の器楽曲だ。皆さんご存知のあのブラームスの晩年の作品ということが、秋のイメージ想起に関わっていると感じる。

ブラームスのイメージや伝記を既に持っている人が、先入観で秋を結びつけている可能性も捨てきれまい。とすると楽譜上にその痕跡を求めることは徒労でしかない。ブラームスはもちろん秋を作品に盛り込む意図など無かったと思うが、作品の受け手が曲を聴いて膨らませるイメージに介入しない立場だから、きっとニコニコ笑っているだけだろう。

これは日本人が解明するしかない問題には違いないが、一年中ブラームスばかり聴いている私には荷が重い。

2016年10月22日 (土)

紅葉踏み分け

百人一首にある歌。

奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聴く時ぞ秋は悲しき

猿丸大夫の作とされる。

山の紅葉が踏まれていることは確かだ。誰が踏み分けているかについては古来論争がある。「鹿」か「作者」かだ。歌を普通に読んでいるだけではどちらともとれる。

「奥山に紅葉踏み分け」でブレスをすれば「作者」で、「鳴く鹿の」まで一息なら「鹿」だ。音楽で申せばフレージングだ。冒頭から始まるスラーが、どこまで伸びるのかみたいなモンだろう。鹿が山の中にいることは、どちらの解釈でも同じだが、作者がどこにいるのかは、解釈が割れる。だからフレージングやブレスは、大事なんだと娘に説明するよい材料だ。

作者はブレスの場所やアーティキュレーションなんぞ明示したりはしない。まるでバッハのようだ。判断を読者に任せる。このことでかえって鑑賞の幅が広がると感じる。読者はただそれを楽しめばいいが、演奏者には一定のスタンスが求められる。

ブラームス作品に頻発する曖昧な感じは、この歌に通じるような気がしてならない。どちらともとれる感じを意図的に晒して聴き手の判断を問うのだ。調性、旋律、フレージングなどがこの手の意図的曖昧さで味付けされていると思う。

本日、次女の後輩40代と41代のオーケストラ部の「甲子園」ともいうべき、日本学校合奏コンクール全国大会が福島県郡山市で開かれる。中間テストとの両立も求められながら「受験一瞬音楽一生」とばかりに、演奏に磨きをかけてきた成果を披露する。

一部保護者たちはまさに今、北上中の紅葉前線を踏み分けて応援に駆けつける。たった9分の演奏を聴きに陸奥路を駆け上る。そりゃあ、コンクールだから不運も理不尽もあるだろうが、今日の演奏がいかなるものになろうと、私は断固乙女たちの演奏を支持する。

そこでささやかな歌を一首献じて心からのエールとする。

福島に紅葉踏み分け行く親の声聞く時ぞ我ら千葉女子

お粗末。

2016年10月21日 (金)

改宗

重い言葉だ。信じる宗教を変えることだ。本来信仰は自分の自由な意思の現れだから、変えるのは自由なのだと思うが、現実にはそうも行かない。特に改宗が弾圧の結果であるような場合、本人の意思に反する改宗が起こり得る。

音楽史をひもとけばメンデルスゾーンの場合が有名だ。ユダヤ教からプロテスタントへの改宗とともに彼の名前の末尾にバルトルディが付加されることになった。グスタフ・マーラーもユダヤ教からカトリックに改宗した。

グスタフ・マーラーは、作風から申せばいわゆる「ワーグナー派」だった。ブラームスに対するマーラーの評価にそれが反映されている。皮肉なことにワーグナーの現した「音楽におけるユダヤ性」に代表される反ユダヤ主義の影響か、マーラーのウィーン宮廷歌劇場音楽監督への就任を妨げる。おそらくメンデルスゾーンが生前そして死後に受けた困難と同質だと思われる。

1893年マーラーはイシュルにブラームスを訪ねた。理想とする音楽の違いは承知の上で、ブラームスに援助を求めたのだ。ブラームスは音楽性・作風の違いを超えて協力を約束する。

ブラームスのことだから、影響力を駆使して調整を試みたとは思うが、結局マーラーがウィーン歌劇場の音楽監督になるのは、カトリックへの改宗後だった。

私にはいささか荷が重い話題。

2016年10月20日 (木)

メンデルスゾーン管弦楽作品集

メンデルスゾーン作品へのアンテナが高まっている。CDショップを徘徊中にお宝を発見した。メンデルスゾーンの管弦楽作品が手際よく収められた6枚組CDだ。

興味深いのはその収録曲。

弦楽のための交響曲が12曲全て入っている。協奏曲はピアノ協奏曲2曲と真打ヴァイオリン協奏曲、「真夏の夜の夢」「フィンガルの洞窟」「静かな海と穏やかな航海」という定番がキッチリと押えてある。それでいて交響曲は3番「スコットランド」と4番「イタリア」だけだ。声楽入り2番はともかく1番と5番が抜けているのが意表をついている。

気になるお値段は1680円の20%引きだった。1344円で1枚あたり224円だ。

ノータイムで購入を決めた。

2016年10月19日 (水)

それは神の思し召しのままに

日本ブラームス協会編「ブラームスの実像」にブラームスの葬儀の様子が細かく記載されている。それはそれは盛大な葬儀だったことが解る。

カールスガッセの自宅を出た葬列は楽友協会を経由してドロテアガッセの教会に至る。そこで葬儀が営まれた。そのときに演奏されたのが本日のお題だ。メンデルスゾーンのアカペラの合唱曲だった。手許にメンデルスゾーンの作品一覧がないが、おそらくop47のことだと思う。

この選曲は一体誰の発案だろう。葬列が楽友協会に達した際にはブラームスの自作が演奏されたのに、肝心の葬儀で自作が選ばれずにメンデルスゾーンが選ばれた理由が気にかかる。

ブラームスはメンデルスゾーン大好きなことは確かだが、単にそれだけとも思えない。

2016年10月18日 (火)

メンデルスゾーン

ブラームスとの接点を辿る特集を本日立ち上げる。

その人の名はメンデルスゾーンだ。メンデルスゾーンは1809年2月3日ハンブルクの生まれだ。残念ながらメンデルスゾーンの伝記にブラームスはほとんど現れないし、ブラームスの伝記でもシューマンやドヴォルザーク、あるいはシューベルトほどの位置付けは与えられていない。つまり基礎的な情報が薄いのだ。

それでもブログ「ブラームスの辞書」では少々の記事をメンデルスゾーンに捧げることとする。

実はローマ特集の最後の記事「イタリア交響曲」は、ささやかな予告編だった。

2016年10月17日 (月)

ローマ特集総集編

ブラームスが愛した歴史ネタでありながらドイツネタではないという悩ましい位置づけ。

  1. 2016年09月07日 ローマ
  2. 2016年09月08日 Limes
  3. 2016年09月09日 ライミーズ計画
  4. 2016年09月10日 戦線の節約
  5. 2016年09月11日 デトモルト近郊
  6. 2016年09月12日 アルミニウス
  7. 2016年09月13日 黄色
  8. 2016年09月14日 ライン初の架橋
  9. 2016年09月15日 ゲルマン人は長身か
  10. 2016年09月16日 属州
  11. 2016年09月17日 ゲルマニクス
  12. 2016年09月18日 オルトラーナ
  13. 2016年09月19日 Riccio Rosso
  14. 2016年09月20日 Insalata Russa
  15. 2016年09月21日 ステーキの焼き加減
  16. 2016年09月22日 国定公園
  17. 2016年09月23日 ホーエンシュタウフェン朝
  18. 2016年09月24日 皇帝列伝
  19. 2016年09月25日 アッティラ
  20. 2016年09月26日 エッツェル
  21. 2016年09月27日 風の眼
  22. 2016年09月29日 コハク
  23. 2016年09月30日 奴隷制度
  24. 2016年10月01日 旅は道連れ
  25. 2016年10月02日 ヴィッラ・アドリアーナ
  26. 2016年10月03日 モムゼンとの邂逅
  27. 2016年10月04日 アッピア街道
  28. 2016年10月05日 ガリバルディ
  29. 2016年10月06日 アルプスの南
  30. 2016年10月07日 イタリア音楽
  31. 2016年10月08日 サンマリーノ共和国
  32. 2016年10月09日 語彙の確認
  33. 2016年10月10日 マルトゥッチ
  34. 2016年10月11日 イタリア語の二面性
  35. 2016年10月13日 タクシス家
  36. 2016年10月14日 ドイツ史観
  37. 2016年10月15日 ローマ帝国衰亡史
  38. 2016年10月16日 イタリア交響曲
  39. 2016年10月17日 本日のこの記事

2016年10月16日 (日)

イタリア交響曲

中学高校時代にベートーヴェンにのめりこんでいたことは既に何度も述べてきた。そのベートーヴェンラブの中にあって数少ない例外がメンデルスゾーンの交響曲第4番イ長調op90だった。メンデルスゾーン本人は関与していないが「イタリア」と通称されている。

8分の6拍子AllegroVivaceでいきなり走り出す第一楽章が好きだった。鳴りまくるヴァイオリンをささえる木管楽器のタンギングが爽快だ。同じ8分の6拍子でありながらブラームスの第1交響曲とは全くの別世界だ。

スコーンと晴れ上がった青空、全く悩みのない明るさ。ドイツの人がイタリアに持つイメージはかくやと思わせるものがある。景色がよくて飯が旨い。車もカッコいいしサッカーも強い。

停滞することを全く許さぬかのように緩徐楽章さえ滑るように進み、全曲で30分を切る演奏だって珍しくない。

あくまでも直感だが、ベートーヴェンの交響曲第7番の直系の子孫のような気がしている。第1楽章の調性と拍子が同じだ。停滞しない緩徐楽章、終楽章の我を忘れる騒ぎなどなど共通する点が多いと感じる。それでいて手際がよくて品格がある。ベートーヴェン大好き少年の心に忍び込んでも不思議ではない。

2016年10月15日 (土)

ローマ帝国衰亡史

英国の歴史家エドワード・ギボンの著作。全6巻で第一巻の刊行は1776年。今では日本語訳もある。ローマ研究のクラシックである。

これがブラームスの蔵書から見つかったという情報があれば完璧なのだが、そうも行かない。ブラームスのことだイタリア旅行の下調べの中で、独訳版を読んでいた可能性は高いと思うのだがいかがだろう。

ドイツ帝国創立の功臣モルトケは、1832年に出版社から依頼されて「ローマ帝国衰亡史」の独訳を引き受けたことがある。このときは全12巻物として企画されたが、9巻まで刊行したところで、出版社が企画を打ち切ったらしい。

2016年10月14日 (金)

ドイツ史観

私は日頃「ドイツが好きだ」などと気軽に連発している。けれどもこの「ドイツ」という概念は、深く知れば知るほど容易ならざる概念だと判る。国家としてのドイツは1871年のドイツ帝国成立以前には存在しなかった。ドイツ人という概念も同様だ。

ドイツ語圏、神聖ローマ帝国、東フランク王国と微妙なこじつけを繰り返し、ドイツの起原を古くに持って行くことも可能だ。その行き着く先がトイトブルクの戦いにおける英雄アルミニウスだ。ドイツの起原はローマに対峙したゲルマンに行き着く。その後の歴史は周知の通り。30年戦争、7年戦争など苦難に満ちたものだ。ブラームスの生きた19世紀のドイツ人にとって、最も生々しい試練は、隣国に現れた天才によって蹂躙された屈辱だろう。つまりナポレオンだ。その苦い記憶の中から心底統一ドイツを望む機運が生まれてくる。列強とりわけフランスに追いつき追い越せの国民的運動だ。

ドイツロマン派はその流れの牽引車だと目される。民謡や民話の研究が進むのもそうした機運の反映と位置づけ得る。ほかならぬ音楽にもあった。音楽が目指すのはフランスではなくイタリアだった。19世紀初頭まで音楽と言えばイタリアだ。オペラを頂点とする音楽文化は、イコールイタリアの牙城だ。ドイツ語圏随一の芸術都市ウイーンでさえ、枢要なポストはイタリア人が独占していた。

タイミングよくベートーヴェンが台頭した幸運、バッハの復興もあって、ドイツ人たちは音楽史を読み替える。バッハを音楽の父、とっくに英国人になっていたヘンデルを母に据えつけたドイツ音楽史観の構築だ。ちょうどそのころ文明開化を迎えた日本では、音楽教育にドイツ式を導入したものだから、音楽室の肖像はドイツ人優勢になる。「アレグロ」や「フォルテ」などの音楽用語がイタリア語であることは、さらりとスルーされる。ブラームスが収集した古楽譜のリストに、イタリアの作曲家が充満していることは象徴的だ。音楽用語にドイツ語を使う作曲家の出現はちょうどこの時期だ。

2016年10月13日 (木)

タクシス家

欧州郵便事業を確立したのはハプスブルク家のマクシミリアン1世だ。自らの居城インスブルックと、息子のフィリップ美王の住むブリュッセルの間に定期郵便を開設したのが始まり。ネーデルランドとミラノに所領を有した彼は、統治の効率を上げるために情報インフラの整備に着手した。16世紀初頭の話だ。

イタリアはベルガモのタッシス家に命じて皇帝の郵便物を無料で配送するよう命じたのだ。当初郵便は公用に限られていたが、ミラノとネーデルランドは欧州随一の貿易の拠点だから、有力商人たちの郵便ニーズがあったのだ。程なく一般郵便も認められた。タクシス家は、皇帝の信任厚く、事業の独占権と世襲権を認められて勢いに乗った。やがて貴族に列せられてトゥルンウントタクシス家となる。

以降、トゥルンウントタクシス家は、宗教改革、30年戦争などの幾多の困難を乗り越えて、血縁関係を縦横に駆使しながら現代まで続く郵便制度の基礎を築いた。欧州の偉人研究において確固たる位置づけにある書簡は、信頼性高くかつ安価な郵便制度がその基礎になっていた。研究者によってはこれを、グーテンベルクの活版印刷に匹敵するとまで評価している。

2016年10月12日 (水)

バッカナール

次女から見れば4つ年下にあたるオーケストラ部40代の子供たちが、日本学校合奏コンクール千葉県予選に臨んだ。

結果から申し上げる。金賞と全国大会出場権を獲得した。乙女たちが全国に打って出ようと選んだのがサンサーンス作曲歌劇「サムソンとデリラ」より「バッカナール。

集まったOGや親たちの祈りを載せた演奏。清冽なピチカート一閃とともに走りだすのはオーボエのソロ。オリエントテイストを前面に押し出す「ドソロ」「大ソロ」だ。10代半ばの乙女がどれほどのプレッシャーに耐えているのかを思いやると切ないばかりだ。これ以上演奏の出来を申し上げることは控える。言葉の限界がただ露呈するだけだ。

「おめでとう」とだけ。

メンバーの中に4月に楽器を始めたばかりの生徒が少なからず混在することは奇跡。夏からでさえ相当な成長だ。文字通り子供を大人にするコンクールである。一方で、応援した親たちの熱狂も並ではない。子育て終盤の高校生活でこうまで大人がのめりこむものかと。曰く「子供を大人にし、大人を子供にするコンクール」である。

全国大会は福島県郡山市。4年前次女も演奏した思い出の街。野球で言うなら「甲子園」。男の子がいて甲子園に出るともなれば、仕事休んで親が押し掛ける。野球なら9イニングだが、彼女たちの持ち時間は9分だ。よいではないか。9分のためにバスを仕立てるくらいしてやらねば、乙女たちの積み重ねた努力に報いることなど逆立ちしても無理だ。

2016年10月11日 (火)

イタリア語の二面性

イタリア語には二面性があると感じている。

一つは言わずもがな。「イタリア人の日常語」という位置付けだ。もう一つは、「音楽用語の共通語」という側面だ。

イタリア語はさっぱり判らぬ私ではあるが、「Adagio」や「Presto」でまごつくことはない。「音楽用語はイタリア語」という共通認識が確立してから、かなりな年月が経過しているため、既にこの両者は独立した位置づけを獲得してしまったように見える。

作曲家は、みずからの作品を演奏家に間違いなく演奏してもらうための諸注意をイタリア語然とした「音楽共通語」で書き記す。この場合、作曲家本人がイタリア語に堪能である必要は全く無い。作曲家自身がその瞬間までに積み上げて来た音楽経験に照らして、「音楽共通語」の語彙の中から適当と思う単語を選んで羅列するだけだ。イタリア語本来の使い方として正しいかどうかは二の次である。

ワルツop39-7には冒頭に「poco piu andante」と書かれている。直前のワルツop39-6より少し遅いテンポでという意味合いだ。ところが解説書などではこれにコメントが付くことがある。イタリア語本来の用法によれば「少し遅く」であるなら「poco piu andante」とは言わないという指摘だ。「ブラームスはしばしばイタリア語を正しく使っていない」と言及されることもある。

この指摘はまさにイタリア語の二面性への配慮が足りないと感じる。ブラームスはイタリア語のネイティブな使い手ではないし、イタリア語辞典を書いたのでもない。「音楽共通語」を使って作品のニュアンスを伝えようとしたに過ぎないのだ。現に大抵は「前曲6番よりテンポを落とすのね」と伝わってしまう。

イタリア人を筆頭に、正しいイタリア語の使い手から見れば気持ちが悪いのかもしれないが、ブラームスが正しいイタリア語の使い手ではないことは、作品の素晴らしさの前には、取るに足らないことである。

その一方でイタリア語を正しく操りながら、ブラームスほどの作品を残せなかった作曲家も多いことは、気に留めておきたい。

2016年10月10日 (月)

マルトゥッチ

ジョゼッペ・マルトゥッチ(Gieuseppe Martucci)1856-1909はイタリアの作曲家、ピアニスト、指揮者だ。オペラ一辺倒のイタリアの風潮に異を唱えたことで知られる。教育者としても名高くナポリ、ボローニャで教鞭をとった。

1888年5月旅行でイタリア・ボローニャを訪れたブラームスをマルトゥッチが表敬訪問した。このときの旅のパートナーであるヴィトマンの証言だ。マルトゥッチがイタリア語まくしたてるので当初は通訳が必要と思われたが、やがて意気投合した二人は通訳を必要としなくなった。マルトゥッチはこのときまでのブラームスの室内楽を全部暗譜していたらしい。主題を次から次へと歌ったのだ。ブラームス自らも歌いだし通訳が不要になったと証言されている。

このときまでに出版していた室内楽は18曲。ヴァイオリンソナタ3番と弦楽五重奏曲第2番、そして一連のクラリネット入り室内楽だけが未出版だ。18曲を暗譜していたとは素晴らしい。暗譜はしていないが、作品の主題を歌うだけなら私にだって出来る。これに交響曲、協奏曲を含めても歌える。

生涯に8回あったイタリア旅行は、必ずパートナーを連れて行った。それも音楽家ではない人物を選んでいる。旅行先で演奏をしたことは一度もないし、コンサートに出かけた記録もない。つまりイタリア旅行はブラームスにとっての息抜きなのだ。興味の対象は主に美術と建築だったらしい。だからこのマルトゥッチとの会見は異例である。

2人の歌合戦を聴いてみたかった。

2016年10月 9日 (日)

語彙の確認

作曲家たちは自作の楽譜上にイタリア語起源の音楽用語を書くとき、ネイティブのイタリア人にその単語のイタリア語本来の意味や用法を確認しているのだろうか。ほとんどこれは愚かな質問だ。そんなことはしていないだろう。

おそらくブラームスは、その初期の段階から音楽用語として定着したイタリア語をドイツ人教師から教えられたはずだ。イタリア語本来の意味や用法に言及されることなく、既にドイツで音楽用語として定着済みの意味を言い含められたハズだ。

ブラームス作品の楽譜上にはイタリア語然とした音楽用語が満ちあふれているが、イタリア語辞典で元の意味を調べることに過剰な期待をしない方がいい。鵜呑み厳禁の参考情報程度に捉えるべきだ。ブラームスのイタリア語力にはあまり期待してはいけない。イタリア語として正しい言い回しかどうかには無頓着だった可能性が高い。イタリア語本来の用法とのズレは、楽譜上での分布や用法の分析を通して推定するしかない。

「ブラームスの辞書」はそうしたズレの推定をする助けになりたいと思っている。

2016年10月 8日 (土)

サンマリーノ共和国

周囲をイタリアに囲まれた小共和国。外貨獲得策の一環で収集家向けの美しい切手を発行することで知られている。ブラームスも旅行で立ち寄ったことがある。知人の息子のために切手をたくさん買ったらしい。

私も小学生時代、切手収集に没頭していた。自慢は切手趣味週間「見返り美人」と国際文通週間「蒲原」だった。

2016年10月 7日 (金)

イタリア音楽

ブラームスは生涯英国の地を踏むことが無かったことと対照的に、イタリアには何度か足を踏み入れている。大抵は音楽家以外の友人と連れ立っての旅行である。

旅行の前には、行程や見所についての予備知識を仕入れ、念の入った準備をするのが常だった。その興味の対象は、絵画、彫刻、建造物、史跡だったらしい。そう、音楽が抜けているのだ。ヴェルディのオペラを評価しながら、実際にイタリアでは音楽に深く接することは無かったと、友人たちが証言している。

ブラームスがイタリアについて「絵画、彫刻、建造物ほど、音楽は魅力的ではない」と語ったというエピソードもあるくらいである。このエピソードは「それほど絵画、彫刻、建造物が素晴らしい」という文脈で引用される場合もあるが、「イタリア音楽に興味が湧かなかった」の意味で引用されるケースもある。ヴェルディのオペラが素晴らしいことと、街中で鳴る音楽が素晴らしいかとは別問題と言いたげでさえある。

ブラームスがイタリア音楽を嫌っていた訳ではない。ヴィオッティのヴァイオリン協奏曲への傾倒は、少し詳しい伝記のヴァイオリン協奏曲の周辺に載っている。

旅行の行き先たるイタリアと、イタリア音楽を冷静に分けて考えていたのかもしれない。

だとすると、イタリア旅行の後に作曲された作品に対して「陽光まばゆいイタリアの影響」という類の修飾句を奉るのは慎重にしたほうがいいのではないだろうか?

2016年10月 6日 (木)

アルプスの南

イタリアの異名。陽光まばゆいイタリアはしばしばドイツ人の憧れと表現される。ブラームスは友人をイタリア旅行に誘う手紙で、しばしば「アルプスの南に同行いただけませんか」などの表現をしている。「アルプスの南」は「イタリア」と同義である。

フランス人のみがニースからジェノヴァへの海岸沿いを進んでイタリア入りできるが、ブラームスには難しい。アルプス越えは必須だ。

ウィーンからイタリアに入るにはおそらくゼメリンク峠越えが現実的だ。イタリア滞在の後はそのまま夏の避暑地に向かうことが多いから、帰路は別のルートになる。トゥーンやバーデンバーデンに帰るならサンゴタール峠越えが効率的だし、イシュルに戻るならウディーネからまっすぐ北上し、プレッケン峠を越えて、オーストリア最高峰グロッスグロックネルの東麓をかすめつつ、ザルツブルクを目指すルートが考えられる。起点がヴェローナならブレンナー峠も悪くない。

2016年10月 5日 (水)

ガリバルディ

イタリア独立の立役者。1807年生まれで1882年に没したから、ほぼブラームスと同時代の人。イタリア人ならおよそ知らぬ者はいないという英雄。「1にキリスト、2にガリバルディ」という位置づけだ。

イタリア旅行中の一コマ。同行者ヴィトマンの証言によれば、大作曲家ブラームスとは知らぬパレルモのサンジョヴァンニ修道院のガイドがブラームスを「まるでガリバルディのようだ」と評したらしい。ガリバルディ没後10年も経たぬ時期だから、人々のの記憶に新しかったはず。おそらく「只者ではない」という意味で用いられたと思われる。

言われたブラームスは、歴史に詳しかったから喜んだものと思われる。

2016年10月 4日 (火)

アッピア街道

「街道の女王」とも言われる古代ローマの街道。紀元前4世紀に建設が始まった。ローマから南東に進みナポリをかすめてアドリア海側に渡り、ブランディシに至る。

現在もなお保存されている部分も多いどころか、実際に使用されている。

1890年、作家のヴィトマンが同行したイタリア旅行の際、ローマ近郊のアッピア街道を訪れている。ヴィトマンはこれを「疲労困憊徒歩旅行」と表現しているが、実際にどこからどこまで歩いたかは不明である。

歴史的予備知識無しに偶然観光ルートに採用するとも思えない。私が調べる程度の知識は事前に仕入れていたと考えるのが自然だ。

2016年10月 3日 (月)

モムゼンとの邂逅

テオドール・モムゼン(Theodor Mommsen1817-1903)は、ドイツの歴史学者。シュレスヴィヒ生まれ。とりわけローマ研究で名高い。著書「ローマ史」により1902年にはノーベル文学賞を受賞している。

ブラームスはモムゼンのことを知っていた。とりわけ高く評価していたと思われる。1887年のイタリア旅行中、列車の乗り継ぎの際、偶然モムゼンと鉢合わせしたというエピソードを、友人のヴィトマンが証言している。地元の土産物の販売人が、モムゼンにコインを売りつけようとした話を紹介している。

コインの研究はローマの歴史研究において無視し得ぬ領域を形成している。若い販売人に、コインに刻印された文字の意味を教えてやったという。周囲の人々がそれがモムゼンだと判って歓声を上げたことに、ブラームスがいたく感動したらしい。

ブラームスの歴史の知識がローマ旅行の肥やしになっていたことは確実だ。

2016年10月 2日 (日)

ヴィッラ・アドリアーナ

ローマの東およそ30km、ティヴォリという街にある世界遺産。ローマ14代皇帝ハドリアヌスの別荘。ティヴォリ一帯はローマのセレブたちの別荘地だった。

1888年ブラームスは友人のヴィトマンとのイタリア旅行の際、ヴィッラ・アドリアーナを訪れている。

素晴らしい偶然がある。別荘の主ハドリアヌス帝はローマ五賢帝の3番目に数えられる名君だが、彼の誕生日は西暦76年1月24日である。私が生まれる2037年前に生まれたことになる。

2016年10月 1日 (土)

旅は道連れ

唐突な話題。ブラームスの生涯8度のイタリア旅行は、ただの一度も一人旅をしていない。必ず同行者がいた。

  1. 1878年 テオドール・ビルロート、カール・ゴルトマルク
  2. 1881年 テオドール・ビルロート
  3. 1882年 テオドール・ビルロート
  4. 1884年 ルドルフ・フォン・デア・ライエン
  5. 1887年 フリッツ・ジムロック、テオドール・キルヒナー
  6. 1888年 ヨーゼフ・ヴィトマン
  7. 1890年 ヨーゼフ・ヴィトマン
  8. 1893年 ヨーゼフ・ヴィトマン

ビルロートとヴィトマンがそれぞれ3回帯同している。大抵の伝記には載っているのだが、漫然と読んでいると記憶には残らないので一覧にしておく。

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