ドイツ史観
私は日頃「ドイツが好きだ」などと気軽に連発している。けれどもこの「ドイツ」という概念は、深く知れば知るほど容易ならざる概念だと判る。国家としてのドイツは1871年のドイツ帝国成立以前には存在しなかった。ドイツ人という概念も同様だ。
ドイツ語圏、神聖ローマ帝国、東フランク王国と微妙なこじつけを繰り返し、ドイツの起原を古くに持って行くことも可能だ。その行き着く先がトイトブルクの戦いにおける英雄アルミニウスだ。ドイツの起原はローマに対峙したゲルマンに行き着く。その後の歴史は周知の通り。30年戦争、7年戦争など苦難に満ちたものだ。ブラームスの生きた19世紀のドイツ人にとって、最も生々しい試練は、隣国に現れた天才によって蹂躙された屈辱だろう。つまりナポレオンだ。その苦い記憶の中から心底統一ドイツを望む機運が生まれてくる。列強とりわけフランスに追いつき追い越せの国民的運動だ。
ドイツロマン派はその流れの牽引車だと目される。民謡や民話の研究が進むのもそうした機運の反映と位置づけ得る。ほかならぬ音楽にもあった。音楽が目指すのはフランスではなくイタリアだった。19世紀初頭まで音楽と言えばイタリアだ。オペラを頂点とする音楽文化は、イコールイタリアの牙城だ。ドイツ語圏随一の芸術都市ウイーンでさえ、枢要なポストはイタリア人が独占していた。
タイミングよくベートーヴェンが台頭した幸運、バッハの復興もあって、ドイツ人たちは音楽史を読み替える。バッハを音楽の父、とっくに英国人になっていたヘンデルを母に据えつけたドイツ音楽史観の構築だ。ちょうどそのころ文明開化を迎えた日本では、音楽教育にドイツ式を導入したものだから、音楽室の肖像はドイツ人優勢になる。「アレグロ」や「フォルテ」などの音楽用語がイタリア語であることは、さらりとスルーされる。ブラームスが収集した古楽譜のリストに、イタリアの作曲家が充満していることは象徴的だ。音楽用語にドイツ語を使う作曲家の出現はちょうどこの時期だ。
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