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2016年12月31日 (土)

ブログの初回

私には癖がある。興味深いブログに出会った時、プロフィールページと初回の記事を見に行くことにしている。

プロフィールページを見に行く理由はシンプル。やっぱりどんな人が書いたのか知りたい。

最初の記事を見るのは、どれくらい前に始まったブログなのか知りたくなるからだ。現在のブログが元気でイキがいいとき程、初めの一歩が見たいと思う。大河の源流のそのまた最初の一滴を見たいのだ。

それがどれほど昔の記事であっても、現在の作風に通ずる兆候が宿っているものだと思う。ブラームスの初期作品には必ず壮年期のかすかな兆候が静かに横たわっているのと同じだ。

我がブログ「ブラームスの辞書」の最初の記事はこれだ。

はじめての自費出版本「ブラームスの辞書」の宣伝用にと立ち上げたあの記事から今日で4234日が経過した。

2016年12月30日 (金)

楽観出来ること

ブログ「ブラームスの辞書」が2033年5月7日までの欠かさぬ更新を目指していることは、事ある毎に述べている。自分への確認作業でもある。そのための準備として私ができることの第一は記事の備蓄。自分の健康や脳みその働きぶりを信用できないという因果な性格のせいだ。元気なうちにゴールに必要な記事を確保したいという小市民的理由。

自分の健康や脳味噌の働きが信用出来ない一方で、楽観していることもある。

2033年5月7日のゴールまでの間、私のブラームス好きが持続するかについては、微塵も疑っていない。中学時代に大好きだったベートーヴェン好きがわずか5年でブラームスに置き換わったというのに、かれこれ35年続いているブラームス好きは、今後も変わらないと確信できている。

悲観と楽観の基準が我ながら面白い。

2016年12月29日 (木)

楽曲解説

音楽書籍や、音楽関連文の中での主要なジャンルの一つ。

古今の音楽作品が、作曲家別、編成別、作曲順に分類されて音楽の流れをトレースしながら作品の概要がサマリーされる。譜例が提示されることも珍しくない。楽曲が採用する形式、拍子、調性、作曲のエピソード、歴史的位置付け等を織り交ぜることが普通だ。主題間の関係、調性の選択、作品全体の有機的なまとまり等についてとりわけ深く言及されている場合には「アナリーゼ」と呼ばれることもある。

「序奏」「第一主題」「第二主題」「提示部」「展開部」「再現部」「コーダ」という楽曲を構成するパーツに各駅停車して解説してくれるので、作品全体を手早く俯瞰したい場合に重宝する。この機能には膨大なニーズが存在すると見えて、いわゆる楽曲解説の書物は相当な数が世の中に流布している。

初めての自費出版本「ブラームスの辞書」あるいは、ブログ「ブラームスの辞書」は、先行する膨大な量の楽曲解説の海に、遅れて漕ぎ出す立場であった。レイトスターターであるハンデに加え素人の駄文という二重の制約を抱えての船出にあたり考えたことは、ひとえに差別化だ。市場の隙間がありはしないかと考えた。

あえて作品という横串をはずしてブラームスを議論することに重点を置き換えてみた。一つの作品の中に、珍しい箇所を発見したとする。ブラームスの他の作品に同様の事例がないか検証する。同様の事例が発見出来なければ、「生涯唯一の」と騒ぎ、同一の事例が発見されれば、それらを集計分析してブラームスの癖に迫るという立場だ。作品をよりミクロに見つめて、音楽記号一個、音楽用語一個、音符一個という細かな単位に遡って作品の魅力に迫りたいと考える。ブラームスを代表する大管弦楽にも、見開き1ページのひそやかな歌曲にも、ブラームスたらしめる痕跡は必ず埋め込まれていると信じる。現代日本における作品の知名度や演奏の頻度、CDの出版枚数にはとらわれずに考えを深める。

2016年12月28日 (水)

わくわく感

年の瀬のあわただしい中、都内の某古書店で、「ブラームスの辞書」を見つけた。音楽書の棚にチョコンと置かれていた。状態は美麗なのに、お値段も少々ディスカウンされている。

なんだか、くすぐったい感じがする。

売れ行きが気にはなる。時々のぞいてみようと思う。

2016年12月27日 (火)

優先順位

会社にいるとよく耳にする。時間と仕事の折り合いをつける際にはこれが必須だ。苦労して決めた優先順位が的はずれだったりすると失笑のキッカケになりかねない。

お金や才能の有無に関係なく、1日に使える時間は24時間と決まっている。この点神様は公平だ。私たちはこの虎の子の24時間を半ば無意識に半ば意図的に時間配分している。その際に優先順位が物を言う。

この優先順位には個人個人の事情が制約になるばかりか、物の考え方や要領の善し悪しまでもが反映されざるを得ない。古来この周辺の段取りに言及した言い回しも多い。「四当五落」などが典型だ。

私の場合、大切な順に並べると以下の通りだ。

  1. 寝る時間
  2. 食べる時間
  3. 排泄の時間
  4. 入浴の時間
  5. 仕事 もちろん家事・子育てもここに入る。
  6. 家族とのコミュニケーション
  7. 通勤通学の時間 無視できない。
  8. 余暇の時間

ブログ「ブラームスの辞書」の管理運営は8番目の一部だ。毎日1本の記事をアップするだけだから時間的には大した負担ではない。だから25年続けることも出来る。

2016年12月26日 (月)

シシィ特集総集編

エリザベート皇后シシィ特集の総集編だ。

  1. 20161214 皇妃エリザベート
  2. 20161215 巡洋艦カイゼリンエリザベート
  3. 20161216 いとこ 
  4. 20161217 シシィの隣
  5. 20161219 イシュルの恋
  6. 20161220 姉の嫁ぎ先
  7. 20161221  ヘルメスヴィラ
  8. 20161222 ロイヤルウェディング
  9. 20161223 カイザーヴィラ
  10. 20161224 同じ誕生日
  11. 20161225 フォーティフ教会
  12. 20161226 本日のこの記事

2016年12月25日 (日)

フォーティフ教会

1853年2月18日だからブラームスがデュッセルドルフにシューマン邸を訪ね、長い滞在を切り上げた後の大事件のあった日。この日ウイーンで皇帝フランツ・ヨーゼフ1世暗殺未遂事件がおきた。

皇帝は武官一人をお供に従えて散歩に出た。現在の国立歌劇場のあたりで暴漢に襲われた。幸い怪我は軽くて程なく回復した。これを祝して建てられたのがフォーティフ教会だ。

実は事件当日の夜宮廷主催の舞踏会が予定されていた。招かれた賓客の中に、皇帝の母ゾフィーの妹バイエルン公后ルドヴィカとその長女ヘレーネがいた。23歳の皇帝フランツ・ヨーゼフの見合いが設定されていた。当然事件のために見合いは中止となり、翌年夏にイシュルに延期された。イシュルの見合いでは、皇帝がヘレーネの妹エリザベートに一目ぼれしてしまうこととなる。このエリザベートこそがシシィ皇后である。

もし、暗殺未遂事件が無かったら、フォーティフ教会が建てられることはなかったことは確実なのだが、欧州一の美貌を誇ったエリザベート皇后も誕生していなかった可能性が高い。

2016年12月24日 (土)

同じ誕生日

何かの集まりに出て自分と同じ誕生日の人がいると親近感が湧く。ましてや同じ年の同じ日だったらなおさらだ。ブラームスの周辺でもあった。生年は違うけれど、クララ・シューマンとシェーンベルクが目立つ。

さて、興味深いケースを加えることにする。オーストリア后妃エリザベートとコジマ・ワーグナーだ。2人とも1837年12月24日の生まれ。美貌の后妃とワーグナーの妻という話題性に加えて、それがクリスマスイブだという奇遇。

「ブラームスの辞書」的にはど真ん中の2人ではないけれども、きわどくストライクゾーンをかすめる。

2016年12月23日 (金)

カイザーヴィラ

オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世がバート・イシュルに所有した別荘。欧州屈指の景勝地イシュルにあって現在もなお最高の観光スポットとなっている。何しろ皇帝が毎夏決まってここを訪れるご利益は計り知れない。行幸は生涯に60回を数えたという。エリザベート皇后も気に入っていたという。

ブラームスもイシュルにはたびたび滞在しているから、皇帝とすれ違うことは無かったにしても、滞在期間の多くは皇帝の滞在とかぶっていたと思われる。

1891年7月3日イシュル滞在中のブラームスは、友人ホイベルガーを誘って帝室庭園を散歩したという。例によって音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第2巻73ページにある。ホイベルガーの証言だ。ここでいう「帝室庭園」は「カイザーヴィラ」の訳語と見て間違い無さそうだ。

何よりもイシュルは、カイザーフランツがシシィに一目惚れした思い出の場所である。

2016年12月22日 (木)

ロイヤルウェディング

王室や皇室の結婚のこと。

1854年4月20日。オーストリア皇太子に嫁ぐシシィは故郷のミュンヘンを立つ。ミュンヘンからウィーンへの沿道は人々でごったがえした。熱狂していたのは人々だけではない。花婿本人が、リンツまで迎えに出たのだ。リンツは、ウィーンとミュンヘンのほぼ中間、オーストリアとバイエルンの国境に近い。皇太子が国境まで花嫁を迎えに出たということだ。ドナウ川を特別製の汽船で遡っての異例の出迎えである。

4月23日一行はウィーンに入る。今度は花嫁の美貌に市民が息を呑む番だ。結婚式はホフブルクに隣接するアウグスティーナ教会で4月24日に挙行された。

4月28日祝賀舞踏会が王宮で催された。このときヨハン・シュトラウス2世が「エリザベートの調べ」を初演し皇妃に捧げたという。

この頃ブラームスはと言えばデュッセルドルフにいた。2月に投身しエンデニヒの病院に収容されたロベルト・シューマンの留守宅を守っていた。

2016年12月21日 (水)

ヘルメスヴィラ

ウィーンに滞在することを嫌うシシィを、少しでもウィーンに引き止めるため、皇帝が用意した離宮。シューンブルン宮殿の西南西およそ5kmの至近にある。現在はウィーン市立歴史博物館の分館になっている。ラインツ動物園の中にある離宮で、命名はシシィ自身といわれている。この動物園も只者ではなくて、王室の狩猟場が市民に開放されたもの。原則放し飼いで入園無料らしい。

シシィとブラームスは生きた時代がかぶる。ブラームスがしばしば散歩に訪れた可能性もある。

2016年12月20日 (火)

姉の嫁ぎ先

フランツ・ヨーゼフ1世の見合いがとんだサプライズだった話は既にしておいた。見合いの相手は姉ヘレーネだったはずだが、フランツィは妹のエリザベートに一目惚れだった。姉のヘレーネだって器量自慢だったと伝えられている。実際結婚となったエリザベートの美貌は、周知の通りだから、ヘレーネだって相当なモンだと考えられる。

エリザベートのシンデレラストーリーの割を食った姉の心中察すると切ないものがある。皇太子本人の気紛れとはいえ、当時は家対家のつきあいだから、ハプスブルク家は相当気まずかったと思われる。

その姉ヘレーネが嫁いだのが、タクシス家だ。もちろん貴族なのだがやや風変わりでもある。もともとはタッシス家というイタリアの家柄だ。15世紀にマクシミリアン1世が、帝国の書簡の集配を委託して、郵便事業に手を染めた。やがて民間郵便にも参入し、事業の独占と世襲を認められ、大財閥の様相を呈するに至る。

近代に入ると郵便の重要性は増し、オーストリア、プロイセン、スイス、イタリア、チェコ、ハンガリーにまたがる事業網を、次々と諸国家に売却し巨万の富を得た。

皇后エリザベートの苦難を考えると、姉の人生も悪くないのではと思えてくる。

2016年12月19日 (月)

イシュルの恋

我がブログで「イシュルの恋」などと申せば、ブラームスのロマンスかと紛らわしい。

1853年夏の出来事だ。ブラームスにとってもシューマン邸宅を訪ねる直前の夏、レーメニーと決裂したブラームスは、ゲッティンゲンにヨアヒムを訪ねすっかり意気投合した後、ライン地方に徒歩旅行を企てたのが8月だった。

その8月16日に欧州のセレブが集結する避暑地イシュルでオーストリア皇太子は見合いにのぞんだ。お相手はバイエルン・ヴィッテルスバッハ家の王女でヘレーネといった。見合いの席に王女の妹エリザベートも同席したのが運命の分かれ道だ。皇太子はその妹に一目ぼれした。シシィである。母親どうしが姉妹だから2人はいとこ同士だった。

翌17日夜の舞踏会で、皇太子がダンスに誘ったのは妹のシシィだ。王室の作法を無視してシシィは皇太子の誘いを受ける。当時のしきたりで舞踏会最後の「コチュン」をシシィと踊る皇帝がいた。つまりそれは破格の待遇で、実質的なプロポーズだった。

明くる18日は皇太子の23歳の誕生日。皇太子は母である皇后ゾフィーに、ヘレネではなくシシィを妃にと告げた。驚く母を尻目に話はトントン進む。

19日朝、シシィの結婚承諾書が皇太子のもとに届く。シシィ母娘の滞在するホテルに単独で乗り込んでシシィに接吻を贈る。皇太子にとって最高の誕生日プレゼントはシシィだ。

ヨアヒムと会ってようやく運が回ってきそうなブラームスが、一人ライン地方を単独で徒歩旅行をしていた頃、のちのオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の恋もまた花開こうとしていた。このことに言及するブラームス関連本は無いと申してよい。エッヘン。

2016年12月18日 (日)

CWC

今や宴たけなわのクラブワールドカップ。本日夜決勝戦がある。愛する鹿島アントラーズがレアルマドリードと対戦する。そんじょそこらの親善試合ではなくてFIFA主催の公式戦で、あのレアルと優勝をかけて争うというある得ぬ状況を、なんとしてもブログに残したい。

Cロナウド一人でチーム全員のサラリーを超えているという落差。何が起こるかわからぬサッカーだから今はこうして夢を見る。

鹿島アントラーズにブラームスのご加護を特盛で。

2016年12月17日 (土)

シシィの隣

当時欧州一といわれた美貌の皇后エリザベートは、姑との確執からかウィーンを不在にしがちだったが、1873年は少々事情が違った。開催中のウィーン万博を訪れる外国からの賓客をもてなす席には欠かせない存在だったからだ。

ものさしで量ったように日本から岩倉使節団がウィーンを訪問した。1873年6月8日皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に謁見し明治天皇からの国書を拝呈する。同日皇帝主催の晩餐会が開かれ后妃も出席した。美貌の后妃の隣に座ったのが使節団の団長というべき全権大使の岩倉具視だった。

使節団の公式報告書たる「米欧回覧実記」には、晩餐会のことは詳しく書かれていない。使節団の目的や、公式報告書の位置づけからも、オーストリアの皇后が美人だったとは書きにくいのだろう。ビスマルクの演説を絶賛しているというのに、エリザベート后妃のことは、スルーしている。他国での歓迎晩餐会の様子も似たり寄ったりだから仕方がない。

2016年12月16日 (金)

いとこ

祖父と祖母のうちどちらかまたは両方を共有する兄弟姉妹以外の人同士を「いとこ」という。既にブログ「ブラームスの辞書」では、アガーテを話題にした。この人の父親はゲッティンゲン大学の教授だが、幕末の日本を揺るがした「ジーボルト事件」の当事者フランツ・フォン・ジーボルトのいとこにあたる。

「父のいとこ」で思い出すのは、ノイシュヴァンシュタイン城の建設で名高いバイエルン王ルートヴィヒ2世だ。彼の父マクシミリアン2世は、オーストリア皇妃エリザベート通称シシィのいとこだ。ルートヴィヒ2世の若いころの肖像を見るとなんとなくシシィに似ているような気がする。2人はもちろん面識があった。文通の中では互いに「鷲」「鳩」と呼び合ったという。

2016年12月15日 (木)

巡洋艦カイゼリンエリザベート

第一次大戦中のオーストリア海軍の巡洋艦。カイゼリン・エリザベートは「Kayserin Elizabeth」と綴るから「后妃エリザベート」という意味だ。皇帝フランツヨーゼフ1世の后の名前をとった巡洋艦だ。

この艦は、何かと日本と縁がある。まず1894年オーストリア皇太子フェルディナンドが世界周遊の一環で訪日した際に乗ってきた船だ。そして1914年第一次大戦勃発時青島において、日本軍の攻撃にさらされ、自沈している。乗組員は陸上で戦闘を続けたが、力尽きて降伏し捕虜になった。乗組員の一部が千葉県習志野市に収容されていた。

同型の一番艦がフランツヨーゼフ1世という名前だ。皇帝夫妻の名前が巡洋艦に採用されていたということだ。

2016年12月14日 (水)

皇妃エリザベート

オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の妃。愛称は「Sisi」。本名はElizabeth Amalie Eugenieという。1837年のクリスマスイヴに生まれた。バイエルンのお姫様15歳を23歳のフランツ・ヨーゼフ1世が、イシュルで見染めた。アウグスブルクからミュンヘンを経てウィーンに至る観光街道が「Sisi-Strasse」と呼ばれている。

彼女は何よりもその美貌で名高い。乗馬や狩猟などスポーツで体型の維持に余念が無かったと言われている。33歳になると肖像画を一切描かせなかったと言われている。1882年以降彼女は美容のためにハイキングを取り入れる。彼女が選んだコースが記録に残っているが、現在の地図でたどっても5時間程度のコースであることは確実だ。随行の女官が音を上げ、皇帝が女官を気遣ったとも言われている。ハイキングの途中で住民に気さくに声をかけ、絞りたてのミルクを所望したという。

彼女のハイキングコースはほぼウィーンの森の全域に及んでいる。

1881年にプレスバウムに滞在した他、しばしばウィーンの森に遠足に出かけたブラームスと、道端でバッタリなどということは無かったのだろうか。

今日からささやかなシシィ特集。

2016年12月13日 (火)

ユニークアクセス

サイト業界用語。アクセス解析をしていると頻繁に現れる。「個々のビジター毎のその日最初のアクセス」とでも定義出来そうだ。ココログではアクセスログにアスタリスクが付く。同じユーザーが1日に何度アクセスしても2回目以降はユニークアクセスとはならない。

1日のユニークアクセスを数えるとそれは「ブログへの訪問者数」と近似した数値になる。イコールと断言出来ないのは、訪問者側のパソコンの設定次第ではそうとも言えなくなるなど細かな制約もあるからだ。

ココログのアクセスカウンターは、ユニークアクセスの積算にはなっていない。たどり着いたページから別のページをクリックするたびに加算される。次から次へとページを読み進めればそれだけアクセス数が上がる。「これで今日は終わりにして寝よう」と思ったユーザーが「戻る」を次々とクリックしてトップページに戻す癖がついていると、それらのクリックは全て加算される。ユニークアクセスの積算であれば発生しない矛盾もあるのだ。かといってユニークアクセス積算方式が良いことばかりかというとそうでもない。記事の内容が気に入って次々とページをめくってくれた場合でも「1」でしかない。

どちらの方式でも不都合は起きる。こういう場合は、考え方を固定するのが一番だ。同じ方式で長く記録をとり続ければ、過去のデータとの比較だけは容易になる。

2016年12月12日 (月)

長期計画の効能

2033年5月7日のブラームス生誕200年までブログを継続させたいという目標を掲げている。大抵はドン引きされる荒唐無稽な野望だ。

しかし、意外な効果もあることが最近実感出来ている。

頭の中に、これまたしょうもない記事のアイデアが浮かぶ。あまりのしょうもなさに頭がそれ以上反応しないような、チッポケなネタの芽だ。今までは、その場で「こりゃダメだ」と自分に言い聞かせるようにボツにすることが多かった。

最近では、その瞬間に自問する。

「そのネタは2033年5月7日まで続けるとしても、記事にすることはあり得ないか?」

このような観点に立つと、もう一度記事にならないか真剣に考えるようになる。こう問われてもなお「No」と言い切れるネタなんぞありはしないのだ。今記事にならなくてもメモで残しておくと必ず閃く日が来るような気がする。閃いた数に対する記事になる数の歩留まりがよくなるというわけだ。

2016年12月11日 (日)

こじつける才能

我ながらと前置きして始める話にはろくな話がない。本日の記事はその点割引が必要である。

全く見当違いの話題を、何とかしてブラームスネタっぽく見えるようにするテクという意味では、私には才能がある。最初からブラームスネタとして思いつく話ばかりでは、10年以上も記事は続かないと思う。

先に話したいことを思いついておいて、後からブラームスネタに転換するキーポイントを探すという作業にもいつしか慣れてしまった。そうした転換の痕跡をいかに自然に見せるかが腕の見せ所でもあるのだ。

ブラームスが作曲上で見せる数々の技法も同じだ。「お上手ね」というテクの面ばかりが際だってはいけないのだ。先に曲に感動して、後から調べるとテクも凄かったというのがブラームスに感動する際のパターンだ。技術は常に音楽に準ずる位置付けに止まらねばならない。このような技術の位置付けは作曲に止まらず演奏においても同様である。クララとはこの点で意見が一致していたという。

といいつつ、本日もこうしてどうにかブラームスに結びつけることが出来た。ずっと同じ調子の繰り返しになると思う。

2016年12月10日 (土)

こじつけの効能

黙って以下のリストを見て欲しい。

  • 徳川光圀
  • 坂本龍馬
  • 源実朝
  • 伊能忠敬
  • 正岡子規
  • 賀茂真淵
  • 紫式部
  • 清少納言
  • 上杉謙信
  • 武田信玄
  • 菅原道真
  • 小野篁
  • 後鳥羽上皇
  • 藤原定家

ブログ「ブラームスの辞書」はこれらの人物名をキーに検索された結果、アクセスにつながったことがある。それもかなり上位のページの時もある。失笑をものともせずせっせとこじつけネタを発信し続けた結果である。記事をこじつけているときは必死なのだが、こうしてリストにしてみると笑える。これらの人物についての情報を求めてネット検索した人が、ブログ「ブラームスの辞書」にたどり着いているのだから気の毒である。

クララやヨアヒム、あるいはシューマンで検索してブログ「ブラームスの辞書」にたどり着くのは、検索者にとっても想定の内だろう。そういう検索者は遅かれ早かれ「ブラームスの辞書」を見つけてくれるのだ。欧州から遠く離れた日本の歴史上の人物名でブラームスにたどり着く意外性もネットの醍醐味の一つかもしれない。

恐竜やマイケル・ジョーダンからたどり着くのもまたオツである。

2016年12月 9日 (金)

こじつけ

街を歩いていて、ふとした弾みにネタを思いつく。思いついた瞬間に明らかなブラームスネタであれば苦労は無しだ。約半分はブラームスネタではない。実は最近一見ブラームスネタではなさそうな話を粗末にしなくなった。取り敢えず忘れぬようメモにしてとっておくことにしている。

最近のネタ発掘はさながら連想ゲームの様相を呈している。ブラームスと関連が無いように見えるネタと、ブラームスをつなぐ接点を発見することに力を注いでいる。発見のキッカケは様々だ。ブログへの書き込み、あるいはコメントへの返信がキッケケになることも多い。ヴァイオリン練習中の娘との会話などヒントの宝庫だった。言わば既に思いついてしまっている話と、ブラームスネタをつなぐ最後のワンピースの発見だ。どんなに強く感じていることでも、ブラームスとの接点を見つけ出せないために記事に出来ないネタもかなりある。

これを苦し紛れのこじつけと位置づけてはならない。一つ思いつくと次から次へと思いつくことが多い。芋づる式という奴だ。それには普段から脳味噌を柔らかくしておかねばならない。どうせこじつけるなら徹底してこじつけたい。

一番効果的なのは、ゆったりとブラームスを聴くことだ。

2016年12月 8日 (木)

スケッチ

古今の大作曲家が作品を完成させる過程には、謎が多い。それが一般の愛好家にとって悩みである反面楽しみももたらしていること周知の通りである。

出版社に手渡す最終稿がいきなり降って湧くわけではないことは想像がつく。何かのキッカケで着想が湧いては来るが、それが最終的な作品になるためには段階が踏まれることは確実だ。着想と最終作品の間、つまり中間品のことをスケッチと呼びならわしている。

スケッチは、後世の研究家にとって宝の山である。多くは作曲家本人の自筆である。完成された作品の着想がどこまで遡れるか、推測出来る。

問題は作曲家によってスケッチの残存に差があることだ。ベートーヴェンはスケッチが残っている側の筆頭格だ。そしてブラームスはスケッチが残っていない側の親分である。ベートーヴェンは無意識だと思うが、ブラームスは確信犯だ。この手の作曲の過程を遺さないことを肝に銘じていた節がある。

ブラームスの生きた時代は、いわゆる音楽学が学問として確立した時代だ。ブラームスは時代を代表する研究者たちと親しく交わった。作曲家が後世の研究者からどのように研究されるかを実感として感じ得る立場だった。それでいて自ら後世の研究者たちに手がかりを遺さぬことを是と判断したのだ。スケッチをしなかったのではなく、遺さなかったのだ。ブラームスの処分は完璧だ。

スケッチなら私だってやっている。

ブログのネタを思いついたとき、とっさに手帳に書き残す。移動の途中が一番多い。長文を残せないから、キーワードだけを手帳に書いておく。帰宅してから楽譜を開き、曲を聴き、書物をあたって裏付けを取る。さらに記事にしたあともエクセルで管理をしている。記事本文から見ればこのエクセルデータもスケッチと位置づけ得る。

ブラームスのスケッチ帳が発見されればセンセーションだが、私のスケッチではバイブレーションにもなるまい。

2016年12月 7日 (水)

言及される喜び

ネット上をうろついていると、ごくごく希に自分のブログや本が話題として取り上げられていることがある。ネガティブな紹介のされかただとそれなりにへこみはするのだが、原則として嬉しい出来事である。古くからの知人がブログで言及してくれるケースはあるのだが、全くの他人様が純粋に音楽的な興味から私の本やブログに接し、自らのブログで言及してくれているのはブロガー冥利に尽きる。それに加えてブログ「ブラームスの辞書」にリンクまで貼ってもらっているのを見ると恐縮してしまう。

「面白い」とか「役に立つ」などと書かれようものなら天にも昇る気分だ。

これはきっとマーキングの一種だ。万が一私のブログが継続不能になっても、ひと様のブログで言及されたことは痕跡として残る。ブログや本が確かに存在したという事実を第三者が証言してくれることになるからだ。

昔の書物でも、本体が散逸して失われてしまったというのに、現存する他の書物で言及引用されているために存在が推定出来るケースがある。ブログ「ブラームスの辞書」は簡単にへこたれさせる訳にも行かないが、それでもあちこちに保険をかけておくのは心強い。

マッコークルの「ブラームス作品目録」の巻末近くに、不思議な作品群がある。作品とおぼしきタイトルだけが記載されているのだ。「Anhang」(補遺)Ⅱと命名されて29曲を数える。実はこれらは、ブラームスとその知人の間で交わされた書簡その他の資料で言及されているが、現在所在の確認できない作品なのだ。別系統の資料により実在が推定出来る作品ということになる。

いろいろと差し障りもあろうかと個々のケースについてブログで言及することは控えているが、深夜にパソコンの前でニヤニヤしてしまう程の嬉しさだ。

2016年12月 6日 (火)

ピートローズ

通算安打数のメジャーリーグ記録保持者。賭博に関わってしまったために名誉が剥奪されているが、4256安打はアンタッチャブルな記録だ。私が子どもの頃、無敵を誇ったシンシナティレッズの中心選手だった。今シーズン、フロリダマーリンズのイチロー外野手が、日米通算でこの数字を抜き去ったことで、クローズアップされたからご記憶の人も多かろう。

本日のこの記事はブログ「ブラームスの辞書」4256本目の記事となる。単にそれを祝うためにローズを持ち出した野球好き。イチローに日米通算で抜き去られたことに不快感を示したローズも、きっと笑ってすましてくれるだろう。

2016年12月 5日 (月)

格別の優勝

12月3日Jリーグチャンピオンシップ第2戦をアウェイ埼玉スタジアムで勝利し、アウェイゴールにものを言わせた鹿島アントラーズが2016年Jリーグチャンピオンになった。

ブログ「ブラームスの辞書」では、アントラーズのタイトル奪取のとき、それに言及するのがお約束になっている。
2ステージ制の難解なレギュレーションを際どく勝ち抜いてくれた。勘所を押さえきったマネーメントの勝利という感じがいつも以上に強い。
おめでとう鹿島アントラーズ。
モーツアルトの命日だというのにばちあたりなサッカーネタ。

2016年12月 4日 (日)

法則

以下の人名をご覧いただきたい。

  • アボガドロ
  • オーム
  • ケプラー
  • メンデル
  • バイスバラッド
  • ボイル
  • パスカル
  • ファラデー
  • マーフィー

分野領域は様々ながら、全て法則に冠される名前である。概ね法則の発見者の名前である。人類は自然界の現象を克明に観察する中から一定の周期を認め、公式を作って法則を抽象化してきた。それらが大なり小なり生活の向上に寄与していること周知の通りである。

大切なことは、それらの法則は発見や命名の前から存在していたということだ。発見されようとされなかろうと、じっとそこに存在して人々に影響を与えてきた。もっというと法則の利用は、発見以前、公式化以前から行われていた。経験則だ。

「ブラームスの辞書」の中で私が提起した仮説が、いつの日か晴れて客観的に証明され、そのうちのいくつかについて、私が最初の提起者であることが認められる。そして私の名前が冠された法則として世の中に普及することを夢見る。

ブラームスの作品には自然界と同じような普遍性と必然性が横たわっていると感じている。

2016年12月 3日 (土)

朝の新聞

通勤の途中で喫茶店でコーヒーを飲む。新聞を読みながらだ。大きなイベントがあった翌朝はスポーツ新聞だ。一般紙、経済紙、スポーツ紙読む新聞はさまざまだが朝の喫茶店にはそういう人が多い。

何故か音楽紙という概念はない。月刊誌がいいところだ。特にクラシック音楽に限定してしまうと、日刊紙にするほどのニュース性をもった話題が毎日ある訳ではないからだろう。ましてやブラームスネタに絞った「ブラームス新聞」となると絶望である。月刊誌でさえも毎月ブラームスネタで紙面を埋めるのは難儀なのだと思う。

ブログ「ブラームスの辞書」は毎日更新である。ショートエッセイの堆積とはいえ、毎日供給だ。新聞の代わりとなると荷が重いが、コラム代わりを目指したいものだ。

2016年12月 2日 (金)

あと6000本

本日のこの記事はブログ「ブラームスの辞書」開設以来通算4252本目となる。座りの悪い半端な数字だが、立派な意味がある。

ブログ「ブラームスの辞書」の到達目標は2033年5月7日。そこまで毎日1本の記事を欠かさずにアップすること。それには10252本の記事が必要となる計算。今日の記事が4252本だからあと残りがちょうど6000本ということだ。

まだ折り返し点に届いていない。

2016年12月 1日 (木)

不適合品の廃棄

ISO9001通称「品質ISO」は、品質管理システムの国際規格だ。厳密な定義は手に余るが、「顧客満足」「トレーサビリティ」が主たる柱と目される。平たく言うとお客様に変な商品をお届けしないことが主眼だ。自らの支配下にある倉庫から、不適合品を外部に出荷しないことに心が砕かれる。「不適合品の判定」「不適合品の別管理」「不適合品の廃棄」が事細かに手順化される。

この「出荷」を「出版」と読み替えることはとても興味深い。仮に作曲を終えても自らの手許に楽譜を留め置く限り、作品は世間に認知されない。出版という手続きを経て初めて、自作を世に問う形式が整うことになる。万が一ろくでもない作品を出版してしまったら、いわゆる「顧客満足度」が下がることになる一方で、出版さえしなければ加筆修正が思いのままという訳だ。ヴァイオリンの魔神パガニーニは、自らの作曲したヴァイオリン協奏曲の楽譜を出版しなかったという。曲に盛られた演奏のテクが漏れるのを防ぐ意図は明白だ。録音録画の無かった時代においては、出版さえ差し止めればある程度の機密保持は出来たものと思われる。出版こそが作品を世に問う行為であったと推定出来る。

ブラームスが「出版によって世に出た作品が全てである」という命題を肝に銘じていたことは想像に難くない。だからブラームスは、作品の完全性を突き詰めた。出版結果によって作曲家が評価されることを潔く受け入れ、逆にそれ以外の発信を封印した。極端な話、出版さえされなければ無かったも同然なのだ。出す以上は「優」が欲しいのだ。「可」の作品を後世に残すくらいなら単位を落とす方がましだとブラームスは考えているに相違ない。

だからこそ運命の分かれ目とも言うべき出版について、可否判断の手順が高い水準で確立されていた。本人がまれに見る完全主義者だったことに加え、クララ・シューマンが出版前に楽譜に目を通し第三者として意見していた。当代最高のピアニストにしてロベルト・シューマンの妻による承認がシステムとして確立していたことになる。さらにヨアヒムやビューローを筆頭とする演奏家や、音楽的素養の高いアマチュアも必要に応じてブラームスをサポートした。ブラームスが作曲家として確固たる地位を獲得して後は、ブラームスを囲むこうした体制で、相応しくない作品、つまり不適合品の廃棄が体系的に行われていたと解したい。

作品の「はずれの無さ」「打率の高さ」は、こうした体制の賜物であると思われる。

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    はじめての自費出版作品「ブラームスの辞書」の姿を公開します。 カバーも表紙もブラウン基調にしました。 A5判、上製本、400ページの厚みをご覧ください。
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