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プラハ最初の目的地は、ジェネラリアレナという。チェコ最強のサッカークラブ・スパルタクプラハの本拠地。一般の観光ガイドには載っていないから、ネットであたりをつけていた。レトナ公園のそばという情報を頼りにプラハ駅のインフォメーションに飛び込む。市電22番に乗って、「Spartak」駅で降りるとのこと。
チェコ語手ごわい。頼りは細々とした英語だ。
市電の停留所が「スパルタク」というのがうれしい。不安は杞憂に終わった。
チェコ最強チームの本拠地だというのに収容は20000人程度。開けた周囲の風景と溶け込んでいる。楽しみにしていたファンショップは、案の定お休みだ。12月30日だから想定内だが、ショップに人がいるのに残念。長男念願のタオマフ収集はいきなり試練にさらされた。
なんといってもプラハがメイン。笑点で言えば大喜利みたいなものだ。ニュルンベルクから高速バスでのプラハ入りも楽しみの一つだ。7時15分発なのだが、あたりはまだ暗い。8時までは明るくならない。押し詰まった12月30日しかも夜明け前だというのに、バス停にはかなりの人が集まって出発を待つ。
快適なハイデッガーなのだが、ほぼ満席のため狭くも感じられた。
定刻より少し遅れて出発。しばらく市内を走ったあと順調にアウトバーン6号線に入る。まだ暗い。チェコとの国境に向けて徐々に標高が上がってゆくのか、木々の梢には霜が降りていて慣れないと雪かと間違える。凍結など慣れっことばかりにバスはかなりの高速で進む。プラハまで直線距離で250kmくらいを3時間少々で走るのだから、のんびりしてもいられないのだろう。
8時には明るくなった。8時44分に国境を越えてチェコに入るが、パスポートなんぞみんな忘れている。注意していなかった長男は、国境を越えたのさえ意識していなかった。道路の標識がチェコ語になっていると気づいたのは少し後だった。
ビールで名高いプルゼニを過ぎるとちらほらと工業団地らしき眺めも増えてくる。アウトバーンを降りて市内に近づくとさすがに風格を感じさせる街並みになる。どんだけ飛ばしたのか、定刻よりも少し前にプラハ中央駅の前に横付けされた。あっけない到着。「間もなく終点」というアナウンスがあったのだろうが、言葉がわからぬせいか唐突な旅の終わりになった。
さてさてプラハだ。
昨年12月28日に日本を発って、5泊7日のドイツ旅行だから、1月3日には帰国していたのだが、そのことを反映した記事の発信は1月22日まで控えた。本来なら真っ先に記事にしたいところなのだが、そうもいかぬ事情があった。
1月3日夕方の帰国で、帰宅は夜になった上に翌4日は初出勤であった。お土産や写真の整理もできていない中バタバタと記事にしてもまともな記事にならないと踏んだ。
さらに、グリム兄弟の長兄ヤコブの誕生日が1月4日ということもあり、かねて準備のグリム兄弟特集を予定通り発信することで時間を稼いで、満を持してという手法を選んだ。凝り性の遺伝子のなせる業である。
12月28日定刻より少し早くミュンヘン空港に降り立って、ルフトハンザバスでミュンヘン中央駅に降り立ったのが18時だ。初日の目的地ニュルンベルクに行くために18時20分発のドルトムント行ICEに乗車するのは困難に思えた。大きなスーツケースを抱えている上に、チケットがサクサク買えるのか不安だったからだ。
自販機を英語表記に切り替えて、あっさり購入に成功。発車3分前に乗り込んだ。座席なんぞには見向きもせず食堂車に直行した。たったの1時間だからいきなりビールとしゃれこんだ。
ビールの品ぞろえは2種。エルディンガーのヴァイツェンとビットブルガーのピルス。どっちも飲むとしてまずはエルディンガーを注文した。おそらくビアフォンファスつまり樽生だ。まんまと乗車に成功した安心感からか、極上の味わいだ。エルディンガーそのものは日本でも賞味可能だが、現地ICE内で飲むヴィツェンは格別だ。
さあドイツだ。
今回のドイツ旅行もまた長男との珍道中になった。お互いの休みが合うのがこの時期しかないため、寒さ覚悟で出かけることとなった。長男にも私にもそれぞれ目的がある。
<長男の目的>
<私の目的>
さてさて結果のほどはおいおい。
グリム兄弟特集の総集編をお送りする。
いつも手許において愛読している書物のことだ。
例によって音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第3巻78ページに驚くべき記述がある。スイスの作家でブラームスの友人ヨーゼフ・ヴィトマンの証言だ。
ウィーンでの座右の書グリムの大辞典の分冊を私からも借りたことがある。
含蓄がある。「グリムの大辞典」というのは先般記事にしたグリム兄弟のライフワーク「ドイツ語辞典」だと思っていい。グリム兄弟の生前はもとよりブラームス存命中にも完成しなかったが、分冊の形で順次刊行が進められた。刊行の済んだ分をブラームスがウイーンで入手し愛用していたことがわかる。そしてスイス滞在中はヴィトマンから借りだしていたことも同時に明らかになる。
記事「グリム兄弟」で少しだけ言及した。兄弟のライフワークだ。原題を「Deutshes Worterbuch von Jakob Grimm und Wilhelm Grimm」という。全16巻32冊の大著だ。世に名高い「ゲッティンゲン7教授事件」に巻き込まれて失職した兄弟の救援事業として発案されたとも言われている。32冊の1冊1冊が数百ページに及ぶというヴォリュームには圧倒される。
単語の意味の解説はシンプルなものだ。記述の力点は用例の列挙や歴史的背景の解説にある。ルターからゲーテにいたる広範な書物の中から適切な用例が列挙されている。オランダ語、デンマーク語などゲルマン兄弟語への言及や、ゴート語など古語への配慮も手厚くなっているらしい。刊行が始まると同時に「非実用的だ」という批判も後を絶たなかったとされる一方で、リルケ、ホーフマンスタール、トーマス・マン、ヘッセなど錚々たるメンバーが絶賛している。一度ページを開くとしばらく読み耽ってしまうという証言が複数存在する。
少なくともグリム童話のような家庭的な内容を期待した人々はがっかりしたと思われる。アルフェベット順に執筆が進められたが兄弟の生前には完成するはずもなく、最後まで残ったヤーコプは、「Fruicht」(果実)の項まで書いたところでこの世を去ったという。
「意味の解説はごくごくシンプルで、用例の列挙に力点がある」という編集方針を読む。事実上辞書の体裁を持った博物誌だ。僭越ながら「ブラームスの辞書」と同じである。必要箇所を引くというより最初から読まれたいという点でも一致するような気がする。
1月5日の記事「グリム童話」で、兄弟が民間に伝わる民話を収集したと書いた。エルクの民謡収集と同じく聞き取りという手法だけが用いられた。既存の文献からの筆写されたお話は巧妙に回避されている。民謡の収集の実態の代表的な事例は記事「ゲルネ爺さん」で述べた。本日はグリム兄弟の民話収集に貢献した老女の話だ。
兄弟は「グリム童話」第1版の編集をしていたころカッセルに住んでいた。その近所に薬局があって親しくつきあっていた。弟ウイルヘルムは5番目の娘ドロテアと結婚したほどだ。この家の家政婦が本日の主役「ばあやのマリー」だ。夫をアメリカ独立戦争で亡くした後、薬局に雇われたという。記事「Juche nach America」の記述と矛盾しない。
彼女の功績は抜群だ。初版86編の約4分の1を兄弟に伝えた。「いばら姫」「赤ずきん」「ヘンゼルとグレーテル」という有名な話も含まれている。
刊行のタイミング1812年を見るにつけ、ブラームスも幼い頃グリム童話を聞いていた可能性もあると感じる。
グリム兄弟の「ドイツ伝説集」下巻には、オペラの元になったと思われる話が散見される。
されば「ニーベルングは?」と探したが、序文に断り書きがあった。「ニーベルング」関連の伝説は、収集の対象からはずされていた。既存既知の有名な文学作品との重複を避けたと明言してある。意図的に収載していない話を系統立てて列挙してあった。
私のような初心者が感じる疑問には、ことごとこく先回りして対処済みという風情である。
ロッシーニで名高い「ウイリアムテル」の元ネタも、「ドイツ伝説集」に載っていた。我が子の頭上のリンゴを見事射抜く話だ。日本では専ら「ウイリアムテル」と呼び習わされている。「ウイリアム」は「甲冑」を意味する。ドイツではこれが「ウイルヘルム」に変化する。
周知の通りこの話はスイスの独立のエピソードだ。スイスは国内にいくつかの言語が公用語扱いされている。ドイツ語のほかにフランス語やイタリア語を話す人々が混在しているという。「ウイルヘルム」は、フランス語なら「ギョーム」だし、イタリア語なら「グリエルモ」だ。
「ドイツ伝説集」518番が「ウイルヘルムテル」になっているのは、何だか嬉しい。
グリム兄弟の「ドイツ伝説集」下巻には、話の舞台が地名の提示により明確にされていることが多い。収載された話の舞台を地図上にプロットすると興味深いことがわかる。少々の重要な例外が発生する危険を顧みずに申せば、収載の伝説はドイツの西部あるいは南部が舞台になっている。ライン地方、シュヴァーベン、バイエルン、フランケンの諸地域に手厚い。川で申すならライン・ドナウの両大河流域に固まっている。北東に行くほどまばらになり、いわゆる「エルベの東」はほぼ空白となる。
東ゲルマン系のゴート族やケルト系の伝承はほぼ全滅だ。イエス本人の神性をみとめないアリウス派を信仰したゴート人は、ローマ帝国内の勢力争いで、アタナシウス派に破れ、信仰もろとも歴史から抹殺されたとされているが、伝説の分布もそれを裏付けているように見える。
同じことは覇者フランク族以外の部族では、大なり小なり起こりえた。カール大帝によるキリスト教化の過程で起きた抑圧により、多種多様な伝説もまた永遠に失われた。「ドイツ伝説集」下巻で伝説が濃厚に残存する地域は、カール大帝の勢力圏と概ね一致する。カールへの抵抗が根強かった地区ほど伝説が空白化しているかのようだ。
グリム兄弟が著した「ドイツ伝説集」は面白い。家庭への浸透度という面では、「グリム童話」に一歩譲るが、最近ドイツネタに浸りきっている私の脳味噌にとっては、伝説集の方が興味深い。とりわけ下巻だ。様々な歴史的伝説が200篇以上収載されている。
ザクセン族、フランク族などおなじみの民族の起源が次々と語られる。何よりも人名、時期が具体的になっているのがありがたい。タキトゥスやシーザーなどローマ人の著述とはまた違った味わいがある。カール大帝やオットー大帝など英雄たちのエピソードも豊かで飽きない。
記述の中に「今」という言葉が現われると、グリム自身か訳者が、「ここでいう今はいついつのことである」と必ず注釈してくれるのも徹底されていて気持ちがいい。
何よりも何よりも地名が具体的なのがありがたい。地名の起源を説明した話がそこここに現われる。鵜呑み厳禁と肝に銘じながら読んでいても、ついつい引き込まれる。
原題を「Deutsche Sagen」という。グリム兄弟の名前で1816年に刊行された。「グリム童話集」初版刊行から4年後のことだ。兄ヤーコプが童話収集の過程で集めた伝説集だ。内容的に童話と被るエピソードもある。童話集との大きな違いは「いつ」「どこで」「だれが」という記述が具体的な人名地名時代名を伴うことだ。より具体的だが、文学としての味わいよりも、文献学的網羅性が優先されている感じである。
場所にちなむ伝説362編、歴史にちなむ伝説217編というヴォリュームは、童話集を凌ぐ。地名説話、国境説話、寺院の起源説話などを豊富に含む。家庭への浸透という意味では、童話集には劣るものの、詩人作家など玄人筋からは高く評価された。ハイネ、メーリケ、シャミッソーを筆頭とする数多くの文筆家たちを刺激した。もちろん一部の作曲家たちからも参照されていた。「ローエングリン」「タンホイザー」「ウイリアムテル」が収録されている。
序文に記された兄ヤーコプの言葉がある。
「童話は詩的で、伝説は歴史的である」
和訳もされているが貴重。図書館で借り浸りである。
ユリウス・オットー・グリムの素性を知りたくて、古書店をうろついていた。吸い寄せられるように手に取ったのが「グリム兄弟」というタイトル。新潮選書・高橋健二著で昭和43年刊行。お値段は210円。定価は450円になっている。
残念ながら目的の人ユリウス・オットー・グリムについての記述は無い。もちろんブラームスについても書いてはいない。しかしドイツ民謡に浸しておいた脳味噌が、機敏に反応した。ドイツ語学、文献学、民俗学の観点からグリム兄弟の業績に触れることが出来そうだとばかりに購入した。
案の定お宝だった。ブラームスを聴くための台座として文献学、歴史学、民俗学を足元に敷き詰めることが出来る。特に民謡の収集活動との類似性はただただ興味深いばかりである。ブラームスの民謡ラブは、何の土台も無い中からポッと出たという訳ではなかった。
女性の王位継承を認めないサリカ法のせいで、ヴィクトリア女王はハノーファー王位に就けなかった。代わりにとハノーファー王になったのがエルンスト・アウグストという人物。ヴィクトリア女王の叔父にあたる。同国は英国の影響もあって民主的な政治が行われており、ブラームスが生まれた1833年には新憲法が採択されていたほどだ。
ところが、1837年の即位早々の王エルンスト・アウグストがこの新憲法の破棄を宣言してしまったことから、世論が沸騰する。迂闊に抵抗できない市民に代わってという形で、ゲッティンゲン大学の教授7名が、抗議書を公表した。これがゲッティンゲン7教授事件である。このとき抗議書に署名した7人を「ゲッティンゲンの7人」という。ドイツ語では「Gottinger Sieben」と呼ばれている。西部劇「荒野の7人」がこれに影響されていはいないか真剣に考えているところだ。大学関係者が尊厳をかけて権力に抵抗する事件があると、これにちなんだ言い回しをされることがアメリカでも起きているから西部劇への影響も突飛とは言えまい。
この7人の中にグリム兄弟がいた。
世論は7人に共感したが、皆失職の憂き目にあう。グリム兄弟のライフワーク「ドイツ語辞典」は失職中に構想されたものだが、1840年プロイセン王フリードリヒ・ウィルヘルム4世によってベルリン大学に招聘される。
最近話題にすることが多いグリム兄弟が、ブラームス関連の書物の中に痕跡として現れている場所がある。音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第2巻121ページだ。
友人のホイベルガーとの会話がフンペーディンクのオペラ「ヘンゼルとグレーテル」に及ぶ。ブラームスは「とにかく皆が驚いたのはオペラに童話を使った点なのだから」と言っている。1894年12月22日の記述だ。
周知の通り「ヘンゼルとグレーテル」はグリム童話だ。この会話をかわした時点でブラームスはグリム兄弟を思い出していた公算は大きい。自らの友人であるユリウス・オットー・グリムとの血縁関係でさえ知ってた可能性もある。
一昨日、全国高校オーケストラフェスタにでかけた。
次女の後輩たちの演奏を聴いてきた。
感心させられたのは、演奏に先立つ部長挨拶。「聴きにいらしたお客様を癒すような演奏を心がける」と直球の言葉に始まり、昨年のドイツ公演の経験をふまえて「音楽は言葉や宗教の壁を越え得る」「平和に貢献したい」と矢継ぎ早の決意表明があった。締めくくりは「オケフェス関係者への感謝」という周到さ。
10代半ばの乙女の精一杯の意思表示として、抜群の完成度だ。その言葉が嘘でないことは、続く演奏で直ちに明らかになる。チューニングと称して鳴らされる「A音」は、最弱音の予行練習のようだ。
演奏の出来は毎度のこと。現役引退まであとおよそ半年の折り返し点のモニュメントとして記憶されるべき通過点。
漢字で「後書」あるいは「後書き」と標記する例をあまり見かけない。書物の末尾に置かれ、本文と別立ての文章のことだ。大抵は著者によって書かれる。本文中での書き残しの捕捉であったり、エッセイであったり内容は様々だ。出版にあたって関係者への謝辞が盛り込まれることも多い。
初めての自費出版本「ブラームスの辞書」にも「あとがき」がある。最後の項目に続いて2ページがあとがきに割かれている。「ブラームスの辞書」は何を隠そうこの「あとがき」が最も読まれているらしい。入手後真っ先に読まれるのもあとがきだ。
オタクな本を書いてしまった理由を知りたい向きや、著者の顔が見たい層は、きっとこのあとがきを見るのだと思われる。パラパラと本文を斜め読みして「だめだこりゃ」と感じた読者の多くは、あとがきだけを読んでお蔵入りさせているような気がする。
あとがきの役割は執筆中に痛感していた。オタクな本を書いてしまった言い訳に手際よく言及しなければならないと。そこには私の略歴に加えて、執筆の動機が書かれている。実は内心とてもよく書けたと思っているのだ。
ささやかな決意を一つ。ブログ「ブラームスの辞書」には「あとがき」があり得ないということだ。
グリム童話の編集刊行について兄弟の間の業務分担はどうなっていたのだろう。さまざまな資料からうかがい知ることの出来る彼らの業務分担はおおよそ下記のとおりだ。
長男ヤーコプの収集した原稿が今世紀に入ってアルザス地方の修道院で発見された。それと1812年刊行の初版との比較から様々なことが判明した。印刷されたものは、ヤーコプが聞き取った結果そのものとは違っている。ヤーコプの原稿では方言がそのままであったりしたものが、刊行されたものはシンプルな標準ドイツ語になっている。教訓めいた話にならぬよう細心の注意を払いながら、文学的味わいが付与されてもいる。
長男は後日、童話集の刊行について弟の文才によるところが多いと誉める一方。弟は兄さんでなかったらこれほどの質量をもった話を集められなかったと言っている。
文献学的民俗学的な見地から、周到で厳密な手法を用いて数多くの民話を集めたのが兄で、それらに文学的な味わいを付与したのが弟だと捉えてよさそうだ。
こうした兄弟の役割分担をよく見ると、民謡に対するブラームスとエルクの立場の違いを思い出す。文献学的厳密さで民謡を収集したのがエルクだったのに対して、ブラームスはこれに異を唱え、民謡に芸術的価値を付与強調した。グリム兄弟で申せば、兄がエルクでブラームスは弟にあたる。
グリム童話が今尚世界的に愛されている原因をこのあたりのバランスに求めたい。2人が争えば論争になりかねない状況でありながら、学問としての厳密さと文学としての味わいが絶妙なバランスで均衡していると見た。
愛する鹿島アントラーズは、元日の天皇杯で延長戦の末、川崎フロンターレを下して優勝した。これで2016年シーズンは、リーグ戦と合わせて2冠となった。チーム創設以来19個めのタイトルだ。
11月23日のJリーグプレーオフの川崎フロンターレ戦からわずか40日の間に、10試合をこなし、8勝2敗という驚異のペース。チャンピオンシップ初戦の浦和戦と、クラブワールドカップ決勝のレアルマドリード戦に負けた2敗のみ。
夢のような40日を記憶するために記事にする。
グリム兄弟の代表作。原題は「Kinder und Hausmarchen」という。「子供と家庭の童話」とでも申すのだろう。初版の刊行は1812年だ。18世紀末ヘルダーによって始まった民衆の文化再発見の流れに乗っていると考えてよい。彼らに童話集の刊行を奨めたのは「子供の魔法の角笛」の編者として名高アルニムとブレンターノだった。
さて日本ではもっぱら「童話」として流布しているが、原文では「Marchen」(メルヒェン)である。「童話」といわれるとどうしても「お子様向け」といういイメージが付いて回るがとんでもない。彼らの生地ヘッセン地方で語り継がれていた民話を、聞き取りしたものだ。全編が作者の創作であるアンデルセン童話との最大の違いはこの点にある。
グリム兄弟の編集方針は、民衆の間で語り継がれている形をそのまま保存することだった。教訓めいた味付けや、装飾を厳に戒めた。既にお気づきの方も多いだろう。この方針は民謡収集におけるルートヴィッヒ・エルクと酷似している。
ドイツのアイデンティティの確立を目指した同じ運動の両輪と位置付けられるということだ。収集の目的物「民間の伝承」のうち、民謡と民話をエルクとグリム兄弟が分担したと考えてよい。だから片側が民謡なら、もう片側は民話でなければならない。エルクが民謡の収集で用いたのと同じ手法を用いて民話を集めたのがグリム兄弟の業績である。その手法の厳密さという点において両者は甲乙付け難い。
ブラームスの友人にユリウス・オットー・グリム(Julius Otto Grimm1827-1903)がいる。1853年にデュッセルドルフのシューマン邸訪問から程なくして面識を得た音楽家で生涯の友となった。一部の書物には童話で名高いグリム兄弟の一族であると書いてある。彼のことを調べたくてグリム兄弟の情報を集めていた。
世界的に名高い童話の作者というイメージのせいか、童話好きのおじさんという先入観があったが、どうやらそれだけではないらしい。
2人ともフランクフルトに程近いマイン河畔の街ハーナウで生まれた。ヘッセン公国の官吏になったが、程なく文献学に専念し民俗学の観点から民話の収集をした。有名なグリム童話集は、2人の生前に7版を重ねるほどの高い評価を受けた。ドイツ語圏の家庭への浸透という面において、聖書のみが彼らの童話集を凌駕するという評価である。
近代比較言語学の祖と位置付けられる言語学の泰斗でもある。音韻分析上の金科玉条「グリムの法則」を提唱しインドヨーロッパ語の分岐について現代でも色褪せぬ業績を上げた。
彼らのライフワークは超有名な童話集にあるのではない。「ドイツ語辞典」こそが特筆大書されるべき業績だ。紛れもなく彼らの構想がキッカケになったにも関わらず、その完成は2人の死後約100年を経過した1963年だった。
長兄ヤーコプは1785年1月4日生まれ。
音楽之友社刊行「ブラームス回想録集」第2巻だ。
ウイーン高等音楽院に関するホイベルガーとの雑談の中。ブラームスは作曲を教える気は無いのかという問いに対し、まんざらでもない口ぶりで「どうせ冬にはまともな音符は書けないからな」と答える。
冬は寒いから音符が書けないという意味ではなかろう。冬は演奏会のシーズンだ。あちこちの演奏会に出かけることもあるし、何より自作の演奏会も多かった。これに加えてあちこちの劇場で上演されるオペラや演劇にも興味があったから、何かと忙しいのだ。つまり冬は社交に忙しいのだ。だから腰を落ち着けて作曲しているヒマが無いというのが、「まともな音符が書けない」という言葉の真意だと思われる。
うまく時間をやりくりすれば後進の指導が出来なくもないというニュアンスだが、結局ブラームスはウィーンで作曲を教えることは無かった。ネックになったのは教える時間のことより、音楽院を取り巻く人間関係かもしれない。
一方、「冬にはまともな音符が書けない」ということは「夏にはまともな音符を書いている」という自覚の裏返しとも取れる。ブラームスの作品のほとんどが5月から9月までのお気に入りの避暑地におけるロングステイから生まれていることと符合する。
お気づきの方も多いだろう。
ブログにおいても、また著書においても「ブラームスの辞書」に言及するときには、必ず「」をつけている。これは、わが子同然の著書「ブラームスの辞書」を普通名詞にしないための措置なのだ。
裁判で商標権を争う場合などでポイントとなることもある。メーカーの内部文書なので自社の商品を「」抜きで指していたりすると、普通名詞とみなされて、本来有するはずの権利を主張できなくなるケースもあるという。世間が認知するかどうかは別として、作者本人は、断固として「」付きに固執したいものである。
「ブラームス」は固有名詞、「辞書」は普通名詞だ。これらが格助詞「の」によって連結されただけの「ブラームスの辞書」は、放っておくと普通名詞になりかねない危うさが充満している。それは困るのだ。小部数の自費出版本ながら、「この世に2つとない辞書だ」というささやかな自己主張が「ブラームスの辞書」の前後の鍵カッコにこめられている。
作者である私が言わねば、誰にも言ってもらえないネタだ。
普段は干支なんぞ気にかけることも無いが、今年は少し特別。長女が年女だ。生まれたその年を「1回目の年女」と数えれば3度目になる。
一方、私が管理人として心血を注ぐブログ「ブラームスの辞書」も実は酉年だ。2005年5月30日生まれだから、今年の5月30日で満12歳になる。長女より一回り下だ。開設満12周年のブログなんぞ珍しくもないのだが、その間1日も記事更新に抜けが無いとなると、少しはもの珍しくもあろう。
さて我がブログのゴール2033年5月7日を迎えるには、もう一度「酉年」をやり過ごさねばならない。到達のとき長女は40歳。
あけましておめでとうございます。
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