決意の理由
記事「方言詩人」でクラウス・グロートの経歴を紹介した。彼はブラームスの父ヨハン・ヤーコプと同じハイデの生まれだ。彼もホルシュタイン人である。国民学校の教師をしながら独学で詩作を学んだ彼がさらに学ぶためにキールに出立したのが1853年だった。
1853年は第1次デンマーク戦争が終わった翌年だった。まだ決着はついていないもののプロイセンの領土的野心は明らかだった。そうした背景の中で彼が文学を志し、方言に立脚した作品を生み出して行った。低地ドイツ方言やホルシュタイン方言への愛着は、低地ザクセン方言を操るプロイセンへの文学的抵抗なのではあるまいか。ドイツ標準語によらない文学作品を発信し続けたアイデンティティを思い遣りたい。
プロイセンによるシュレスヴィヒホルシュタイン地方の領有が確定した1866年に、キール大学の教授に就任したのはなにやら象徴的だ。
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