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2017年8月31日 (木)

閉店セール

長く愛されていた老舗が、諸事情により店じまいをする際、「売りつくし」と称してバーゲンセールを実施することがある。いわゆる「閉店セール」だ。客の側には、残念な気持ち少々と「きっと安いに違いない」という期待があって期間中にぎわうことも多い。平常閑古鳥だったために閉店に追い込まれるような店でも、このときばかりは別になる。

地方ローカル鉄道の廃止が決まるとマニアが殺到するのにも似ている。

一部の巧妙なマーケッターはこれを逆手に取ることもある。年がら年中「売り尽くし」「本日限り」のセールストークを掲げている店を見かけることは少なくない。

本が売れたり、ブログが見られたりするのは嬉しいとはいえ、私のブログ「ブラームスの辞書」でこの手法は使えない。著書「ブラームスの辞書」の現物が全部売れて品切れになってもブログ「ブラームスの辞書」を閉鎖することはない。ブログが終わるのは、管理人の私の身によっぽどのことが起きるということなのだ。それでも潤沢な備蓄記事があるから、ただちにブログ記事のアップが途絶えることはない。管理人の私自身はブログの最終回をアレンジ出来ないのだ。

ということはつまり「閉店セール」を打てないということである。

「閉店セール打てない」とエエカッコをしているが、実は怖くて打てないともいえる。もし「閉店セール」に打って出て、ブログのアクセスや本の売上が全く変わらなかったら、相当恥ずかしいからだ。

2017年8月30日 (水)

物は言いよう

私は自分のブログや著書を指してしばしば「素人の駄文」という言い回しをしている。これには2系統の意味が含まれている。「素人」では「私が音楽の専門家ではない」という意味、さらに「駄文」には「私がプロの物書きではない」という意味をそれぞれ包含した言い回しなのだ。両者合わせて「音楽の素人で物書きでもない男が書いた文」という意味を濃厚に含んでいる。「ブラームスの辞書」は2重の意味でアマチュア性が充満しているという訳だ。

この言い回しを自嘲半分、自戒半分、謙遜少々くらいのノリで使う分には健全である。

ところが「つまらぬ記事や的外れな主張があっても無礼講で」という意味合いを含み始めると、途端にいやらしくなる。記事の水準低下に対する保険あるいは予防線の意味で「素人の駄文」という言葉を使うのは潔さに欠ける。私としてはこのニュアンスで使いたくないと考えている。この手の言い訳を先に発してから続ける文には、得てしてろくなことはないのだ。

こういう言い訳が必要と感じた瞬間に、さっさと文章を削除するのがブラームス風だと思う。せめてそういう潔さだけは真似したいものだ。

2017年8月29日 (火)

記事の保全

昔から記憶力には自信があった。

百人一首、長恨歌、周期律表、イオン化傾向、首都、県庁所在地、駅名、歴史年表、などみんな記憶力試しの対象だった。暗記が得意だったりする。得意な分野ほど暗記力が高まるという特徴がある。一方で何故暗譜がからきしだめなのかは大きな研究課題だ。

最近、この記憶力が落ちた実感がある。正確に言うと「思い出し方を忘れる」という感覚に近い。

年がら年中ブラームスのことを考えているから、不意に記事のネタを思いつくことが多い。手元にメモがあればすぐにキーワードだけを書き残す。問題はメモが無かったり、電車の中だったりした場合だ。どれほどいいネタでも、メモしておかないと後から思い出すのに一苦労というケースが目立って増えた。キーワードさえメモしておけば、あとは完全に思い出して記事に出来るくらいの記憶力は維持しているから、思いついた瞬間に何かにメモする他はない。最近は携帯電話のフリーメモが重宝している。

記事を思いつかない苦しみよりも、一度思いついた記事を思い出せないほうがストレスになる。せっかく縁あって私の頭に浮かんでくれたのだから、キチンと記事にしないと申し訳ないという気持ちである。

本当に憂うべきなのは、キーワードから記事を復元出来ないほど記憶力が減退することである。いつかそういう日も来るのだろう。

2017年8月28日 (月)

文法と楽典

知っているに越したことはない。越したことはないが知らなくてもしゃべれるし歌えるという意味では「文法」と「楽典」は共通性がある。正式に習おうと思うと厄介で、古今の学生を悩ませるということにおいても双璧である。

先に文法が出来上がって後から言葉が生まれた訳ではない。「先に言葉ありき」で言葉の使い方使われ方を詳密に分析して体系付けられたのが文法である。現に文法などさっぱり知らぬ子供でも言葉を使っている。文法とは「後から付けた理屈」である。だからと申し上げて良いのかわからぬが文法には例外が多い。よく使う動詞ほど不規則変化するし、格助詞の使い分けには定説がない。けれどもおよそ日本人ならば使い間違えたりすることはない。

言葉と文法の関係は音楽と楽典の関係に似ている。歌ったり演奏したりアンサンブルしたり、あるいは作曲したりした経験の膨大な積み重ねから導き出された体系なのだ。いわば「こうしたらうまくいった」の集大成である。次もうまくやりたいと願う者によって次々と模倣拡充されてきた。人によっては「あれはいかんこれもいかん」という制約に映ってしまうが根本のところは「どうしたら耳に心地よいか」を求めて「後から付けた理屈」のなのだ。

無くても歌は歌えると開き直るのは、斜めに構え過ぎていると思う。一方で楽典の決まりを完璧に守ったつまらぬ作品が存在する可能性も無視できないと思う。古典的と称されることの多いブラームスの作品がただ楽典を守っただけの作品でないことは歴史が証明していることに加えて、私の耳もそれを支持している。

楽典という決まりも結構だが、理屈では説明のつかない塗り残しの領域が多いほど魅力を増すと思う。

2017年8月27日 (日)

文体

文章表現上の特色のことだろうか。筆者の個性による言い回しの癖と解されよう。有名作家間の言い回しの特徴を比較したり、同一作家における表現の時系列的な変化の研究を総称して文体論と呼ばれている。

ブログを長く続けていると、文体めいたものがおぼろげながら構築されて来る。筆者である私自身は気付かない幾多の特徴がブログ記事に刻印されているものと思われる。具体的に心がけているのは「簡潔な表現」だ。ねちねちとした系統の話が多いから、粘るような文体だともたれる。

おそらく、音楽にもあるのだと思う。作曲家毎に異なる様式がある。

ブログ「ブラームスの辞書」のカテゴリーにもなっている「ブラームス節」が、おそらくそれに該当するのだと考えている。

2017年8月26日 (土)

万葉集に並ぶ

現存する日本最古の歌集と称えられる「万葉集」に収載された歌は、4519首だ。数え方により異論もあるらしいが高校ではそう習った。

本日のこの記事は、ブログ「ブラームスの辞書」開設以来4519本目の記事である。記事の数が万葉集の歌数に並んだということだ。4519首目の作者は、編纂者とも目される大伴家持である。彼の命日は旧暦ながら8月28日だ。惜しい。2日違いだ。これがピッタリだったらちょっとしたサプライズになるところだった。

2017年8月25日 (金)

アナリーゼ不在

ブログ「ブラームスの辞書」は、しばしば「アナリーゼ」とブラームスの作品名のアンド検索でたどり着かれている。作品のアナリーゼをネット検索でというニーズの存在を物語る。毎日必ずそれで釣られていると申しても過言ではない。

ところが私のブログには、「アナリーゼ」は存在しない。かなりな本数の記事が堆積していながら、作品のアナリーゼは無い。意図的に避けているとも言える。ブラームス程の人気作曲家だから、ネットでも書籍でもアナリーゼは多い。競争相手の多い市場を避けているということだ。

作品中の気に入った箇所をクローズアップして見せることはあるが、全体を通しての流れが意識されていない。ブログ「ブラームスの辞書」のアクセスという意味では大お得意さんだが、同時に落胆も引き起こしているに違いない。

2017年8月24日 (木)

つくづく良かった

音楽の分野には、プロフェッショナルな人々が数多くいらっしゃる。

「演奏」「作曲」「教育」「楽理」の諸部門において、活動の対価を得ている人々だ。私はもちろんそれには該当しない。それだけならいいのだが、素人に特有のドロドロの劣等感がある。元は上手な人に対する強烈な憧れだが、最早きれい事ではない。

プロともなればどんな分野だろうと、相応の苦労があるに決まっているが、そういう面は見えていない。困ったものだ。

ブログ「ブラームスの辞書」をいくら続けても対価が得られる訳ではない。書籍「ブラームスの辞書」が売れれば代金が手許に入るが、これをもってプロと言えるかどうか怪しい。少なくとも飯は食えていないどころか、足しになっていないからだ。

それでもブログは止められない。因果なものだ。

一つだけ救いがある。

ブラームスを好きであることについては、プロアマの区別がないことだ。

2017年8月23日 (水)

臨時記号

楽譜各段の左端に記載されて全曲を通じて有効とされる調号に対し、付与したその音ピンポイントについて効力を有する記号のことだ。厳密には付与された音符以降の同一小節内に有効である。またタイがかかっていれば効力が小節線をまたぐこともある。シャープ、フラット、ナチュラル、ダブルシャープ、ダブルフラットの5種が一般的である。さすがの「ブラームスの辞書」もブラームスが用いた全ての臨時記号を数え上げてはいない。

実は私はこの臨時記号が好きだ。これがジャブジャブ出現すると演奏においては、たちまち破綻の引き金ともなりかねない素人だが、好きであることが揺らぐことはない。

音楽作品が全体として作曲者の何らかの音楽的意図の反映だということは明らかである。意志無きところに作品もない。音楽作品の媒体手段である楽譜は全体が作曲家の意志の塊であると考えることが可能だ。そんな中でも、とりわけ臨時記号には作曲家の意志の存在を強く感じる。放置すれば半音違う音になってしまうところを、敢えて矯正するという作曲家の意志の現れだからだ。

調性の微妙なうつろいを売り物にするブラームスにおいて、この臨時記号はとりわけ味わいが深い。自分のパートに和音進行上重要な音が当てられている時、しばしば臨時記号が楽譜に現れる。臨時記号1個であたりの景色を一変させることは珍しくない。中村俊輔のラストパスみたいだ。たとえばF♯だった音が、いつのまにかG♭に読み替えられて思わぬ調にワープするような瞬間は珍しくない。演奏中これにありつくことが楽しみの一つになっている。多分気のせいだとは思うのだが、ヴィオラのパートには気持ちのいい臨時記号が多いかもしれない。

私が特に気に入っている臨時記号をいくつか列挙する。

  1. 弦楽六重奏曲第1番第1楽章第7小節3拍目チェロのフラット
  2. ピアノ四重奏曲第3番第3楽章第1小節3拍目のチェロのナチュラル
  3. ヴァイオリン協奏曲第2楽章第24小節2拍目裏のオーボエのフラット
  4. ピアノ協奏曲第2番第3楽章第6小節6拍目裏のチェロのフラット
  5. クラリネット五重奏曲第2楽章第134小節1拍目のヴィオラのナチュラル

いくらでも思いつくのできりが無い。

演奏はもちろん写譜中であっても臨時記号は快感である。楽譜上に臨時記号を書き入れる時、なんだかブラームスの気持ちに近づけるような気になるものだ。

2017年8月22日 (火)

人の譜読みに絡みたい

クララはブラームスをもっと知って作品演奏に役立てよと述べている。

私はその根幹を譜読みだと解釈した。楽器演奏のテクに不安がある私だが、譜読みは大きな喜びを与えてくれる。楽譜を眺めていて感じる疑問について自問自答の中から生まれる記事のネタは数多い。ブログ「ブラームスの辞書」の根幹であるとも位置づけ得る。

一方で私は演奏に当たって譜読みを始める人にからみたいのだ。「ブラームスの辞書」は真摯な気持ちで楽譜に立ち向かえば必ず生じる疑問に答えるためのヒントになりたい。自問自答も結構だが、議論の中から得られるものも多い。老若男女あるいは演奏者がプロフェショナルかどうかは問わぬが、是非とも真摯な譜読みの途中であることは期待したい。

2017年8月21日 (月)

アンテナ

ブラームスネタに対する感受性をとても大切にしている。とるに足らない日常の中に、ブラームスの作品にまつわる相関が転がってはいないかと目を皿、耳をダンボにしている。心のアンテナの高さや向きを毎日いろいろに調整しては、ネタと呼ぶのもバカバカしいようなキッカケを探している。

大抵は偶然の一致なんだと思う。興味の無い人から見ればこじつけにしか見えないと思う。一生懸命理由を考えても、結局はわからずじまい。一番あり得る落としどころは「ブラームスの単なる気紛れ」だったりする。

いいではないか。「ブラームスの気紛れ」になら振り回されるのも悪くない。気紛れに振り回されるのも100回繰り返せば、気紛れの癖にめぐり合えるかもしれない。見つけるそばから偶然だと決め込んで考えることをしないのは、きっと大きなチャンスロスだ。

小さな偶然を軽視しないことが、今までもこれからもブログ「ブラームスの辞書」のモットーである。

2017年8月20日 (日)

愛情が足りない

ブラームスが楽譜に記した音楽用語を全部拾ってアルファベット順に並べて比較考察するというコンセプトを、他の作曲家にまで拡大することは、大きな意義があると感じている。せっかくブラームスの用語遣いの特色を発見しても、それが本当にブラームス特有の現象なのかどうかは、他の作曲家と比較すること無しには確定し得ないからだ。「ブラームスの辞書」のコンセプトを学問の域にまで高めるには、その手順は不可避である。

バッハ、ベートーヴェン、シューマン、シューベルト、メンデルスゾーン、ドヴォルザーク、モーツアルト、ヘンデル、ハイドンなどブラームスが愛した作曲家たちの楽譜を仔細に分析することは大変興味深い。愛していたとは言えまいが関係の浅からぬ人々たとえばワーグナー、ブルックナー、マーラー、リスト、ショパンの分析もけして無駄ではあるまい。加えてブラームスが楽譜の校訂に深く関与した作曲家たちの楽譜には、校訂者ブラームスの癖さえ刻まれている可能性がある。

これらの大作曲家全てまたは一部にブラダスと同様のデータがあり、その集大成としての「辞書」があったら、どんなにか楽しいだろう。

分析の基本になるのは楽譜だ。楽譜の取り揃えが恣意的であってはならない。有名な作品だけを分析するのは片手落ちだ。全てとは言うまいがほとんど網羅されている必要がある。

楽譜の収集にはお金もかかるし、パソコン入力には根気と時間が要る。しかし、お金と時間は克服可能だ。もっとも深刻な問題は作曲家への愛情だ。愛情があれば時間もお金も調達出来るのだ。「ブラームスの辞書」を生み出した経験からそう断言できる。

楽譜が揃い、パソコン入力も完了したところからが正念場だ。膨大なデータの羅列から何かを読み取れるかどうかはひとえに意欲にかかっている。この意欲の源泉が愛情なのだ。熱意とも呼び得る。

私に限って申せばブラームス以外の作曲家でチャレンジするには彼らへの愛情が足りていない。

2017年8月19日 (土)

キーワード検索

ブログの運営も12年を超えた。このほど面白い機能を発見した。管理画面で記事の一覧を呼び出すと、検索窓が表示される。ここにキーワードを入れると保存してある記事が簡単に目的の記事にたどり着けるのだ。今までその対象は記事のタイトルだけだと思っていたが、これがどうやら違っていた。記事の中にそのキーワードが含まれていても対象になることがわかった。

これはかなり便利。公開前の記事も検索の対象になる。過去の記事を引用せねばならなくなったとき、いつの記事だったかなかなか判明しないときがある。備蓄記事を含めると5000本の中から効率よく目的の記事を割り出すのは、記憶だけでは限界がある。タイトルが判っていなくても、ポイントとなる言葉を入力することで絞込みが容易になった。

今までこの機能を知らずにいたなんてどうかしている。

2017年8月18日 (金)

ティンパニ特集総集編

絵に書いたようなショートリリーフ「ティンパニ特集」の総集編を発信しておく。

  1. 2017年08月11日 ティンパニの出番
  2. 2017年08月12日  トラウマ
  3. 2017年08月13日 tr
  4. 2017年08月14日 叩き分ける
  5. 2017年08月16日 ティンパニの調律
  6. 2017年08月17日 6度のティンパニ
  7. 2017年08月18日 本日のこの記事。

柄にもないティンパニ特集は、お盆休み限定で。

2017年8月17日 (木)

6度のティンパニ

ティンパニの調律について興味深い話がある。

「ネーニエ」op82だ。この作品はニ長調だというのに、1対のティンパニは「嬰ハ」と「嬰ヘ」に調律される。これにもまたカラクリがある。中間部で嬰ヘ長調に転ずるのだ。これなら主音と属音だ。つまりネーニエの作品冒頭でブラームスは、ティンパニに対して、中間部の調を見据えた調律を要求しているということになる。調性配置のプランを先に告白しているようなものだ。それでいて中間部に至る前にもティンパニに出番があるところが、絶妙なところだ。しかも2箇所だ。

74小節目コードネームで言うと「A→F♯m」という進行の中でティンパニが「嬰ハ→嬰ヘ」と差し込んで来る。次が82小節から「Hm→C♯」という進行の中で「嬰ヘ→嬰ハ」とたたみこむ。

そして中間部では晴れて主音、属音として「嬰ヘ」「嬰ハ」を活躍させた後、ニ長調の再現部を前に、ブラームスは「嬰ハ」を「ニ」に変更させたと思われる。断言できないのには理由がある。楽譜いくら見ても「嬰ハをニにせよ」と書いていない。書いていないのに157小節目でいきなり「ニ音」がティンパニに現れてしまう。冒頭でデフォルトされた「嬰ハ」の半音上の音だ。だから仕方なく「嬰ハ」を「ニ」に変更したと推定した。

これで「ニ」と「嬰ヘ」になる。ニ長調であれば「ニ」と「イ」というのが自然だが、それだと2個のティンパニを両方変えねばならない。手間を考えたわけでもなかろうが「嬰ハ」だけを半音上げることで「ニ」を調達し、結果として「嬰ヘ」「ニ」という6度関係に持っていったということになる。残念なのは、その再現部の中で「嬰ヘ音」の出番がないことだ。

1対のティンパニが6度に調律されるというのは、なかなかロマンティックな感じがする。

2017年8月16日 (水)

ティンパニの調律

古典派の時代、管弦楽に参加するティンパニは原則1対だった。2個のティンパニがそれぞれに音程を設定されるのが普通だ。ドイツレクイエムや交響曲第4番の第3楽章、大学祝典序曲ではティンパニ3個が要求される。大抵は、その作品の主音と属音に調律される。交響曲や協奏曲では楽章毎に調律が変わるのが普通だし、楽章の途中で変更ということも珍しくない。ブラームスは2番と3番の交響曲で、途中変更がある。

一方でピアノ協奏曲第1番は3つの楽章を通じて「A」と「D」が変わらずに維持される。

ベートーヴェンが交響曲第8番の最終楽章でオクターブに調律されたティンパニを用いたとき、軽いセンセーションが起きた程だ。

ブラームスも概ねしきたりには従ったが、興味深い例外もある。

交響曲第2番の第2楽章だ。楽章の調はロ長調だ。ところが、1対のティンパニは「ト」と「ロ」に調律される。何やらかぐわしい3度だなどと感心している場合ではない。「ト」という異例の設定には訳がある。51小節目でト短調に転ずる際に重要な意味を持っているのだ。51小節目冒頭に1度だけト音が鳴らされるとすぐに、「ト」を「嬰ヘ」に変更せよとの指定があり、めでたく「ロ」と「嬰へ」に落ち着く。これならロ長調の主音と属音だ。あの「ト音」は8分の12拍子の8分音符3個分だけのためにある。

2017年8月15日 (火)

終戦の日

何の断りもなく「終戦の日」といえば日本では8月15日のことだ。戦没者追悼式が行われるし、甲子園では高校生の野球を中断して黙祷が行われる。ところがアメリカで対日戦勝記念日といえば9月2日だし、中国やロシアでは9月3日になる。9月2日は降伏文書調印の日で、翌3日は北方領土占領の日どいうそれなりの根拠がある。天皇がポツダム宣言の受諾を決めたのは14日だったが、玉音放送の15日というのは大きな区切りだ。

さて日本と同じ敗戦国のドイツはどうなっているのだろう。ドイツでは「終戦と国民社会主義からの開放の日」とされ5月8日となっている。連合国側も5月8日が「戦勝記念日」なのだが、ロシアは9日になっている。

ヒトラーが4月28日に自決して「第三帝国」は事実上崩壊していたから、降伏は国防軍司令部の名でアイゼンハワー将軍に通告された。これが5月7日で、降伏文書への調印は5月8日だった。連合国とドイツではこの日が「終戦の日」ということだ。ソ連はスターリンが別途降伏文書への調印式を要求したことから、5月8日付けの文書に5月9日に調印する形になった。だからロシアの戦勝記念日は1日遅れている。

ブラームスの誕生日5月7日は、これら終戦の日の直前ということになる。

2017年8月14日 (月)

叩き分ける

交響曲第2番の第4楽章アレグロ2分の2拍子も大詰め、405小節から弦楽器が8分音符で音階行きつ戻りつを始める場所で、ティンパニもまた8音符でD音を叩く。一段落の413小節目では、これが「tr」に変わって3小節半続く。そしてクライマックスの417小節目からは、6連符になって2分音符を6つに割る。

アレグロで疾走するホンのわずかの間に、8分音符、トレモロ、6連符という具合に刻み方が変わる。音程はラとレだけ、単に刻みの密度だけが表現の手段だ。CDによっては、この変化がクッキリと、聞こえてこない時があって興ざめすることがある。

遠い昔、大学オケで初心者のヴィオラ弾きだった私は、ブラ2のクライマックスのこの場所のティンパニを聞きながら、必死だった。ティンパニの刻み分けをヴィオラの位置から聴くのは、楽しみの一つだった。

2017年8月13日 (日)

tr

楽譜中特定の音符の上または下に「tr」と書かれていることがある。普通は「トリル」だ。「記譜された音と音階上一つ上の音を急速に交代させ続けよ」という意味だ。

ところがティンパニのパートに出現するとこの定義ではたちまち行き詰まる。この記号を見たティンパニ奏者は、記譜された音を連打する。事実上の「トレモロ」だ。スペルに遡れば「トリル」も「トレモロ」もどちらも「tr」でよいのだが、楽器の構造上両方可能な弦楽器では「トリル」をするのが普通だ。

あまり話題にならないが何か決まりでもあるのだろうか。

2017年8月12日 (土)

トラウマ

心の傷のこと。外的な要因によって引き起こされたことが必須の要件だと思われる。

1867年12月1日、ドイツレクイエムはウィーンにおいて最初の3曲だけが部分的に初演された。ヘルベックの指揮だ。

ところが、この演奏は散々な出来で酷評されたと記録されている。原因まで添えられている。第3曲の終末を飾るフーガは、今でこそ全曲の白眉として定着しているが、このときはここが物議を醸した。延々と引き伸ばされるD音の保続音こそがここの象徴だが、あろうことかティンパニがバランスを考えない強過ぎる音を発し続けて、フーガを台無しにしたとされている。

もちろんブラームスには不出来の原因はわかっていたから、その部分の楽譜には何等手を加えることなく、1868年4月10日のブレーメンでの初演を迎える。作曲家ブラームスを楽壇の高みに押し上げる出来となった。

ブラームスの管弦楽作品におけるティンパニは、しばしば一部の金管楽器とともに、周囲より一段低いダイナミクスを与えられる。ドイツレクイエムのウィーンでの失敗が、トラウマになっていた可能性をひそかに考えている。

2017年8月11日 (金)

ティンパニの出番

ブラームス作品に現れるカッコいいティンパニの出番について考える。

  1. 交響曲第4番第1楽章 最後の4連打 迷った末にココに決定。
  2. 交響曲第1番第4楽章 434、438、442小節目突然訪れるご褒美。Vaも一緒。
  3. 交響曲第1番第1楽章冒頭 あまりにも有名なC音の連打。第一交響曲の象徴。
  4. 交響曲第1番第2楽章65小節3拍目 E音ppのロール。4分音符にして7個分。67小節目こそが再現部になっている。あまりに微妙な出番だが、秀逸。
  5. 交響曲第4番第3楽章 282小節目エンディングに上り詰めるタカタンの連打。
  6. ドイツレクイエム第3曲 冒頭バリトン独唱に寄り添うパートナーとして。
  7. ピアノ協奏曲第1番第1楽章冒頭 唐突に放たれるフォルテシモ。
  8. ヴァイオリン協奏曲第1楽章90小節目 独奏ヴァイオリンを支えるD音。
  9. 交響曲第2番第1楽章 第2主題を導くピアニシモのロール。32小節目と36小節目。
  10. 交響曲第4番第2楽章 98小節目第2主題が美しく変奏されるところ。
  11. 交響曲第3番第4楽章 ラスト3小節のppの刻みは極上の肝試しか。
  12. ドイツレクイエム第2曲 葬送行進曲の歩みを律するとぎれとぎれの3連符。
  13. 交響曲第1番第4楽章 375小節目からのG音のロール。終楽章コーダへの道のりに敷き詰められた絨毯。総延長14小節の間、ppから始まって<>あり、クレッシェンドあり、ストリンジェンドありのさまざまな表情を表現せねばならない。
  14. 悲劇的序曲冒頭 ディミヌエンドの妙技。
  15. 交響曲第2番第4楽章 410~420小節。4連符、6連符、トリルの叩き分け!
  16. 運命の歌op54の冒頭3連符もなかなかカッコいい。

しかし気のせいかもしれないが、ドイツレクイエムはティンパニのカッコいい出番が多いと感じる。第3曲末尾のフーガで延々と鳴らされるD音は名高い。第2曲の葬送行進曲がフォルテシモに達する54小節目からも相当カッコいい。同じ旋律がppで奏される上記10位の場所とリズムのパターンが違うところが痺れる。さらに第2曲のラストを飾るフーガの中、304小節目から延々と続く4度の連打もシャープだ。

 

2017年8月10日 (木)

議事録

会議の記録のことだ。開催日時、場所、出席者、議事を記録する。これを残さなかった場合、後々になってもめることもあるからとても大切だ。大切なのだが、これを書くのはなかなか大変だ。議事録は大抵会議の主催者が書く。会議を主催する組織のメンバーが担当することになる。

ところが私はこの議事録が大好きだ。書くのが得意だった。遅くも翌日には出席者全員宛てに議事録案をメール送信し、加筆修正がありはせぬかと問うのだ。何も問題が無ければ、OKの意思表示をもらうことが狙いだ。この速さがまずもってポイントだ。あまり遅いと出席者の記憶もあいまいになる。

実はこのスピードは、会議の事前準備にかかわっている。どうせ主催者として会のシナリオを考えるし、資料も準備するのだ。そのついでに備忘代わりのメモを作る。出席者、議事、望ましい結論、想定Q&Aだ。自分が会議の進行役ならもっと完璧だ。自分のシナリオ通りに自分がしゃべればいいからだ。誰も言っていないことを書くのは厳禁だが、誰かが口にすれば書くことが出来る。それが進行役の自分であろうともだ。嘘は絶対にいけないが、誇張と省略を駆使して会議のニュアンスを望みの落としどころに持って行くのだ。

会議終了後、質疑応答だけを付け加えて、タイトルを議事録に差し替える。記事の末尾に文責として私の名前を入れれば一丁上がりである。

実際の会議より議事録の方が出来映えがよいこともしばしばだった。上司はみなよく知っていて、「お前の議事録は眉唾だ」などとも言われた。会議の実態以上の議事録が書けてしまうからだ。

「ブラームスの辞書」でも同じことが起きている可能性大である。ブラームスに関する知識経験や演奏技能の実態を全く反映していないブログである可能性が極めて高い。

鵜呑み厳禁の眉唾ブログである。

2017年8月 9日 (水)

自分を売り込む

就職して初めて配属された職場は営業部門だった。営業マンになった訳である。先輩から言われた言葉は数多いが今でもよく覚えているのが、「営業とは自分を売り込むことである」というものだった。当時はもちろん腹に入っていなかった。

著書「ブラームスの辞書」の宣伝・販売を目的としたブログの管理人として12年が経過した今になって、そのことが身にしみている。

書籍の内容と価格を示し、購入方法を示し、商品の画像を公開するだけでは売れやしないのだ。素人の自費出版本など、ちっとやそっとでは売れないのはお約束だ。幸い売れないことが死活問題になったりはしないから、いい気なモンだが売れるに越したことはない。A4版400ページ4300円の自著をどうしたら買ってもらえるかに知恵を絞る。

12年前に私が選んだ唯一の販売ルートがブログだ。この選択は今でも正しかったと思っている。このブログ上でやることは、「ブラームスの辞書を何卒よろしく」と連呼することではない。「こいつなら詐欺などやるまい」と読者に思わせることだ。これがなかなか難儀だ。すぐには信用してもらえぬのが世の中というものである。結局は単に記事を積み重ねることでしか示せない。記事の内容と配置でしか示せないということだ。私という人間のキャラをよく知ってもらうことに尽きる。知ってもらうことでただちに売れる訳ではないが、知ってもらうことなしには売れないと思う。

2017年8月 8日 (火)

多変数関数

中学の時代だったか、初めて確率を習った。「確からしさ」という言い回しだった。コインを投げて表が出るか裏が出るかの確率は共に50%ずつである云々だ。「コインを同じように投げた場合、表裏の出る確率は同じ」というロジックだ。天の邪鬼だった私は「同じように」という言葉が引っかかった。

「表が出るのは表が出るような投げ方をしているのではないか?」という消しがたい疑問があった。次に裏が出てしまうのは「表が出るような投げ方をしていないからだ」と思った。つまり「次に何が出るか判らないのは本当に同じように投げていないからだ」という訳だ。

表が出るか裏が出るかは、膨大な数の変数を抱えた多変数関数をその都度神様が演算した結果なのだ。全ての変数をコントロール出来れば、表か裏かは完全に予測できる。投げる手は右か左か、コインを持つ指はどれか、手の表面の脂は同じか、投げる高さは、方向はと考えればそれがいかに膨大かわかるというものだ。床に落ちるたびにコインは微量ながら摩耗し変形するから、前回と同じ条件にはけしてならないことも容易に想定できる。

数学は、コントロール不能な入力値の設定を諦めたのだ。結果どうなるか。膨大な変数が表側の値になるか裏側の値になるかは、まさに五分五分となる。表を出すようなパラメータ値と裏を出すような値とが偶然均衡するのだ。「アット・ランダム」とはこういうことだ。最近はこれが確率50%の意味だと思うようになった。数学の怠慢といってはいけない。抽象化とはこういうことだろう。

音楽作品の演奏に2つと同じものがない理由はこれで説明出来ると考えている。演奏とは膨大な多変数関数の処理だ。同じ楽譜を見ながら弾き手によって、会場によって、楽器によって演奏が変わる。膨大な変数のうちのごく一部が楽譜によって定められているに過ぎない。4分音符一個にしても、ニュアンスの付け方には膨大なバリエーションがある。人が聴いて心地よいと感じる弾き方は、このうちのほんの一部だ。高い確率で心地よいと感じる弾き方の出来る人が、名人なのだと思う。独自の変数管理によって多変数関数を制御していると解されよう。

一方、演奏の前段階としての作曲は、「こうしたら感動しますよ」という変数の候補を設定することかもしれない。古来静けさは最良の環境の一つだ。何も音を出さないのは誰にでも出来る。そうした最良の環境を打ち破ってでも聴きたい音の羅列の提案が、作曲だ。ブラームスは「こんな音楽なら、静けさの方がマシ」という音楽を作ってしまった場合、迷わず廃棄していたと思われる。

私に限っていうと、こんな演奏なら「静けさの方がマシ」という演奏をしてしまうことが少なくない。多変数関数の入力値がちっとも一定しないのだ。単なるへたくそだ。

2017年8月 7日 (月)

需要予測

この先どの程度必要とされているかの予測。鳴り物入りで始まったイベントや、施設などが赤字であると報道される際、「需要予測の甘さ」が原因として指摘されることが多い。天気よりは予測が難しそうだ。計画が承認されそうな数値を先に作り上げて、需要予測をそれに合わせるという手法も時には用いられているらしい。

笑ってばかりもられないのが、自分の足下の話だ。今書籍「ブラームスの辞書」の手持ち在庫は100冊ほどだ。ここ5年間の傾向として、お買い上げ頂くのが年間5冊程度で、知人への贈与をいれれば10冊程度が私の許を離れる。単純計算としてあと10年で「ブラームスの辞書」の在庫が底を突くことになる。

一方ブログ「ブラームスの辞書」は2033年5月までの継続を目標にしている。表向きの名目は書籍「ブラームスの辞書」の宣伝であるにもかかわらず、最後の10年は販売用の手持ち在庫無しということになる。これは何気なく厄介な問題だ。「重版刷ります」となればカッコいいのだが、そうもいかない。

「年間10冊」という見込みが大甘で、年間5冊になってくれればなんとか凌ぐことが出来る。

2017年8月 6日 (日)

迷い

アクセス系キリ番の間隔は、アクセスの厚みが増すことによって短くなって行く一方、ブログ創業系の記念日は、いつも一定だ。当たり前の話である。

だからアクセス系のキリ番記事は、アクセス数の増加とともに間隔を広げてきた。今はとりあえず100000アクセス毎に決めている。無闇にアクセスネタではしゃがないための自主規制だ。

一方の記念日ネタが悩ましい。以前はほぼ100日毎にそのことに言及してきたが、最初の100日と4100日とでは到達の感慨の深さが違う。記事の本数を稼ぐには貴重だが、長期的にはブラームスネタの濃度低下の一因にもなり得る。

2017年8月 5日 (土)

瓶首効果

「びんくびこうか」と読む。数学それも統計あるいは確率論の用語だ。高校の頃知ったが今でも言うのだろうか。

赤青黄緑のビーダマ各25個を瓶の中に入れる。この中から1個取り出す場合、各色の出る確率はどれも25%になる。確率の初歩だ。ところが4個を続けて取り出す場合各色1個ずつになるかというとそうは行かない。計算すると各色1個ずつになる確率は約10%でしかない。

取り出すサンプル数が十分に多いとは言えない場合、取り出されたサンプルの組成は、元の母集団の構成比と大きく違ってしまうことがある。これを瓶首効果というのだそうだ。まるでキュッと細くなった瓶の出口が悪戯をしているかのようなのでこのような名前になったと思われる。

アメリカ原住民は、アジア起原とされているが、血液型の構成比はアジア人とは大きく異なっている。このことを論理的に説明する理屈が瓶首効果である。アジアからアメリカに移った集団の血液型組成がアジア人の構成比と偶然かけ離れていたと説明し得る。

ブログや本の読者に公開されている記事から私自身のキャラがどれだけ伝わるかに関係がある。私の全人格が瓶の中全部のビー玉で、取り出されたビー玉が本やブログだというわけだ。瓶首効果の理屈によると、もしもブログや本で私のキャラが相当程度正確に伝わるとするなら、それは発信した情報が取るに足らぬ量では無くなったからだと解し得る。

望むところである。

2017年8月 4日 (金)

適正部数

「ブラームスの辞書」を自費出版に踏み切った時、部数の決定が難しかった。もろもろ考えて結局落ち着いたのが300部だった。売れる見込みはほぼゼロで、知人への配布が中心だ。そしてお決まりなのが予算の制約だ。

ところが、当時は全く考えもしなかった要素があった。万が一トントン拍子に手許を離れ、自分と家族の分しか家に残らなかったら相当寂しいと思う。音楽系で新たに知り合った人に対する名刺代わりにもなっているから、これを切らすことは大切な訪問先で名刺を切らすようなものだ。

現在の在庫と売れ行きを考えるとあと10年か15年は手許に残る計算だ。良かった。結局思案の挙げ句に決めた300という部数がとても適正だっと感じる。

2017年8月 3日 (木)

忘れてはならぬ事

おバカなブログを開設して延々とブラームス話を開陳しているが、ときどき言い聞かせていることがある。アナリーゼごっこの心得くらいな位置づけだ。

たとえばソナタの話をする。主題提示部だ、展開部だ、再現部だとにぎやかだ。あるいは第一主題、第二主題という話も半ば必須だ。

しかし、ブラームスは楽譜の上に明記している訳ではない。「ここからが展開部ですよ」とか「再現部始まります」などとは書いていない。それらの情報は、音楽学者や評論家の分析の結果、そう呼び慣わされているだけだ。ブラームスは沈黙している中、他者がアナリーゼの都合で、そう命名しているだけだ。リピート記号が存在すれば提示部の終わりと展開部の始まりは比較的明かだが、再現部は人によって異論が出ることもある。ブラームス本人が「ここからが再現部です」と明言していないから、そういうことも起きて来る。

「p」や「f」などのダイナミクス、「Allegro」「Andante」などの発想記号は、ほぼブラームス本人に由来する。だから「ブラームスの辞書」はそれらを数えたり分布を調べたりする。採用された拍子や調も、同様に探査の対象たり得る一方、「フガート」「ヘミオラ」などは同等とは言えない。

後世の愛好家にアナリーゼの楽しみを残してくれているかのようだ。

2017年8月 2日 (水)

出荷管理

「ブラームスの辞書」は、自費出版本だ。そりゃあもう極端に露出が少ない。「ネット販売限定」というともっともらしいが、実際には「売っていない」に等しい。小部数の自費出版を逆手にとっていろいろ工夫はしているのだが、あまり売れ行きは期待できない。

それでも、売るにしろ提供するにしろ、他人様にお届けするのは実に気持ちのいいものだ。これも小部数を逆手に取った工夫のひとつだが、私の手許から離れてゆく「ブラームスの辞書」を記録している。

「出荷順」「出荷日」「出荷先」「opus番号」「送料」「売上金額」が一冊ごとに記録されている。エクセルに打ち込んでいるので、「粗利」「在庫数」はリアルタイムで把握できる。もちろん「opus番号」の管理もしていて、何番がどこの誰に手渡されたかがクリアになっていて、空き番号も一目でわかる。月末になれば倉庫側の在庫数と付き合わせることも行っている。

こうしたことが出来るのも書店においていないからこそなのである。

しがない自費出版の癖にこういう点だけは凝っているという訳だ。

2017年8月 1日 (火)

待った

相撲の用語。双方または片方の力士の何らかの事情により、立ち会いが中断されることをいうようだ。「呼吸が合わない」ことが原因とされるが、真偽は不明だ。一般には、「美しくないこと」「望ましくないこと」とされ、同一の場所、あるいは同一の日に待ったの発生が集中すると、「待った禁止」の通達が出ることもある。特定の取り組みに集中することも批判や勧告の対象だったりする。しかしながら力士にとっては、黒星よりは待ったのほうがマシなのだろうと思う。

ネット上でコミュニケーションをしていると、思わず待ったをしたくなることが多い。たった今送信ボタンを押したメールの中に間抜けなミスを発見して狼狽したこと1度2度ではない。「今のメール待った」機能は無いものか。ユーザーの「あったらいいな」を形にして、アイデア商品をヒットさせて一儲けが出来る時代だから、誰かが開発してもよさそうだ。

その点ブログはマシである。自分が管理するブログであれば、記事の修正は思いのままだ。私がブログを自分に向いていると感じるのは多分この機能のおかげだ。

しかし、ブログでも油断は禁物だ。ひと様のブログにコメントした場合には、修正自由という訳にはいかないからだ。多くの人の目にとまってしまうという意味では、パーソナルなメールよりも数段注意が必要だ。

何度か恥ずかしい思いをしているのに、なかなか学習しない。

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ブラームスの辞書写真集

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    はじめての自費出版作品「ブラームスの辞書」の姿を公開します。 カバーも表紙もブラウン基調にしました。 A5判、上製本、400ページの厚みをご覧ください。
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