愛情の表現
「愛情」は手に持って見せることはもちろん、「はいこれ」と指し示すことも出来ない。ものの見事な抽象名詞だ。人によって定義も違えば対象や位置付けも違う。主観の相違による認識のすれ違いを常に覚悟しなければならぬ言葉ながら、これといった断りもなく頻繁に使われる。
私がブラームスに対して抱く感情も愛情だと認識している。
抽象名詞の悲しさで、持ち上げることはもちろん、指し示すことも出来ない。だからひと様にこれですよと見せるためには何か形あるものに変換する必要がある。この変換のことを人々はしばしば「愛情の表現」と呼ぶ。
著書「ブラームスの辞書」とブログ「ブラームスの辞書」が私の愛情の表現と申し上げて差し支えない。著書もブログもこれと指し示すことが可能だ。これらを作り上げる原動力が、ブラームスへの愛情だと言い換えることも可能だ。ブラームスへのほとばしる思いを、忘れるのが怖くて書き留めたら本やブログになった。忘れるのが怖いという現象自体も愛情の裏返しだと思うが、こうした感情もまたこれといって指し示すことが出来ない。
ひと様に説明不能の感情をものに置き換えたのだから、わかりにくいのは当たり前である。ブログも本も私の感情表現である。
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