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2017年9月18日 (月)

解釈への不介入

19世紀後半のドイツ音楽界を2分した論争の、片方の陣営の首領がブラームスだったことになっている。本人が進んで旗を振っていたとも思えないが、伝記その他の書物を読む限り、ブラームスが体制側の古ダヌキであったと感じる瞬間も多い。

その論争における両陣営の旗印が「標題音楽」と「絶対音楽」だった。もちろんブラームスは「絶対音楽」の側。19世紀後半に台頭した「標題音楽」の反対概念だ。「標題音楽」が台頭して来ることによって、初めて成立したのが「絶対音楽」だったように思える。バッハやベートーヴェンが自らの音楽を「絶対音楽」だと考えていたとは思えない。

ブラームスは当時、論争の存在自体は認識していたが、自らの使命を「アンチ標題音楽」と考えていたかどうかは不明だ。単に自らの脳裏に去来する音楽が「標題不要」の音楽だっただけかもしれない。音楽は言葉の助けがあってこそ成り立つと考えなかっただけのことだ。

ブラームスの姿勢は自信と放任に満ちている。自らが是とする音楽を、楽譜に盛り込みきることに徹し、自らの考えをジャーナリスティックな手段で表明することは無かった。この姿勢は、自らの作品にけして「標題」を奉らなかったことと同根だと感じる。

私はこれを「解釈への不介入」だと受け止めている。楽譜以外の発言をしないことで、作品の演奏者や聴き手の解釈に介入しない姿勢の表れだ。ブラームスが保証するのは作品の完成度だけで、演奏や解釈にはノータッチということだ。作曲家が没した後は、いずれそうなると悟っていたに違いない。

「標題」はかなり有力な解釈への介入だ。クラシック音楽に興味を持ち始めた頃、なんとなく標題のある作品に親しみを感じたことは既に遠い記憶になっている。標題の由来を知ることは音楽への興味を増す一助にはなったが、そのように感じない自分に失望するという副作用も味わった。

作品ジャンル名、通し番号、調性、作品番号で語られるブラームスの作品では、それらが鑑賞の先入観にならない。そういうブラームスを愛する自分がいる。そのことを「絶対音楽」と呼ぶかどうかは、あまり気にしていない。

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