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    2012年3月28日から4月4日まで、次女の高校オケのドイツ公演を長男と追いかけた珍道中の記録。厳選写真で振り返る。

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2017年11月30日 (木)

レバー団子のスープ

ブラームスの行きつけのレストラン「赤いハリネズミ」の名物。Leberknodelsuppeというらしい。(赤文字はウムラウト)レバークネーデルズッペだ。ドイツオーストリア独特のスープだそうだ。

ブラームスは上客の集まる2階ではなくて、大衆向けの1階で食事したという。ブラームスに遭遇すること目当ての客も混入していたようだ。

同じウィーンに住み、交響曲を生み出しながらお互いの伝記にあまり登場しないブラームスとブルックナーだが、このレストランを贔屓にしという点では一致している。レバー団子のスープを飲んで「うまい」と一言漏らしたのが唯一の意見の一致とは大人げない。

2017年11月29日 (水)

ザルツブルガーノッケル

ザルツブルクのお菓子。

ブラームスの母が得意にしていたと伝えられる。その他ホイベルガーがイシュルに出かけたブラームスに配慮して、レストランに好物を注文する一件にも名前が出てくる。レストランの対応は「ブラームス先生の健康に配慮して、ザルツブルガーノッケルはキャンセルにした」というものだった。「甘過ぎて身体に良くない」という意味だろう。

ブラームスのお菓子好きを今に伝えるエピソードだ。

2017年11月28日 (火)

お袋の味

おそらく「母の手料理」のことで間違いあるまい。我が家の子供たちにとっては「祖母の手料理」と同義である。もちろんおやつも含むと解してよかろう。

ブラームスにも「母の手料理」があった。

  1. エッグノッグ ラム酒と卵で作る飲み物。卵黄とラム酒にバニラや生クリームなどを加えて作るらしい。香辛料を一つまみ入れる。れっきとしたアルコール飲料なので子供にはきついと思うが、当時のドイツは現代の日本とは少し事情が違うと思われる。
  2. こけもものジャム こけももと砂糖それにレモン汁を加えて煮る。
  3. オートミールケーキ 母からの手紙に現われるが、レシピは不明。文脈からしてブラームスの好物と思われる。
  4. ザルツブルガーノッケル メレンゲを焼いて膨らませたもの。

1855年4月クララはハンブルクでの演奏会に際してブラームスの実家に滞在する。ブラームスの伝記であればほぼ必ず言及されるエポック。このときブラームスの母がクララを心を込めてもてなしたとされている。上記のうちどれかをクララに振舞った可能性がある。

2017年11月27日 (月)

両親の少年時代

自分の両親の幼年時代についてどれほどの情報があるだろう。両親や祖父母から聞かされていた話、古びた写真だけが情報ソースだ。昭和の初めの歴史や世相についての情報は豊富だが、両親のパーソナルなネタはあまり豊富とは言えない。両親の結婚後あるいは私の誕生後の話になると少しはマシになる程度である。

ましてや祖父母の幼年時代となるとお手上げだ。

ところが、その祖父母よりさらに80年遡るブラームスの少年時代の方が下手をすると情報が多い。ブラームスほどの人物だから研究の厚みと歴史がある。私にしたって両親の少年時代のことよりもブラームスの少年時代の方が多くを語れそうだ。これをもって親不孝と言われても困る。両親が著名人でもない限り子供の代で忘れられてしまう方が自然だ。

「死んでも人々の心の中に残る」という言い回しを耳にする。人々から思い出してもらえる間は、心の中で生き続けるということだ。その通りだと思う。でも悲しいかな一般人は、孫の代までだろう。ところがブラームスは作品や伝記を通じて形作られたイメージが、世代を経ても語り継がれている。

ブラームスは生き続けている。

2017年11月26日 (日)

ドイツ橋

資料館からほど近い大麻比古神社の境内に、俘虜たちが住民の求めに応じて建設した小さな橋が2つ残っていて、「ドイツ橋」と呼ばれている。

建設された10のうち現存するのは2つだけだという。

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モルタル不使用の精巧な代物。100年を経た現在も実用中。

ただならぬオーラだ。キリスト教を信仰していたに違いない俘虜たちなのだが、収容所に隣接するこの神社にお参りし無事の帰国を祈っていたようだ。

100年前の日独交流を考えさせられる。

2017年11月25日 (土)

バラッケ

俘虜たちが収容されていた建物の呼び名だ。捕虜解放後、牛小屋として使われていた一棟が修復移築されて道の駅に転用されていた。

大きな建物ではないのだが、歴史込みで、そりゃあもうあたりを圧する風格だ。

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地場の特産品に交じって、ドイツ製のお菓子やビール、ワインなどが目を見張る品ぞろえで並んでいた。

2017年11月24日 (金)

ドイツ資料館

坂東俘虜収容所の跡地が公園として整備されている。近くにはドイツ資料館が建っている。

鳴門市は姉妹都市になっているドイツ・リューネブルク市とともに、周辺一帯を世界記憶遺産にするよう準備中らしい。資料館に立ち寄るとその理由がわかる。俘虜たちと地域住民の交流が事細かに展示されている。

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100年前の日独交流を思うと心が温まる。その要の位置に第九交響曲がある。音楽の底力をまざまざという形だ。

人道的な扱いを受け心を開く俘虜たちと地域住民の交流は奇跡的だ。館内展示物の律儀な説明は日本語とドイツ語で英語抜きというのがほほえましい。俘虜たちを第九初演に走らせたモチベーションが、俘虜の日常を活写する中から自然と伝わる仕組みだ。想像を絶する精緻なガリ版印刷の技術だけでも一見の価値がある。

我々日本人にとっても、いやおそらく縁あって訪れるすべてのドイツ人にとっても心洗われる場所に違いあるまい。

2017年11月23日 (木)

習志野を振り返る

坂東のドイツ資料館で衝動買いした書物「第九と日本-出会いの歴史」に、気になる記述がある。

坂東と同じく俘虜収容所があった習志野への言及がある。60ページには「その後ほどなくして久留米でも習志野でも第九が演奏された」と断言されている。

私は毎年11月にその習志野で開催されるドイツ俘虜の慰霊祭に参列している。先日も参列して次女の後輩たちの献身をレポートしたばかりだ。習志野にはハンスミリエス率いるオケがあったことは知っていたが第九を演奏していたとは。

初演の威力はことほどさように大きいのか。習志野が第九初演の地だったらもっと盛り上がっていただろう。

坂東の古い慰霊碑の傍らに建つ新しいほうの慰霊碑は、全国に分散収容中亡くなった俘虜の名前が明記されている。

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スペイン風邪に襲われた習志野31名も漏れなくだ。31名という人数は他の収容所に比べて抜きん出て多い。

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俘虜たちの冥福を改めて祈る次第である。

2017年11月22日 (水)

俘虜慰霊碑

徳島坂東が第九の日本初演の地、ドイツ俘虜の組織するオケの演奏だった。その俘虜収容所の跡地が、公園として整備されている。近所には資料館も併設されている。

行ってみて驚いた。千葉県の習志野にあった収容所跡は、ここ坂東ほどは整備されていない。収容中に落命した俘虜たちの慰霊碑が、仲間たちの手によって建立され、その現物が今も残り供養されている。

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強烈なオーラを感じた。まさにパワースポットだ。

戦争の爪痕と形容するには抵抗を感じる。ドイツ人の音楽への思い、故郷への思い、歴史のかなた確かにここに千名のドイツ人が生きていたというオーラ。そして現代まで供養を欠かさぬわれら日本人。その証としての第九。

2017年11月21日 (火)

ドイツへの祈り

11月19日、習志野霊園にて23回目を数えるドイツ俘虜慰霊祭があった。次女の後輩たちが駆けつけて、今年一番の冷え込みの中、演奏を披露した。

  1. ドイツ国歌
  2. 戦友の歌
  3. ベートーヴェン 交響曲第7番第二楽章

2年生が修学旅行と重なり、参列できないというピンチを、1年生がサラリと切り抜けてくれた。5月のスペシャルコンサートでは、慣例を破ってフィンランディアの合唱を聴かせてくれた1年生たちの楚々とした所作立ち居振る舞いが、リハーサルの段階から際立っていた。コーラスを交えたドイツ国歌のリハーサルでは、関係者から思わず拍手が湧いた。寒い中、開会を待つ間の毅然とした態度とエレガントな笑顔が絶妙にバランスしていた。

さて開会。

いきなりドイツ国歌。半年後のドイツ公演に向かう重要な手順の一つだ。習志野のドイツ俘虜のことは、日常の授業で教わっている。無念の死を遂げた31名の将兵に捧げる真心はドイツを好きになるためにある。ドイツを大好きになれば、公演の準備にも心がこめられる。

金管楽器とスネアだけが伴奏する「戦友の歌」は、慰霊の式典では必須の選曲だ。

昨年との違いは献花の場面だ。昨年は献花のBGMはラジカセからベートーヴェンが流れた。月光ソナタの第一楽章だ。せっかく高校ナンバーワンオケが来ているのにラジカセは無粋だ。今年はこのシーンに生演奏を入れた。曲目はベートーヴェンの第七交響曲の第二楽章だ。イ短調のアレグレットが、献花の厳粛な雰囲気を補強していた。木管の粛然とした和音を合図に、葬列を思わせる旋律が低弦から次々と折り重なって行く。セカンドに旋律を受け渡したヴィオラがオブリガートに回った時、あたりの空気が打ち震えた。

真っ先に献花したドイツ大使館付きの空軍大佐が、慰霊碑正面で渾身の敬礼を献じた姿に乙女たちのベートーヴェンが違和感なくなじむ。後に続く献花者一人一人に「ダンケシェーン」と声掛けする大佐の威厳は相当なものだが、乙女たちの演奏は全く遜色ない。

生徒代表6名が献花する。白菊を慰霊碑に捧げ祈る。大佐と言葉を交わすまでの一連の所作はただただ美しい。

終わった。このパフォーマンスが一年生だけだなんて忘れていた。

参列者全員による恒例の写真撮影。それから乙女たちが大佐を囲んでの撮影までもはや恒例だ。ここ3回演奏を買って出ているのだが、もうこの式典は乙女たちの参加なしには立ち行かないレベルだ。厳粛な雰囲気に貢献しながら、エレガントな華やかさも付加して見せる乙女たちに31名のドイツ将兵の魂も癒されるに違いない。

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2017年11月20日 (月)

豊福丸

第一次大戦で日本の捕虜になったドイツ将兵たちが本国に帰還する際に乗った船。1919年12月30日に神戸を出港し、56日間の航海ののちドイツ・ヴィルヘルムスハーフェンに帰還した。

彼らは日本での収容地徳島において、1818年6月にベートーヴェン第九交響曲を演奏した。これが同曲の日本初演であることはよく知られている。第一次大戦のドイツ捕虜たちの音楽活動の中でブラームスが演奏されていないか調べているがなかなかわからない。ベートーヴェンではいくつかの交響曲やエグモント、レオノーレの序曲、あるいはヴァイオリン協奏曲が演奏されたらしいのだが、ブラームスが確認出来ない。

ところが、帰国船豊福丸の船内でのミニコンサート、1920年2月1日に開催された「歌曲の夕べ」全11曲の中にブラームスの子守唄があった。帰国およそ3週間前のひととき、彼らはブラームスを含むドイツ愛唱歌を楽しんだ。

2017年11月19日 (日)

母のこと

私が妻を亡くした時、長男3歳10か月、長女は2歳2か月、次女に至っては5か月だった。通夜告別式に子供たちを参列させない判断をした。親戚がみな参列する中、母は3人を見るために欠席した。嫁の葬儀への欠席を後ろめたく思う気持ちはあったに違いないが、子供たちを優先した。

告別式の翌日、私の両親は私との同居を申し出てくれた。九州勤務だった私に、会社は3か月後に東京転勤の辞令を交付した。1996年5月から両親と同居した。3人の子供は私の父と母が面倒を見ることになった。父は翌1997年11月に他界したから、幼い子供たちの養育は母が担ってきた。

82歳の今も現役の主婦だ。この年齢を考えると驚異的だ。自分のことが自分でできるだけでもありがたいのに、家族全員を束ねてやまない。

先般のインフルエンザ禍では、母が日常こなしている家事の厚みに愕然とした。炊事洗濯清掃買い物など家事全般を若いころと何ら変わらずこなし続けている。天気天候を見極め、服装を考え娘らに助言する。家には花を絶やさない。家中が見渡せるリビングの隅に座って家計簿をつける。2つあるトイレの清潔さは筆舌に余る。家族の誰かが病気になるとテンションが上がる。月に2回は長女と連れだってデパートに買い物に出かける。買い求めた服や小物の品定めに余念がない。大掃除、障子の張替えなどいまだに家のイベントを仕切る。

お礼の言葉など見つからないと考えて、ブログ「ブラームスの辞書」では、母への言及は数えるほどだった。

11月10日から1泊で次女の卒業記念に娘たち2人を誘って母を温泉に連れ出した。きっかけは「歩けるうちにおばあちゃんといろいろなところに行きたい」という長女の言葉。目が覚めた。元気なうちにブログで母に言及することにも意味を見出した。

長女の言葉は象徴的だ。今までの家族旅行はみな、母と私が子供たちを連れ出す旅だった。子供たち3人こそが庇護の対象だった。今回は初めて母、つまりこどもたちのおばあちゃんが慈しみの対象になった。後部座席では無邪気な姉妹ではあるのだが、とりわけ長女だ。立ち寄った先で車から降りて歩く場面で、長女が必ずぴったりと母に付き添った。サービスエリアのトイレにも同行した。あるときは手を引き、あるときは腕を組み、段差があればその都度「気を付けて」と声をかけ続けながら、旅行の間を通しておばあちゃんの世間話の相手であり続けた。社会人2年目なりのエレガントな気遣いを見せ続けた。

車いすはもちろん、杖だって使っていない母ではあるのだが、長女のこの変貌ぶり、ひいては立場の逆転を心から楽しんだ。

超私事ながら、これを書き残さずに何がブログかと開き直って言及する。ブラームスだってきっと喜んでくれる。

2017年11月18日 (土)

36万字

次女の卒論に字数2万字が課されていると書いた。原稿用紙50枚に意欲的、計画的に取り組んでいる。

一方、私の初めての自費出版本「ブラームスの辞書」は、A5上製本ハードカバーで400ページなのだが、文字数はおよそ36万字だ。原稿用紙にして900枚だ。字数制限はもちろん提出期限だってなかった。あったのはご予算の制約だけだ。当時は文字数なんぞ気にもしていなかった。思いの丈を盛り込むだけ盛り込んで「ハウマッチ」という状態だ。

書きあがってから、ご予算に合わせてページ数を削ったのが、本当につらい作業だった。せっかくできている文章を削るのは身を切られるようなものだ。ページ数にして30くらいは削除した。文字数になおすと3万程度削除したのだ。原稿用紙ざっと70枚分の完成原稿を自らの手で葬ったことになる。

執筆そのものは軽々だった。データをそろえる作業が9か月程度かかったのに比べ、執筆自体は4か月弱,だ。実質原稿用紙970枚分をサクっと書き上げた感じ。もっというなら文章をひねってもいない。頭の中にある思いの丈を文書にダウンロードしただけだ。

大学生の卒論が原稿用紙50枚と聞いて、改めて懐かしく思い出した。

2017年11月17日 (金)

父没後20年

父が没してから今日でちょうど20年だ。

先週日曜日に墓参りした。先回りして花を供えてくれた旧来の知人がいた。「もう20年ですね」とあたたかなメッセージも届いた。彼らとのつきあいはさらに長く30年近くになる。親戚づきあい以上だ。おつきあいが始まったころ私も弟も結婚前だった。だから同家の小さな男の子が初孫状態だった。その後2人目の男の子も含めて家族ぐるみのつきあいがまだ続いている。最初のきっかけになった男の子は今やかわいい女の子の父親で、わずか10か月の赤ん坊を連れて墓参りに来てくれた。

父を思い出してくれる人が私ら家族以外にいると、ほっこりとあたたかい一日になった。







2017年11月16日 (木)

小学校の卒論

「卒業論文」の短縮形。学校の卒業に際して提出が義務づけられていることがある。断り無く用いた場合、大学以降の高等教育機関が課すというのが一般的だ。

私の学部は、卒論の提出が義務になっていなかった。だから最後までオーケストラ活動に浸かりきった学生生活だった。しからば私は一度も卒論を書いていないかとなるとそうではない。1971年小学校6年で迎えた冬休みのことだ。我がクラスの担任は「卒論」を書けと命じた。正確に申せば、そう命じたのは秋頃だ。テーマは「自分の生い立ち」である。

今思うとユニークで素晴らしいと思うが当時は必死だった。文字数の決まりは無かったが、親の助けを借りてがんばった結果、400字詰めの原稿用紙30枚近くまで行った。アルバムや母子手帳やら資料を当たりまくっての執筆だった。内容はともかく分量だけはクラスで一番だった。書いてみて子供心に親の有り難みが判った。学校に提出したところまでは覚えているが、返して貰った記憶がない。

お察しの通り、今こうしてブログを書きまくっている妙な遺伝子は既に当時も活動していたということだ。

このブログは唯一にして絶対のテーマ「ブラームス」を、いじくり回すというコンセプトだ。提出期限の無い「卒論」で、既に事実上「人生の卒論」の様相を呈し始めている。

2017年11月15日 (水)

イタリアのいないワールドカップ

14日早朝、イタリアはロシアワールドカッププレーオフセカンドレグを戦い、ホームでスウェーデンと痛恨の引き分け。

これにより60年ぶりのワールドカップ本大会不出場が決まった。いやはや60年ぶりだ。

イタリアはいつもドイツの好敵手。ドイツは前評判のいいときにもイタリアには分が悪いので、イタリア不在はドイツにとっては吉報なのだが、なぜかよろこべない。心にぽっかりと穴があいた感じがする。

2017年11月14日 (火)

青木周蔵邸

次女の卒業旅行で興味深いところに立ち寄った。明治の外交官青木周蔵の別邸跡だ。屋敷が保存されその周辺もろともが道の駅になっている。

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説明はこちらに任せるが、重要なのは青木周蔵が明治きっての親独派だということだ。ビスマルクを育んだプロイセン特有の荘園貴族「ユンカー」に憧れ、そのままそれを日本で実現した。

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娘たちの関心はけして高くないが、私の趣味で無理やり立ち寄った。館内には古いベヒシュタインのグランドピアノがあったり、何かと退屈しない。



2017年11月13日 (月)

卒業旅行

卒論の執筆に着手した段階ではあるのだが、次女の卒業記念旅行に出かけた。長女、母と私の4人で日光と那須の1泊温泉旅行だ。

まずは日光中禅寺湖。ご覧の通りの好天。

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日光杉並木。

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本日のお宿。

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そして露天風呂。

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末っ子である次女の卒業は、我が家の子育ての一区切りだ。亡き妻に代わって子育てに全霊で打ち込んだ母に対する慰労でもある。母が元気なうちにというのが重要なポイントだ。本当は娘たち2人と母の女子3人旅が理想だが、私は運転手とカメラマンと添乗員に徹する位置付けで同行が許可された感じである。



2017年11月12日 (日)

卒論二万字

次女が卒論の執筆に着手したらしい。提出は年明けなのだが、卒業に必須とあって何かと慎重に進めているようだ。

我が家は大卒3名がそろうが、カリキュラムの関係で私まで含めても卒論執筆の経験者がいない。家族の誰からも助言をされないが、長期ビジョンがあるようで安心した。

執筆はもちろんワープロだ。文字数は20000字が最低限らしい。2万字といってもピンとこない。「原稿用紙50枚」と言い換えねば切迫感が出ない。

2017年11月11日 (土)

ソート

目的に応じた順番に並べ替えることくらいの意味か。複写機の主たる機能になっている他、データ管理上の重要なアクションである。

「ブラームスの辞書」執筆の基礎になったブラダスは、22000行を超えるエクセルデータだ。ブラームス作品の楽譜上に存在する楽語1個をエクセル1行に割り付けた代物だ。これが無かったら「ブラームスの辞書」は執筆出来なかったと断言出来る。本日のお題「ソート」は、私がもっとも利用したエクセルの機能である。

たとえば大好きな弦楽六重奏曲第1番の冒頭チェロには「poco f espressivo」が出てくる。しかしop18の第一楽章の1小節目に「poco f espressivo」と入力するだけではつまらない。

どのパートに出るのか、調は何か、拍子はいくつか、作曲年は、出版社はどこか、曲のジャンルは、というような情報を同時に入力しておくのだ。こうしておくとそれらの基準をキーにソートすることが可能になる。「poco f espressivo」を持つログを抽出し、それを作曲年でソートすれば、作曲年代毎の濃淡が判明する。特定の調性との相関を見るには「調性」でソートすればいい。附属する情報が多いほど、後々の楽しみが増えるのだ。けれども22000行ともなると、後からキーになる情報を付加するのは大変だ。最初に全楽譜を当たる前に、キー項目を確定させていることが大切だ。

つまりこれは「将来、自分が何を基準にソートしたいか」をあらかじめ読む作業に他ならない。出現の位置の他にキーとして採用したのは以下の通りである。

  1. 作品ジャンル
  2. 作品番号
  3. 作曲年
  4. 編成
  5. 出版社
  6. 楽曲冒頭の調性
  7. パート
  8. 拍子

客観的に確定することが可能な情報は全て取り上げておいたつもりだ。

何をするにもリスト化だ。そしてその肝はソートにある

2017年11月10日 (金)

サマリーの誘惑

今からもう軽く10年以上も前の話になる。2004年の夏。私は「ブラームスの辞書」の構想を温めていた。「ブラームスの使用した音楽用語の注釈書」というコンセプトだけは揺るぎのないものだったが、まだまだ実現にはほど遠い状態だった。6月19日に始めたブラダス入力の最中だったのだ。先の長さを思うと気が遠くなるという段階だった。

お決まりの予算の問題もあって、しきりに襲いかかるある誘惑と戦っていた。

ブラームスが用いた全音楽用語の列挙をしないで、気になる語句だけを集めたサマリー版でお茶を濁すというものだった。ページ数が少なくなるだけ経費も低く抑えることが出来ることが表向きの理由だったが、本当はブラダス入力の膨大さに辟易としていたというのが正直な話だ。ブラダス入力の後に続く本文執筆に早く取りかかりたくてブラダス入力を終わらせたいというのが偽らざる本音だった。

「気になる語句」を集めるというコンセプトはお手軽な反面、副作用も予見できた。当時の私の知識と興味の分布から見て、記述が器楽寄りに偏るのは明らかだった。器楽寄りに偏った内容では、説得力が半減するのではないかという危惧があった。

結論から申せば私は、この誘惑に勝った。最後までサマリー版に踏み出す決意をさせなかったのは、器楽への偏りを回避したいという思いだった。結果として「ブラームスの辞書」の見出し語は約1170。気に入るも入らぬもなく全て列挙した。個々の項目の記述には当然濃淡があるが、見出しとしての取捨に手心は加えていない。

声楽・歌曲への興味は、執筆の過程でついてきた。お気に入りだけを取り上げていたら、器楽偏重の体質はそのまま保存され続けたことだろう。

2017年11月 9日 (木)

大政奉還

現代日本の経済誌では、ある企業が創業者一族を社長にいただく方向に転換したとき「大政奉還」などと比喩されることがある。受験生必修の「大政奉還」は慶應3年10月14日、15代将軍慶喜が、政権の返上を申し入れ翌15日に明治天皇がこれを受諾した事件を指す。鎌倉時代から続いた長い長い武士の支配を終わらせる出来事だ。

慶應3年10月14日は旧暦だ。新暦に直すと1867年11月9日に相当する。本日はつまり大政奉還150周年の記念日である。

2017年11月 8日 (水)

音の無い音楽

趣味はと問われれば迷わず「音楽」と答える状況がもう40年以上続いている。ジャンルはと問われれば、「クラシック」と即答する。実はけして問われる事はないが、それがさらに3つに分かれている。「音楽を聴くこと」「楽器を弾くこと」「音楽を考えること」である。これに「作曲すること」と「歌うこと」が加われば完璧なのだが、そちらは諦めている。

このうちの3つ目「音楽を考えること」は、私にとっては立派な音楽になっている。本日のお題「音の無い音楽」だ。厳密な話をすると頭の中で音は鳴っている。この3つが互いに補い合いながらクルクルと回っているのが私の音楽だ。どれが欠けてもいけない。

そしてそして何を隠そう「音楽を考えること」をもう一歩進めた言い方にすると「考えを深めること」にたどり着く。ひいてはそれが「音楽の聴き方」「楽器の弾き方」に影響を及ぼす。

「ブログを書くこと」は「音楽を考えること」の一環になっている。浮かび上がった考えを整理し、検証し裏付けを取るという重要な役割を担っている。

バカにしていはいけない。この3番目の音楽はきっと、身体が動かなくなっても、耳が遠くなっても、最後まで残る音楽だ。ブラームスは頭の中で鳴ることをやめないだろう。

2017年11月 7日 (火)

ブラームス観

「~観」という言葉群がある。「結婚観」「人生観」「価値観」「男性観」「女性観」「恋愛観」「音楽観」などなど挙げればきりがない。「~に入る単語についての個人の考え」くらいなぬるい定義しか思い浮かばない。

人間の個性とはつまりそれらの「~観」の堆積なのだろうと思う。

ブログ「ブラームスの辞書」は私のブラームス観の反映である。著書「ブラームスの辞書」と補完しあって私の脳味噌に去来するブラームスへの考えを保存することが目的の一つである。「私はブラームスをこう思っています」「私はブラームスをこう感じています」を順次言葉に変換しているというわけだ。私のブラームス観を写す鏡がブログや著書だ。

あくまで主体は私の脳味噌なのだが、最近少し異変も感じている。鏡であるはずのブログが本体に影響を与えていると実感する。ブログ記事を書くこと、あるいは過去の記事を読むことがブラームス観に影響を与えている。著書やブログが無かったら、ブラームスへの考えをここまで深めることは無かったと断言出来る。

著書やブログで言及し尽くしてしまう心配はいらない。書けば書くほど次々と新しい一面が姿を現す。

そういう意味では私のブラームス観はまだ未完成である。

2017年11月 6日 (月)

第2ヴァイオリンの出番

ブラームスの作品の中で第2ヴァイオリンが登場する作品を列挙する。

  1. 管弦楽のためのセレナーデ第1番op11
  2. ピアノ協奏曲第1番op15
  3. 弦楽六重奏曲第1番op18
  4. ピアノ五重奏曲op34
  5. 弦楽六重奏曲第2番op36
  6. ドイツレクイエムop45
  7. カンタータ「リナルド」op50
  8. 弦楽四重奏曲第1番op51-1
  9. 弦楽四重奏曲第2番op51-2
  10. アルトラプソディop53
  11. 運命の歌op54
  12. 勝利の歌op55
  13. ハイドンの主題による変奏曲op56a
  14. 弦楽四重奏曲第3番op67
  15. 交響曲第1番op68
  16. 交響曲第2番op73
  17. ヴァイオリン協奏曲op77
  18. 大学祝典序曲op80
  19. 悲劇的序曲op81
  20. ネーニエop82
  21. ピアノ協奏曲第2番op83
  22. 弦楽五重奏曲第1番op88
  23. 運命の女神の歌op89
  24. 交響曲第3番op90
  25. 交響曲第4番op98
  26. ヴァイオリンとチェロのための協奏曲op102
  27. 弦楽五重奏曲第2番op111
  28. クラリネット五重奏曲op115

いやはや、セカンドヴァイオリンの出番は多いのだ。

ヴィオラのおいしい出番はいくらでも思い付くのに、第2ヴァイオリンのおいしい出番はなかなか思いつかない。この点を克服すると記事がもう少し書けると思う。

2017年11月 5日 (日)

分かち書き

「ブラームスの辞書」執筆の前段階で実行したデータベース化の作業の中で、悩ましい問題があった。

楽譜をご想像願いたい。段の一番右端の小節のそのまた最後の拍から弱起で旋律が始まるとしよう。ブラームスがその旋律を「poco f espressivo」と位置付けたいとすれば、旋律の始まる音符の下に「poco f espressivo」と書くに違いない。手書き譜面ではそれで良いが、これが印刷に回ると厄介だ。弱起で始まるからその小節には音符が1個しかない。律儀に「poco f espressivo」と書くとその段の右端を形成する小節線より右に出てしまう。

これは美しくないから何らかの手を打つ。概ね以下の如くだ。

  1. 「poco f」までをその段に書き、「espressivo」を次段冒頭に書く。
  2. 「poco f」と「espressivo」を上下に重ねて書き、その段で収まるようにする。
  3. 「poco f」を五線の上側に書き、「espressivo」を五線の下側に書く。
  4. 「poco f」を「pf」と略し、「espressivo」を「espr」と略してその段に収める。
  5. フォントを小さくして無理やり収める。
  6. 弱起の最初の音符は無視し、次段の冒頭に「poco f espressivo」と書く。

ブラームスの楽譜にしばしば現われて軽い混乱を引き起こす「pf」の発生原因は、意外と4番かもしれないが、楽譜の見てくれとして美しくない。

5番のフォントの縮小は、小さくしすぎて見えなくならない限りとても有効だと思うが何故か採用されにくい。

1番から3番のケースが、本日お題「分かち書き」となる。

この実例に遭遇した場合、「poco f」と「espressivo」にそれぞれ1票とカウントするのか、やはり「poco f espressivo」とカウントするのかが大変悩ましくて厄介だということだ。「ブラームスの辞書」ではそのケース毎に私の基準で判断しているが、完璧ではない。記述のブレの大きな原因になっている。先の実例にあげた改段箇所以外にもこの手の分かち書きが疑われるケースは多い。出版社または校訂者の癖である可能性が高く取り扱いが難しい。

このように考えを進めて来ると、上記の6番が意外と優秀な対応だという気がしてくる。実際の楽譜上にもこうしたパターンは少なくない。これを見つけると嬉しくて一人でニヤニヤしたこともある。それは私自身分かち書きが好きではないからに違いない。

もしも貴方が「ブラームスの辞書」を引いて、目的の単語が載っていないと感じたら、もう一度その楽譜を見て周辺を確認することをお勧めする。分かち書きが起きていてる可能性があるからだ。

2017年11月 4日 (土)

C音連打

断り無くいきなり「C音連打」などど申せば、第一交響曲の冒頭を思い出す人は多いだろう。ましてや本日11月4日は第一交響曲の初演記念日でもある。

ところがもうひとつささやかだが印象的な「C音連打」がある。

交響曲第2番第3楽章だ。中間部「Presto ma non assai」の中ほど、51小節目、第3楽章ではじめて「フォルテ」が出現する場所でもある。ここから10小節間ホルンとコントラバスが20個の四分音符を羅列する。すべて「C音」だ。第1交響曲の冒頭に比べればささやかなもので一瞬の出来事ではあるのだが、まことに印象深い。さらにそのあと71小節目からの10小節でも、「C音連打」がおぼろげに仄めかされる。

先の記事「もしかしてC」で、4つの交響曲の中で、第二交響曲にだけ「C」を主音にする楽章が存在せずに、残念だという趣旨の話をしたが、この「C音連打」はそれを補うような感じである。

2017年11月 3日 (金)

もしかしてC

昨日の記事「Dという根幹」で、ブラームスの4つの協奏曲には「D」を主音とする楽章が必ず一つは含まれると書いた。同じ事を交響曲で考えるとどうなるかというのが本日の話題だ。

全ての交響曲で顔を出す調は無い。惜しいのが「C」だ。第2交響曲以外の3曲で全て顔を出す。1番は両端楽章でキッチリ現れる。3番は第2楽章がハ長調で、第3楽章がハ短調である。第4番は第3楽章がハ長調になっている。「C」系と「D」系があるような気がする。もちろん協奏曲は「D」系だ。

大学祝典序曲はハ短調だから「C」系だなどと笑っている場合ではなかった。それと好一対をなす悲劇的序曲はニ短調つまり「D」系だった。

2017年11月 2日 (木)

Dという根幹

ブラームスが残した協奏曲は全部で4つだ。

  1. ピアノ協奏曲第1番ニ短調op15 ニ短調ニ長調ニ短調
  2. ヴァイオリン協奏曲ニ長調op77 ニ長調→ヘ長調→ニ長調
  3. ピアノ協奏曲第2番変ロ長調op83 変ロ長調→ニ短調→変ロ長調→変ロ長調
  4. ヴァイオリンとチェロのための協奏曲イ短調op102 イ短調→ニ長調→イ短調

見ての通り、4つの協奏曲全てに「D」を主音とする楽章がある。「D」を主音とする最初の2つは、当たり前の話だが、後の2つにニ短調とニ長調が現れるのは、一段と有り難みが増す。

おそらく偶然なのだと思う。けれどもこういう偶然を、ひるまずに記事にして行かないと2033年までは持たない。

2017年11月 1日 (水)

企画日照り

お気づきの諸賢は多いだろう。

今年8月18日にミニ企画「ティンパニ特集」を終えてから今日までおよそ2か月少々の間、特集を展開しなかった。記事を途切れさせることこそなかったものの、一定のテーマに沿った関連記事を連続して公開するという意味の企画がなかった。意図的にブログ運営的な記事を集中させていたが、企画物とまでは言えない。

長いこの空白は「充電期間」または「弾込め期間」とでも位置付けられるのがふさわしい。備蓄記事から、毎日1本を公開することで、記事の連続更新を維持しながら、裏側では必死に2018年の特集を準備していた。

今、2016年秋に着手した準備は総仕上げの段階にきている。年間のカレンダーとにらめっこしながら準備した記事をふさわしい日に張り付ける作業。あちら立てればこちらが立たずの場面もあり、もはやパズルの様相だ。突発の旬ネタが発生した場合に備えて、定期的に予備日をさしはさむことも忘れない。

いやはや楽しい。

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    はじめての自費出版作品「ブラームスの辞書」の姿を公開します。 カバーも表紙もブラウン基調にしました。 A5判、上製本、400ページの厚みをご覧ください。
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