音楽の本場
ここで申す音楽とは、いわゆる「西欧クラシック音楽」のことだ。「西欧」と冠されてはいるのだが、今や世界的な広がりをもっていること周知の通りである。大航海時代には、スペイン、ポルトガル。オランダ、英国、フランスが続き、やがてドイツもこれに追随した。第一次大戦後アメリカの台頭までの間、欧州が世界の覇権を握っていた関係で、クラシック音楽も世界に拡散した。
しからばその「西欧クラシック音楽」の本場はと問われれば、ズバリイタリアという答えにたどりつく。イタリア地方の民族音楽が世界を席巻したと思っていい。キーワードは教会とオペラだ。やがて同地方の民族的な弦楽器だったヴァイオリン族がその優秀な表現力と合奏効果によって器楽までも台頭する。
対ナポレオンによって民族主義に目覚めた西欧各国、とりわけ植民地支配に乗り遅れたドイツは、自己のアイデンティティ確立のために、各方面で画策に走る。本場イタリアから見ればドイツ地方の国民楽派に過ぎないドイツ音楽が、西欧クラシックの総本山であるかの印象操作が急速にひろまった。音楽室の肖像画にドイツ語の話し手が多いのはそのせいた。
ウィーンを「音楽の都」と解するのはドイツ語圏の都合だ。「音楽の都」という文言の前に「ドイツ語圏の」という形容が無意識に、あるいは半ば意図的に脱落したと解したい。そのウィーンでさえ、モーツアルトやサリエリの時代まで音楽上の要職はイタリア人が独占していたし、オペラと言えば「イタリア語」が常識だった。何よりも何よりも、楽譜上に記される用語はイタリア語ではないか。
オペラで拮抗することをあきらめたドイツ人は歌曲に走る。ドイツリートだ。そして器楽ではソナタだ。ソナタ形式を至上の形式の座に祭り上げる。あらゆるジャンルの合奏にソナタ形式をばらまいた。モーツアルト、ハイドン、ベートーヴェンの才能がこの流れを後押ししたことご承知の通りだ。
その流れの終点にブラームスがいる。ソナタ形式最後の使い手であるブラームスが、イタリア音楽、とりわけオペラに関心をもっていたことや、ルネサンス以降の古いイタリアの楽譜の熱心な収集家だったことは象徴的だ。彼は音楽の本場はイタリアだと知っていた。だから楽譜上の用語はイタリア語にこだわった。
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