復活の回避
ドイツレクイエムの初演を準備する過程で、指揮者ラインターラーと意見の相違が生じたとされている。
ドイツレクイエムの主張する宗教観、つまりブラームスの宗教観とラインターラーの宗教観との相違に起因するものだ。一つは「最後の審判」への顧慮がないことだ。
今一つが本日の話題だ。ブラームスは「テキストの選択にあたり復活の部分を注意深く回避した」と言っている。復活を信じているなら、注意深く回避する必要はあるまいと思う。申すまでもなく「復活」を信じることがキリスト教信仰の基礎の基礎だ。ブラームスのこの見解が、「復活を信じない」ことの表明だとするなら一大事である。死者のためのミサなのに復活を信じていないということだ。ブラームスを慕うドヴォルザークは、唯一ブラームスの不信心ぶりを嘆いているくらいだから、荒唐無稽でもなさそうだ。
内心はどうあれ、初演前の大事な時期にわざわざ言及しなくてよさそうなものだ。微妙な問題に進んで首をつっこむのは得策ではなかろう。そうせざるを得なかった深い議論がラインターラーと交わされたということだ。
このあたりが、「死者のため」ではなく「死によって残された者のため」であるという位置づけの根拠だ。
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