支持基盤
1863年5月1日、故郷で休暇を過ごすブラームスの元に、ウィーンから便りが届いた。ウィーンジンクアカデミーの音楽監督就任のオファーだ。前年秋にウィーン進出を果たしたとは言え、定住までは考えていないという微妙な時期だったが、熟考の末これを受諾した。
ジンクアカデミー側にも微妙な空気が充満していた。ブラームスの招聘は39対38で際どく可決された案件だった。ブラームスの支持基盤は万全ではなかったということだ。
11月15日の初コンサートはバッハのカンタータ21番を取り上げ歴史的名演としたほか、クラリスマスオラトリオのウィーン初演も成し遂げたが、バッハ偏重のプログラミングには、水面下でブーイングもあったという。
翌1864年4月までのシーズンを終え、契約の延長の段になると、前年の1票差とは打って変わって、満場一致でブラームスの再任が可決されたが、今度はブラームスの側が契約の延長に同意しなかった。音楽以外のもろもろに嫌気が差したと解されている。
支持基盤の弱い指導者の座は、居心地が悪いということだ。丸3年は続いたハンブルク女声合唱団とは対照的だ。
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