立場の違い
畏れ多くもバッハの「シャコンヌ」を不完全とみなして、「完全にしてあげましょう」と手を差し伸べるというのが、バッハ復興が進んだ19世紀後半の主流だった。残された証拠を見る限り、メンデルスゾーン、シューマンも同じ立場。シュピッタをはじめとする研究家たちの姿勢も変わりはない。ほとんどの人たちが「バッハの着想を無伴奏ヴァイオリン1本で再現するのは無理だから、よりそれを明らかにするための編曲」である。素晴らしいシャコンヌをみんなに示したいとか、「私ならやれる」という類の編曲者自身の自負の反映でもある。
わずかにヨアヒムとブラームスだけが別の意見を持っていた。無伴奏であることにこそ積極的な意味があるとする立場だ。
とりわけブラームスはよりパーソナルだ。シャコンヌの完全性を微塵も疑っていない。しかしながらそれを大衆に伝えたいとも思っていない。見ているのはクララと自分だけだ。優れたヴァイオリニストが弾いてくれないときの代替であり、自らがヴァイオリンを弾いているという気分になることが第一義になっている。クララのケガはきっかけに過ぎまい。だから単にオクターブ下げただけという代物ながら立派に編曲の位置づけにある。自分が満足できるシャコンヌをピアノで再現したいという欲求だ。
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