ブラームスのシャコンヌ観
「左手のためのシャコンヌ」をクララに贈ったとき、ブラームスが添えた手紙に現れる「シャコンヌへの思い」をもう一度以下に示す。
「シャコンヌは私にとって、最も美しく、かけがえのない作品の一つです。もし、この曲を聴くために、最高の技術と音楽性を持つヴァイオリン奏者をつかまえられないのなら、最も大きな楽しみは、きっとそれを心の中で聴くことでしょうね。オーケストラを使っても、ピアノにしても、私(ブラームス)がどんな方法で試みようとも、自分の喜びは台無しになります。ところが、もちろん格は落ちるものの、満足を得られる-とても純粋な喜びをこの作品から手に入れることを可能にするたった一つの方法があることに気付いたのです。それは、私がこの曲を左手だけで弾くことです。このことはコロンブスの卵の逸話を思い出させます。テクニックの種類、アルペジオなどのすべてが同様の問題となる、つまり私自身がヴァイオリン奏者になったように感じさせてくれるのです」
- テクと音楽性を併せ持ったヴァイオリニストが弾かないと台無しだ。
- もしそうしたヴァイオリニストがいないなら頭の中で鳴らすのがいい。
- ブラームス自身がオケに編曲しようともピアノで再現を試みようとも原曲がもたらしてくれるほどの喜びは得られない。
- 原曲には劣るものの、よい方法を思いついた。
- それは左手だけで弾いてみることだ。
- 思いついてみれはおさまりの良い方法だ。
- まるでヴァイオリン奏者になったような気分になれる。
シュレーダー先生のことだ。これくらいのことはブラームスの手紙から簡単に読み取ったことだろう。この点に同意が出来ないという立場なら、これをそのまま引用するはずがない。だからブラームス本人に語らせることで自らは沈黙したのだ。
バッハの精神を反映するという意味で、単に音をオクターブ下げただけのブラームスが高く評価されているということに他ならない。
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