10月という区切り
弱冠20歳のブラームスとロベルト・シューマンの初対面は1853年10月だった。1895年10月には、クララとの最後の面会があった。ブラームスの生涯について調べていると、もう一つ1856年10月というポイントが浮かび上がる。
1856年7月29日のロベルト・シューマン没から3ヶ月後だ。このタイミングでブラームスはデュッセルドルフ滞在を打ち切って、ハンブルクに戻っている。1854年2月27日シューマンの投身以来続いた献身が終わったのだ。約2年半だった。20歳だったブラームスは23歳になっていた。この間作品の出版が止まっていたことは周知の通りである。シューマン夫妻の四女オイゲニーは、ブラームスが突然去ったと証言している。
芸術家としての成長と、シューマン一家への献身が両立しないことは、ブラームスもクララも良く知っていたのだと思う。しかし幼い子供たちから見れば、留守がちな母クララに代わって世話を焼いてくれたブラームスが、突然居なくなることを寂しいと感じたとしても無理はない。ブラームスはある意味心を鬼にして、敢えてキッパリと立ち去ったと感じる。
もちろん一家との交流は生涯続くが、そこはけじめ・踏ん切りである。思えば1853年からの4年間は波瀾万丈だ。
- ヨアヒムとの出会い。
- リストとの出会い。
- シューマン家訪問。
- シューマンのアシストによる楽壇デビュー。
- シューマンの投身。
- シューマン一家への献身。
- シューマンの他界。
デュッセルドルフからの引き上げはこれら一連の出来事の幕引きだ。歳の頃ならまさに大学生に相当する多感な時期だ。下手な学生生活など及ぶべくもない濃厚な4年間を経験したブラームスの卒業と位置づけたい。
この経験がこれ以降の作品に反映したなどという安易なオチは慎むべきだが、1856年10月だけは、いつも記憶にとどめておきたい。
« エンデニヒの患者 | トップページ | 地図ウォッチャー »
コメント