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2019年10月31日 (木)

10月という区切り

弱冠20歳のブラームスとロベルト・シューマンの初対面は1853年10月だった。1895年10月には、クララとの最後の面会があった。ブラームスの生涯について調べていると、もう一つ1856年10月というポイントが浮かび上がる。

1856年7月29日のロベルト・シューマン没から3ヶ月後だ。このタイミングでブラームスはデュッセルドルフ滞在を打ち切って、ハンブルクに戻っている。1854年2月27日シューマンの投身以来続いた献身が終わったのだ。約2年半だった。20歳だったブラームスは23歳になっていた。この間作品の出版が止まっていたことは周知の通りである。シューマン夫妻の四女オイゲニーは、ブラームスが突然去ったと証言している。

芸術家としての成長と、シューマン一家への献身が両立しないことは、ブラームスもクララも良く知っていたのだと思う。しかし幼い子供たちから見れば、留守がちな母クララに代わって世話を焼いてくれたブラームスが、突然居なくなることを寂しいと感じたとしても無理はない。ブラームスはある意味心を鬼にして、敢えてキッパリと立ち去ったと感じる。

もちろん一家との交流は生涯続くが、そこはけじめ・踏ん切りである。思えば1853年からの4年間は波瀾万丈だ。

  • ヨアヒムとの出会い。
  • リストとの出会い。
  • シューマン家訪問。
  • シューマンのアシストによる楽壇デビュー。
  • シューマンの投身。
  • シューマン一家への献身。
  • シューマンの他界。

デュッセルドルフからの引き上げはこれら一連の出来事の幕引きだ。歳の頃ならまさに大学生に相当する多感な時期だ。下手な学生生活など及ぶべくもない濃厚な4年間を経験したブラームスの卒業と位置づけたい。

 

この経験がこれ以降の作品に反映したなどという安易なオチは慎むべきだが、1856年10月だけは、いつも記憶にとどめておきたい。

 

 

 

 

 

 

2019年10月30日 (水)

エンデニヒの患者

シューマンが収容されたエンデニヒの療養所には1818年の創設から1934年の閉鎖まで、入院患者の詳細な記録が残っている。シューマン研究上のお宝であるのだが、そこには「ボンのジムロック」という人物が含まれている。

ブラームスの親友にして大出版社の経営者フリッツ・ジムロックはボンの出身だ。ブラームスやドヴォルザークの伝記を読む限り精神疾患の兆候は見られない。ジムロック社の創業者はフリッツの祖父ニコラウスで、創業の地はボン。フリッツその人がベルリンへ移転を挙行した。

「ボンのジムロック」という表現はフリッツの父か祖父を指していると解したい。

2019年10月29日 (火)

入院費

ロベルト・シューマンは1854年2月27日にライン川に投身したが、一命を取り留めた。その後直ちにエンデニヒの病院に入院した。正確には3月4日のことだ。このときから1856年7月29日になくなるまでずっと入院生活を送った。

この病院はいわゆる私立の病院だ。費用はどれほどだったのか調べていたがこのほど判明した。音楽之友社から1987年に刊行された「クララ・シューマン」(ナンシー・B・ライク著)という本の277ページに書かれていた。月額50ターラーだ。マルクに直すと150マルクだ。下級労働者年収が1000マルクの時代である。

ロベルトの入院後、初のシーズンからクララが大車輪で演奏会をこなした理由の一つになっていたと感じる。

2019年10月28日 (月)

159番

いかにも唐突なタイトル。バッハのカンタータだとしてもメジャーではない。

エンデニヒ病院に収容されたロベルト・シューマンに与えられた患者番号だ。おそらくカルテ整理のために発番された通し番号だと思われる。

2019年10月27日 (日)

四十九日法要

昨日、義父の四十九日法要があった。台風一過の秋晴れの中、納骨まで粛々と滞りなくすませた。

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台風15号襲来の9月9日に亡くなった義父。一昨日は21号の大雨に見舞われたから、四十九日までの間に7つの台風が発生していたことになる。週に1個ずつというハイペースだが我が家の周辺は大した被害もなかった。納骨前の義父が守ってくれたに違いない。

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2019年10月26日 (土)

エンデニヒの見舞客

1854年2月27日ライン川に投身したロベルト・シューマンは、一命を取り留めたものの、3月4日にはボン郊外エンデニヒにあった療養所に収容される。精神科医フランツ・リヒャルツ博士が1818年に開設した療養所で、当時としては最先端を行く施設だった。夫人であるクララはリヒャルツ博士の方針で面会を認められなかったため、ブラームスが見舞いを買って出る。

  1. 1854年3月31日
  2. 1854年8月13日
  3. 1855年1月12日
  4. 1855年2月23日
  5. 1856年4月10日 地名を熱心に羅列しているのを目撃。
  6. 1856年6月08日 シューマン生前最後の誕生日。大判の地図を贈る。
  7. 1856年7月23日 このまま臨終まで滞在。埋葬は31日。

以上7回。おそらく最多の見舞い回数。そのたびにクララに様子を報告している。

2019年10月25日 (金)

文末決定性

言語としての日本語の特徴を説明する際に頻繁に用いられる言葉だ。言葉の意味の確定が文章の末尾に持ち越されることだ。「肯定なのか否定なのか、はたまた推量なのか」あるいは「疑問なのか」「現在なのか未来なのか、過去なのか」が最後までわからないということだ。このことが特徴になるのだから、他言語には無いということだ。

もちろん英語は違う。

「I know him」だ。日本人には「私知ってる彼」という風に見えてしまう。主語の後にまっさきに述語が添えられて「どうしたのか」が確定するのだ。善し悪しの問題ではないが、日本語から英語への同時通訳は大変だと思う。全体の文脈、話し手の言葉の勢いなど文章だけではなく空気までも読むことが求められてしまう。

さて、ロベルト・シューマンからクララに発せられた最後の言葉は「Ich kenne」だと伝えられている。英語で申せば「I know」だ。「Kenne」の後は、発せられていないのか、聞き取れないほどの小声だったのか判らぬが伝わっていない。

つまり主語と述語しか伝えられていないのだ。シューマンが何かを知っていたことは確実ながら「何」を知っていると言いたかったのかが判らないのだ。もし文末決定性の日本語なら「何」について先に語られたに違いない。けれども、「何」が示されたとしても、今度は肯定か否定かが曖昧になる。「知っていた」のか「知りたい」なのか「知りたくない」なのか、判らないということだ。

この不明瞭さが、古来さまざまな憶測を呼んできた。

2019年10月24日 (木)

バーター取引

交換条件とでも申してよいのだろうか。加えて「金銭の授受」を介さぬ取引という意味も含んでいると思われる。

ブラームスがまだ駆け出しの作曲家だった頃、出版はされたもののなかなか演奏機会に恵まれない時期もあった。1860年代前半つまりドイツレクイエム初演以前だ。当時は楽壇での知名度影響力の面では、クララの方が圧倒的に上だった。夫ロベルトの作品普及に注いだのと同様の熱意で、ブラームス作品をアピールしたのがクララだった。

1860年、クララはウィーンでチャリティー演奏会への出演を依頼された。これに同意したクララは一つ条件を持ち出す。ブラームスの「管弦楽のためのセレナーデ第1番」ニ長調op11が演奏されることを求めたのだ。クララは、こうした条件提示がブラームス本人に漏れないよう、関係者に口止めすることも忘れていなかった。この手の援助をブラームスがあまり好まないことをよく知っていたからだ。一方で、どんなに仲間内で高く評価されても、それが大衆の面前で演奏されなければ意味が無いことも、肌で感じていたクララだった。

つまりこれがクララのバーター取引だ。

後年、1870年頃ハンブルクフィルハーモニー協会の監督が、またしてもブラームスを素通りした折、抗議の意味でハンブルクでのコンサートをキャンセルしたこともあったという。

2019年10月23日 (水)

シューマン家の音楽会

ご機嫌なCD。シューマンの声楽アンサンブルのCDを探査していて発見。原題は「Hausmusik zu Gast bei Clara und Robert Schumann」という。シューマン家の音楽会程度の意味。ツヴィッカウのシューマンコンクールをキッカケに頭角を現した彼らにピッタリの意図。以前にも言及したCalmus ensembleのアルバム。思うだに意欲的。ドイツ伝統のホームコンサートの再現を意図したことは明らかで、さらにその舞台をシューマン家に設定している。シューマン夫妻の作品が主体なのだが、それ以外に2人の作曲家の作品が加えられている。一人はバッハ。「アンナマグダレーナの音楽帳」からクラヴィーア伴奏付きのコラールやアリアが6曲。この作品自体妻アンナを含めた家族での演奏を意図したものだから、アルバムの主旨にピタリと収まる。

5番目に収められた「野ばら」は特筆ものだ。今のところ最高の演奏だ。それからラストに定番の「流浪の民」。声楽アンサンブル版で、輪郭くっきり。「魔王」が聞きたくなる。

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そしてそしてもう一人がブラームスだ。ブラームスは1853年デュッセルドルフでの初訪問以降、夫妻はもとより子供たちからも暖かく受け入れられてきた。シューマン家でのコンサートでブラームス作品が演奏されたとしてなんら違和感はない。収録作品は以下の通り。

  1. O susser Mai op93
  2. Fahr wohl op93
  3. Waldesnacht op62

見ての通り全てロベルト没後の作品。つまりこのホームコンサートにはロベルト本人は立ち会えないなどという屁理屈は邪魔なだけだ。何より上記2の「Fahrwohl」は、1897年4月6日ブラームス本人の葬儀の際に楽友協会で演奏されたいわくつきの作品。本CDのプロデューサーがどこまで知っているのか不明ながら看過できない。

シューマン本人の作品は合唱または重唱の作品ばかり。「流浪の民」や「野ばら」などを中心に、品のいい作品が手際よくまとめられている。クララの作品はアルバム中唯一のピアノ独奏作品だが、収録に用いられたピアノが1848年プレイエル社製造の貴重品。鳴り方が現代のコンサートピアノとは明らかに違う。カドの取れた響き。考えたら当たり前でホームコンサートなのだから、シューマン家といえどもスタインウェイのグランドピアノでは具合が悪かろう。

そしてもちろんクララの作品もある。「3つのロマンス」op21から1番イ短調だ。

2019年10月22日 (火)

蔵書整理

1854年3月ブラームスは、シューマン投身の知らせを聞いてデュッセルドルフに急行する。シューマンは程なくエンデニヒの病院に収容された。この後1856年10月まで男手の無くなったシューマン一家に献身することになる。この前後に作品発表の空白が出来ていること周知の通りである。

家事を手伝うブラームスは、その一方でシューマン家の膨大な蔵書整理を買って出た。ロベルトはまだ存命だから遺産整理ではあり得ない。ロベルトが収集した書物や楽譜を自由に見てよろしいという許可と引き換えに自ら申し出たのだろう。

ブラームスはかなりな読書好きだったのだ。実家が貧しかったこともあって、蔵書と呼びうるようなまとまった量の書物は持っていなかったから、むさぼるように書物と向き合ったのだ。

これを見ていたクララは、その後次第に折を見てブラームスに書物を贈るようになる。

 

 

2019年10月21日 (月)

低地ライン音楽祭

ブラームスの伝記にしばしば現れる。1818年にロベルト・シューマンらによって創設された。「低地」とは「Nieder」だ。デュッセルドルフを含むルール地方はドイツの中ではライン川の最下流域に属する。

当時ドイツ国内における音楽活動の中心は、ライプチヒ、ベルリンあるいはミュンヘンだったから低地ライン地方での音楽活動を盛り上げる目的で作られた。デュッセルドルフの他、アーヘンやケルンなどの持ち回りで開催されていた。5月の聖霊降臨祭を含む期間が会期となる。

ジムロックとの出会いも実は低地ライン音楽祭だった。

2019年10月20日 (日)

クララのチェック

ブラームスは新しい作品が出来上がると、出版前にクララ・シューマンに意見を求める習慣があった。最早それは出版に先立つ儀式と化していた。クララの選球眼をよっぽど信頼していたのだろう。ブラームスの作品リストには、当代屈指のピアニストにして、ロベルト・シューマン未亡人のお墨付き作品だけが並ぶことになった。

ブラームスが、これでもかと投げ込みクララ・シューマンがストライクと判定した作品だけが並ぶということがどういうことなのかを説明することは野暮である。むしろ興味深いのは、ストライクのリストではなくて、ボールと判定されて廃棄された側かもしれない。それらはもちろんリストになんかなっていない。投げた瞬間ボールとわかる球もあれば、きわどく外れた球もあるだろうが、言い訳せずに廃棄だ。愛好家としてはブラームスのボール球になら、デッドボールも痛くない。

ブラームス諸作品について優秀な審判員振りを発揮したクララは、愛するロベルト・シューマンの作品においても、同様だった。クララがロベルトの作品にあれこれと意見を述べたというより、作品が出来上がるソバから草稿を見て次から次へとピアノで弾いて見せたという。クララが現実に音を出すのを聴いて、ロベルトが草稿を手直しということもあったらしい。

2019年10月19日 (土)

嫁と姑

クララとロベルトが結婚にこぎつけたとき、ロベルトの母は既にこの世を去っていたから、嫁クララは、姑との関係に配慮する必要はなかった。むしろ実父との確執が悩みのタネだった。

クララの息子たちのうち次男のフェルディナンドだけが結婚した。つまり嫁を貰ったのだ。嫁の名はアントーニエという。2人は7人の子供を授かった。クララの孫ということになる。フェルディナンドが42歳でこの世を去った後、孫たちの養育費はクララが負担したが、嫁との折り合いは良くなかった。

嫁と姑の確執は、7人の孫たちにも微妙な影を落とした。長男は60歳のブラームスを「喉を鳴らす仔猫」と評していたフェルディナンドで、クララの臨終の際にもそばにいた。この長男以外の6名は、どうも母アントーニエ寄りの立場だったという。特に弟のアルフレートは後に祖母クララを攻撃する文書を公にした。「シューマン夫妻の4男フェリクスの父親はブラームスではないか」という俗説の起源は彼の文書に起因するらしい。

 

 

2019年10月18日 (金)

カルメンを贈る

未確認ながら大変興味深い情報があった。

1883年の正月に、ブラームスがビゼー作「カルメン」の楽譜をクララに贈ったというものだ。この情報がガセでなかったとすると、2009年10月7日の記事「カルメン」で私が示した見解が崩れさる。ブラームスがカルメンのスコアを見るのが1892年が初めてではないかという見解をのことだ。1883年の段階でクララに楽譜を贈ったのに、ブラームスが目を通していないということはあり得ない。自らのお眼鏡にかなうからクララに贈ったに決まっている。

逆に申せばクララに贈るというのは相当な高評価の表れだと思う。ドヴォルザークの評価では同意しなかったクララだが、ビゼーについては好意的な印象を持ったとされている。

2019年10月17日 (木)

クララの基盤

例によって音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第3巻25ページからの引用。クララ・シューマンの4女オイゲーニエの回想だ。

オイゲーニエはピアノ教師として、母クララの芸術的基盤に言及する。

幼い頃からシューマン、ショパン、メンデルスゾーンとともに成長したと述べる。この3人の生年は1809年と1810年に集中する。やがてこれにバッハとベートーヴェンが加わることになる。18歳でウィーンに赴き絶賛される時点ですでにこのような音楽的基盤が確立していたのだ。

ブラームスはまさにそうした基盤に立つクララの前に現われたのだ。それ以降ブラームスが出版前の草稿を送って批評を乞うとき、クララはいつもそうした基盤に立ち返ってブラームスの作品と向き合った。

その基盤に照らして自分なりの境界線を引き、作曲家やその作品を判断した。その姿勢は年齢とともに頑なになっていた。もちろんブラームスはいつも境界線のこちら側にいた。

ワーグナー、リスト、ブルックナーは線の向こうだった。そして私にとって悲しいことにドヴォルザークもあちら側だった。

2019年10月16日 (水)

タイムトライアル

シューマン全集の刊行にあたって、クララが望ましいテンポの確定についてブラームスに意見を求めたことは既に書いた。クララをそれに駆り立てたのは、シューマン作品の演奏について、クララが夫からしばしば速過ぎると非難された記憶だったという。

片手に時計を持って自分の演奏の平均時間を計るという作業を半年続けたらしい。真面目で几帳面な性格丸出しのクララである。先のブラームスへの相談は、それに疲れ果ててのことらしい。ブラームスの返事は「およしなさい」というトーンになっていたのはそのためである。

クララはブラームスの意見を受け入れたが、その作業が「拷問」に等しかったと述べている。「死のタイムトライアル」だ。

2019年10月15日 (火)

メトロノーム値をめぐって

亡き夫ロベルト・シューマンの作品全集を出版することはクララの長年の宿題になった。おそらく出版社からメトロノームの速度表示を付与するよう要請されたのだろう。クララは気が進まぬ様子でブラームスにどうしたものかと意見を求めている。ブラームスは1861年4月25日付けの手紙でそれに答えている。

ブラームスはまず、「貴女(クララ)は本当にそれをやりたいのですか」と驚いて見せ、すかさず、自分としては不可能だし不必要だと断ずる。以下その理由だ。

  1. 測定の不確実さ
  2. 元々シューマンのメトロノーム値が信用できない
  3. 大規模作品をその測定のために演奏させることは物理的経済的に困難
  4. 大規模作品をピアノ演奏して代用すると概して不必要に速くなり測定は困難
  5. 測定の難易度の割に、ほとんど利用されない

もしやるとするなら、シューマン作品をご自分(クララ)が演奏するたびに、これと思ったテンポを書き留めておき、時間が経過してそれら書き込みが貯まってくれば、その中から最良の数値を選ぶことも出来ると言っている。いずれにしろ締め切りに迫られながらでは無理というニュアンスだ。

そして手紙の末尾でもう一度そのままにしておくことを薦めている。いやはや何とも含蓄がある。

  • 当時28歳のブラームスが14歳も年上のクララに、毅然として自説を主張している。
  • メトロノーム値を楽譜に掲載することへ不審をキッパリと宣言している。
  • シューマン作品への深い理解に立脚している。

だからこそクララが相談するのだ。

 

 

2019年10月14日 (月)

野分去って

「野分」などという優雅な大和言葉では通じまい。台風19号が去って各地の被害報道に接して驚いている。前回15号で千葉県内各地で被害が発生したが、義父の力によって我が家は危うく難を逃れた。その義父はまだ納骨前なので今回もまた我が家を守ったに違いない。

夜中に瞬間的な停電が3回あったほかは、目立った被害もなくやりすごした。12日は朝から家族全員がよりそって息をひそめて過ごした。危ないものの場所替えは11日のうちに母がすました。

時により過ぐれば民の嘆きなり八大竜王雨止めたまへ 源実朝

 

 

2019年10月13日 (日)

クララの物言い

1864年ブラームスの父ヨハン・ヤーコプは念願かなってハンブルクフィルハーモニーのコントラバス奏者の地位を得た。ハンブルクフィルハーモニの芸術監督はシュトックハウゼンで、ブラームスの友人だから、情実が酌量されたと後世の人々は憶測する。結果練習量を増やさねばならなくなった。家でも練習するということだ。これが年老いた妻とのいざこざの原因になるのだから困ったものだ。ブラームスはいろいろてを尽くしたがとうとう両親の別居に同意する。

ちょうどウィーンジンクアカデミーの職を辞したばかりで、まだドイツレクイエム完成前でもあり、ハンガリア舞曲もブレークする前だから、あまりお金が無い頃だ。

年老いた母は姉のエリザベートと同居したが、姉は病弱であった。母と姉の養育費の負担がブラームスに重くのしかかった。ブラームスの窮状を見かねたクララは、驚くべき行動に出る。なんと、別居により一人暮らしを始めた父のヨハン・ヤーコプに物言いをつけたのだ。「あんたの息子ヨハネスは、あんたが考えるほど収入が無い」「少しは妻や娘の扶助に力を貸せ」というものだ。それでも事態はあまり好転した形跡は無いが、ブラームスはけなげにも母と姉に仕送りを続けたばかりか、父親への送金もためらっていない。

後年ブラームスの楽壇での地位は押しも押されもせぬものとなり金の心配はいらなくなる。家族への援助は当然と考えていたが、加えて苦しかった頃心配をかけたクララにも援助を申し入れ、感謝を形にして返している。

2019年10月12日 (土)

シューマンの野ばら

昨日買い求めた「シューマン合唱曲全集」4枚組に思わぬお宝があった。ゲーテの「野ばら」へのシューマンの付曲だ。「Romanzen und Baladen fur Chor Hegt I 」op67の中の3曲目だ。ゲーテの野ばらは欧州の作曲家たちの手厚い帰依を勝ち取り、これに曲をつけた作品は100曲以上あるらしい。

私はウエルナーとシューベルトとブラームスしか聴いたことがなかった。これで4曲目だ。

ブリリアント恐るべし。

2019年10月11日 (金)

クララの耳

1895年10月のある日、ブラームスとクララの最後の対面の時の話だ。

 

当時既にブラームスは、ウイーンのいや欧州の音楽界の重鎮だった。ブラームス自身、相当なレベルの古楽譜コレクターだったし、ウイーン楽友協会の蔵書を自由に閲覧出来る立場にあった。だから大作曲家の自筆譜を見ることは珍しいことではない。

 

ベートーヴェンのピアノソナタの自筆譜を見て、市販の楽譜に誤りがあることを確信したブラームスは、「私はおかしいと思っていたンだが、思った通りだった」とばかりに、クララの家の楽譜を手に取った。クララに自慢話でも聞かせようと思ったのかもしれない。そのページを開いたブラームスは、既にその音がクララの筆跡で修正されているのを見て驚いた。クララは長年の演奏の経験から、既にその場所を誤植と断じていたのだ。クララは自筆譜も見ていないのに、耳の命ずるままに断固として修正していたということだ。聞き分ける耳もさることながら、それを誤植と断じる音楽的な判断力、あるいはベートーヴェン作品に対する揺ぎ無い規範が、クララの脳内に存在したことは疑い得ない。「ボクは自筆譜を見たンだよ」というささやかな優越感は、あっけなく吹き飛んだと思われる。

 

自慢が不調に終わったブラームスではあるが、悪びれることは無い。ただただ無邪気に驚くのだ。「お母さんほどの耳を持った演奏家なんてどこにもいやしない」とクララの娘たちに語ったという。語られた娘の一人オイゲニーの証言である。

 

このとき、これが最後の対面になるという自覚は2人にはなかった。この話は最後の対面であるが故の話ではなく、あたりまえの会話なのだ。会う度にこういう話をしていたに違いないのだ。2人にとっての世間話である。

 

ベートーヴェンのどのソナタなのか語られていないのは残念だが、自分の発見を自慢しようとしたブラームスの健気さ、とうの昔に気付いて既に楽譜を修正していたクララの耳、微笑ましくも感動的だ。

2019年10月10日 (木)

コンサートツアー

クララ・シューマンにとってロベルトの入院後最初の演奏会シーズンとなった1854年秋の演奏会の記録を調べてみた。

  1. 10月16日 ハノーファー 宮廷演奏会
  2. 10月19日 ライプチヒ ゲヴァントハウス
  3. 10月23日 ライプチヒ ゲヴァントハウス
  4. 10月25日 ワイマール リストと共演
  5. 11月03日 フランクフルト・アム・マイン
  6. 11月04日 フランクフルト・アム・マイン
  7. 11月13日 ハンブルク フィルハーモニーとの共演
  8. 11月15日 ハンブルク・アルトナ
  9. 11月16日 ハンブルク
  10. 11月18日 リューベック
  11. 11月21日 ブレーメン
  12. 11月23日 ベルリン
  13. 11月29日 ブレスラウ
  14. 12月01日 ブレスラウ
  15. 12月04日 ベルリン ヨアヒムとジョイント
  16. 12月07日 フランクフルト・アム・オーデル
  17. 12月10日 ベルリン ヨアヒムとジョイント
  18. 12月16日 ベルリン ヨアヒムとジョイント 
  19. 12月20日 ベルリン ヨアヒムとジョイント
  20. 12月21日 ライプチヒ ヨアヒムとジョイント

いやはや意欲的である。1月以降はオランダにも足を伸ばすなど、ほぼこの調子で4月までのシーズンを乗り切った。これにより5000ターラーつまり15000マルクの収益があったとされている。

上記7から9の前後ハンブルク滞在の折、クララはブラームスの実家を訪れ、母ヨハンナから家族同然の歓待を受けている。

2019年10月 9日 (水)

クララの嘆き

1841年7月のある日、クララは演奏会でべートーヴェンのソナタを弾いたが、聴衆の反応に落胆した様子で日記にしたためる。

実名を書いて、彼等がベートーヴェンのソナタから喜びを感じ取れないと嘆く。彼等にとって教養と名人芸がイコールではないかと疑問を呈する。おそらく彼等にとってバッハのフーガは退屈なもので、各声部への主題の出現を感じ取れないハズだと推測している。

単なる機械的な演奏への嫌悪感をきっぱりと宣言している。さらに興味深いのは、ヘンゼルトの「練習曲」、タールベルクの「幻想曲」、リストの演奏会用作品がたまらなく嫌だと付け加えている。「新音楽時報」1838年4月27日の記事 に 当代屈指のピアノニスト4名の比較が掲載されていた。クララを除く3人が、上記で嫌だと言っている曲の作曲者と完全に一致ずる。クララの日記は問題の記事の3年後だ。4人一組で比較されたことを踏まえた記述だと思う。

このときクララは22歳である。

 

 

2019年10月 8日 (火)

友情の書簡

みすず社という出版社からブラームスとクララの書簡集が出版されている。1950年原田光子訳で出版されたものの復刻だ。長らくその存在だけは知っていたが、復刻されたので思わず購入した。

かなりの分量だ。お互いに手紙を変換し合って廃棄したが、そうでもないようだ。クララ側の廃棄が甘いことが見て取れる。どうもクララの娘たちが、捨てたと見せて拾っておいたらしい。

 

 

2019年10月 7日 (月)

雨の歌を聴きに

一昨日、ヴァイオリンソナタ第一番を聴きに行った。竹澤恭子先生の演奏だ。

クララ・シューマンのヴァイオリンとピアノのためのロマンスで始まったのは今年が生誕200年だからに違いない。そして「雨の歌」が続く。休憩後はショーソンやクライスラーなど。率直な印象としては、休憩後に長いアンコールがあった感じ。

それはそれはもう期待以上のブラームスだ。おそらく構成上の山場は第二楽章なんだろう。全てそこからの逆算で成り立っていた印象だ。暖かくて深くて。第三楽章の途中で再現したときは鳥肌がたった。音がきれいだからどんな曲にも説得力がと言ってしまっては元も子もない。ブラームスってやはり深いなと再確認させてもらった。

2019年10月 6日 (日)

ケアレスミス

受験の大敵。実直に注意力を高める訓練をするか撲滅は無理と諦めるかで、心構えも対処方法も違うだろう。

1881年61歳のクララ・シューマンは、夫ロベルトの作品全集の刊行にこぎつける。作品の普及はクララの念願だったから、この刊行は一つの区切りであった。ところがこの時、らしくないケアレスミスが発生した。漏れの無い全集のはずだったが、小品がいくつか収載から漏れたのだ。

その小品の中には、ヨハネス・ブラームスが校訂した作品が混じっていたことが、後になって誤解を生む元になった。刊行された全集を手に取ったブラームスは言葉を失う。自分が携わった作品が漏れていたからだ。おそらくその場でクララに問い合わせれば傷口は小さくてすんだ。しかしブラームスは「クララは夫ロベルトの作品全集にブラームスの名前が記されることを拒んだに違いない」と邪推し、この無念を呑み込んだ。

その10年後、シューマンの交響曲の出版に関して、クララとの間に決定的な誤解が起きた。二人は絶交状態になったのだ。1892年にop118を切り札として、仲直りしたのを機に、ブラームスは勇気を出して10年前の収載漏れについてクララに問いただした。

今度はクララが言葉を失う番だった。完全なケアレスミスだ。けれどもクララにも言い分はある。「私がそんなにみみっちい女だと思っていたの?40年もつきあってきて」ってなもンである。あるいは「全集への収載の可否は芸術的な価値の有無だけが判断基準に決まっているではないか」「何故もっと早く教えてくれない」「水くさい」というような思いもあっただろう。

クララは即座に全集からの遺漏を集めた補巻の刊行を決断する。この補巻について、編集はおろか序文の執筆までもブラームスに依頼するのだ。10年の誤解を解く切り札だ。ブラームスはもちろんこの付託に全身全霊をもって答え1893年には刊行にこぎつけた。この出来事以降、クララが没するまで、クララとブラームスの間に一切の誤解揉め事が起きなくなったという。

嬉しいのだが、とても切ない。

2019年10月 5日 (土)

家持忌

本日10月5日は、奈良時代の歌人・大伴家持の命日だ。万葉集の撰者であることが確実視されている。大好きな歌人である。「短歌界のベートーヴェン」と感じる。人麻呂を「短歌界のバッハ」とした流れの上にある。

785年に没したから本日は没後1234年のメモリアルイヤーだ。何としても今年公開せねばならない理由はご理解いただけよう。

9月29日の定家ネタ に続いてクララ特集を敢然とさえぎってまでこの記事をと欲する脳味噌になっている。

2019年10月 4日 (金)

シューマン全集

ロベルト・シューマンは生前1851年に、もし自分の身に何かが起きたらという用心のために、遺作として残された楽譜の出版を誰と相談するべきかをクララに書き残していた。従順な妻クララではあったが、結果としてこの件に関してはロベルトの遺志には従わなかった。シューマン全集の刊行にあたりクララが相談を持ちかけた相手は2人だ。ブラームスとヨアヒムである。シューマンの支持者は少なくなかったが、クララは「あなた方以外は信用できません」とばかりにブラームスとヨアヒムに全幅の信頼を置いた。

ブラームスが自作の草稿をことごとくクララに送って批判を仰いだように、クララは校訂譜の全てをブラームスに送って意見を求めた。刊行された楽譜は全責任をクララが負うという体裁になっていたが、合唱作品、室内楽及び管弦楽においてはほぼ全面的にブラームスの意見が採用されているという。

1881年あくまでクララの校訂とされた「ロベルト・シューマン全集」が、ブライトコップフ社から刊行された。ブラームスも深く作業に関わっていたために、クララはブライトコップフ社からの報酬の半額を受けとるよう説得したが、ブラームスはこれを固辞した。いやいや渋い。

2019年10月 3日 (木)

時刻表どうなる

ラグビーのジャイアントキリングやらジェシーノーマンさんのニュースに紛れてとんでもない知らせが届いた。

英国の旅行会社トーマスクックが倒産したらしい。旅行の個人手配が普及したことが原因らしい。世界最古の旅行代理店ということで、しばしば話題にしてきた。旅先から帰国できない「旅行難民」の発生も報告されている。

がしかし、ブログ「ブラームスの辞書」としては、同社が刊行する欧州鉄道時刻表の行く末が気になる。

2019年10月 2日 (水)

ジェシーノーマン逝く

何ということだ。突然の訃報に驚いている。御年を聞いて、そんなにと。

ブログ「ブラームスの辞書」草創期の大企画三色対抗歌合戦 では緑組の主将を務めていただいたほどだ。

ご冥福をお祈りするばかりだ。

2019年10月 1日 (火)

消費増税

本日から消費税が10%になる。「ブラームスの辞書」刊行時2005年の段階では、5%だった。

書籍「ブラームスの辞書」は4300円と価格設定している。2005年刊行のときだ。購入いただいた方に消費税を上乗せして請求していないので、事実上の内税だ。本体価格は4095円23銭という計算だ。これに204円77銭の消費税が載っているという建前である。

2014年に消費税が8%になったときも、購入者に消費税を請求していない。販売時の請求は4300円に据え置いたから、113円75銭の値下げである。このたび消費税が10%に上がる。お買い上げに際しての請求は引き続き4300円に据え置くので、72円39銭の値下げとなる。

世の中、増税前の駆け込み需要でにぎわったのだが、「ブラームスの辞書」には恩恵がおよばなかった。

 

 

 

 

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ブラームスの辞書写真集

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    はじめての自費出版作品「ブラームスの辞書」の姿を公開します。 カバーも表紙もブラウン基調にしました。 A5判、上製本、400ページの厚みをご覧ください。
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