文末決定性
言語としての日本語の特徴を説明する際に頻繁に用いられる言葉だ。言葉の意味の確定が文章の末尾に持ち越されることだ。「肯定なのか否定なのか、はたまた推量なのか」あるいは「疑問なのか」「現在なのか未来なのか、過去なのか」が最後までわからないということだ。このことが特徴になるのだから、他言語には無いということだ。
もちろん英語は違う。
「I know him」だ。日本人には「私知ってる彼」という風に見えてしまう。主語の後にまっさきに述語が添えられて「どうしたのか」が確定するのだ。善し悪しの問題ではないが、日本語から英語への同時通訳は大変だと思う。全体の文脈、話し手の言葉の勢いなど文章だけではなく空気までも読むことが求められてしまう。
さて、ロベルト・シューマンからクララに発せられた最後の言葉は「Ich kenne」だと伝えられている。英語で申せば「I know」だ。「Kenne」の後は、発せられていないのか、聞き取れないほどの小声だったのか判らぬが伝わっていない。
つまり主語と述語しか伝えられていないのだ。シューマンが何かを知っていたことは確実ながら「何」を知っていると言いたかったのかが判らないのだ。もし文末決定性の日本語なら「何」について先に語られたに違いない。けれども、「何」が示されたとしても、今度は肯定か否定かが曖昧になる。「知っていた」のか「知りたい」なのか「知りたくない」なのか、判らないということだ。
この不明瞭さが、古来さまざまな憶測を呼んできた。
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