シューマンとの距離感
ブラームスの楽壇デビュウにあたり、ロベルト・シューマンの後ろ盾が大きく物を言ったことは、有名である。はじめてシューマン邸を訪問したブラームスの様子は、シューマン夫妻の日記の記述から克明に復元されている。
ブラームスがハンサムな若者だったこと、ガチガチに緊張していたこと、シューマンの態度はゆったりと寛大だったこと、すぐにクララを呼んで再度弾かせたこと、リストのサロンとは違って家庭的な雰囲気だったこと等等、みなよく知られている。シューマンはその後ブラームスを絶賛する記事を書く一方、作品を出版する労を惜しまない。それからわずか3年後にシューマンが没してしまった後も、その妻クララとは終生交流が続いたこと、周知の通りである。
ブラームスは、シューマンに感謝はしていたと思う。いや、していたに違いない。
ところがである。20歳そこそこでガチガチに緊張していたはずのブラームスは、敬愛するシューマンの薦めに従って、自作を無闇に出版しまくった訳ではない。シューマンに出版を薦められたいくつかの作品をブラームスは出版せずに破棄している。この事実は、相対的に無視されている。自分を楽壇に紹介してくれた恩人の薦めを冷静に受け止め、自作をじっと吟味する器をその若さで持ち合わせていたことこそが奇跡のように思える。
ブラームスは後年「シューマンに教わったのはチェスの指し方くらいだよ」と語ったとされている。さすがにそれはブラームス独特の逆説を含んでいるとも思われるが、一笑に付しきれない真実味も感じられる。「少なくとも作曲は教わっていないよ」という意味と解したら勘繰りが過ぎるだろうか?
何と言ってもブラームスにとってシューマンは「クララの夫」である。今風に申せば「シューマンは60%がクララの夫、40%が作曲家」くらいに思っていたなどということを想像したくなる。
一生考えて行きたい。
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