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2019年12月31日 (火)

作曲家大河ドラマ

某公共放送が毎週日曜のゴールデンタイムに放送する看板番組だ。

素材を日本史に取り1年かけてじっくりと描くのが常だ。舞台は平安時代から幕末まで様々だが、「戦国時代」「源平争乱期」「幕末」が3本柱だろう。人気のキャラはかなりの回数取り上げられている。やはりキーワードはいくさだ。「こたびのいくさ」など必ず出る言い回しだ。それなりに見応えのあるストーリーにするには「いくさ」は欠かせぬと見える。いくさと言っても壬申の乱、大化の改新、磐井の乱まで遡ると学会に定説がなかったりして具合の悪いことも多いのだと思う。

個人的には是非とも伊能忠敬を取り上げて欲しいと思っている。

前置きが長くなった。大河ドラマで作曲家を取り上げるとしたら誰が適任だろう。信長、秀吉、家康クラスの波瀾万丈さを求めるのは無理がある。1月生まれで12月没のモーツアルトは適任だ。立身出世には縁がないところが難だ。ベートーヴェンあたりも視聴率はキチンとはじき出すに違いないが、ロマンスの盛り込みようが無い点に難がある。となると俄然ワーグナーが浮上する。波瀾万丈という意味では右に出る者はいないと思われる。ロマンスてんこ盛りで飽きも来ない。シューマンは、妻のクララとセットでという感じか。脚本家のさじ加減によっては、平日の昼下がりの時間帯に回されかねない。私としてはブラームスを取り上げて欲しいところだが、シューマンと同じくクララとの距離感の描き方で出来不出来が左右されそうなのが辛い。

いっそクララ・シューマンが良いのではないかと思えてきた。女子の時代だ。

 

 

2019年12月30日 (月)

君たちのお母さん

ブラームスとクララ・シューマンの娘たちとの会話の中で、ブラームスがクララを指して用いた言い回しだ。どんなドイツ語がこう訳されたのか確認していないが、クララの娘の一人4女オイゲーニエは、この言い方が好きだったと証言している。あるいはこの言い方をするブラームスがクララの娘たちから愛されていたと解したい。クララとの距離感を反映したブラームス独特の言葉だと感じる。あくまでもシューマン一家の外に身を置きながら、精一杯の親近感を表現している。私にはとても切なく映る。

今やクララとブラームスについてはあまりに多くの言葉が費やされている。ロマンだ悲恋だと文字数だけは、やけに費やされているが、最近その手には心が動きにくくなった。一方でこのように無骨で不器用なエピソードにからきし弱い。

私ごときの筆力では、正確に言い表せない微妙なニュアンスがこもっている。けれども心配はいらない。ブラームスの作品に充満するニュアンスと矛盾していない。

2019年12月29日 (日)

クララのアヴェマリア

以前に買い求めた「シューマン合唱曲全集」を聴いている。全4枚組の2枚目の冒頭に「Abendfeier in Venedig」(ベネチアの夜の祝祭)というタイトルの作品が収められている。実際に聴いてみると歌い出しは「Ave Maria」になっている。

これだけなら「ほほう、シューマンのアヴェマリアか」くらいなモンである。ドイツ語とはいえ解説書はじっくり読んでみるものだ。この作品の作曲者はクララ・シューマンだったのだ。全4枚組の2枚目の冒頭3曲だけがクララ作曲になっていた。「エマニュエル・ガイベルの詩による3つの混声合唱曲」の中の1番だ。素晴らしい。私のクララ作品へのイメージを一変させる出来映えだ。

クララはピアニストとして有名だ。作曲家ロベルト・シューマンの妻としての知名度もこれに劣っていないが、実は作曲もした。無視し得ぬ質量の作品が残されている。ピアノ作品や歌曲を聴いたことがあった。しかしこの「アヴェマリア」はその中でも出色だ。本当に可憐で上品、さらに小粋でさえある。

毎度毎度ブリリアント社には脱帽だ。

2019年12月28日 (土)

シュライヤー逝く

昨夜、ドイツのテノール歌手ペーターシュライヤーさんの訃報が舞い込んだ。つい先日ジェシー・ノーマンさんを見送ったばかりだというのに。御年84と聞く。ワーグナー、モーツアルトのオペラからドイツ歌曲まで端正なレパートリーと美声で君臨していた。そりゃあまあ、ブラームスにはオペラが無いし、ドイツレクイエムにもテノール独唱はない、男声のおいしい出番は低目に偏るが、彼の49のドイツ民謡は定番だろう。いくつかCDもある。おまけに大のサッカーファンだったはずだ。HSVのサポーターだった気がする。

押しつまったクララ特集を敢然と中断したところで、クララからもブラームスからもクレームは届くまい。心からご冥福をお祈りする。

 

2019年12月27日 (金)

クインテットクリスマス

つい先日、クリスマスイヴに都内でブラームスの室内楽を聴いてきた。関西弦楽四重奏団のコンサート。演目は弦楽五重奏曲2曲。1番ヘ長調に先立ってハイドンの「5度」が演奏された。本来のメンバー4名による端正な演奏で、自己紹介代わり。

豊島泰嗣先生をVaにお迎えしての1番だが、セカンドヴィオラに悠然と控えるという贅沢を味わった。休憩後の2番では第一ヴィオラを弾いてくださったので、なるほどと思ったら、ヴァイオリンもセカンドとファーストが入れ替わった。

ハイドンから一貫する音の均質感はとても好感がもてる。今年流行りの「ワンチーム」という言葉を思い出した。聞けばこのメンバーでベートーヴェンの全16曲をコンプリートしてるとか。どうりで精緻なアンサンブルだ。丹念丁寧を絵にかいたような演奏だと思う。ワンチームで演奏会の後飲みに行くのだろうなと。

ハイドンの後、豊島先生が加わってどうなるのかがとても興味深かったが、すんなりであっけにとられた。うまい表現が見つからないけれど、NHKの朝の連ドラ状態だ。ヒロインを支えるベテランという役どころ。「夏空」の草刈正雄状態とでも申し上げておく。存在感だけでヒロインを支える感じなのだが要所見せ場だけは外さない的な。既存の弦楽四重奏団をベースにヴィオラ奏者一人をお迎えしてのアンサブル、しかもお呼びたてするのが大物の場合いろいろ考えるのだと思う。豊島先生が2曲ともファーストを弾かぬというのには感心させられた。1番ヘ長調に散見される2番ヴィオラの見せ場での色艶を聴いて納得させられた。むしろ記憶すべきはチェロの独特な下支え感、安定感で、もしかするとこの夜の主役はチェロだったかもしれぬ。そこがハイドンとのちがいかとも。ブラームスはそういう音楽だ。

クリスマスイヴに五重奏が生で聴けるというスペシャルな趣向に我を忘れてチケットを買い求めてしまい、あまり奏者のことは考えていなかったと告白するけれど、即買いはとんでもなく正解だった。

総合的に一番気に入ったのは2番の第二楽章かもしれない。最弱音の和音の澄み切った響きに心洗われた。

 

2019年12月26日 (木)

クララのオルガン作品

ブラームスのオルガン作品を収めたCDだと思って手に取った。

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op122「オルガンのための11のコラール前奏曲」の前には、作品番号のない一連オルガン自由曲も収録されている。それらに挟まれる形で、クララ・シューマンの「前奏曲とフーガニ短調op16-3」が収められていた。

オルガンによるモノローグ。端正で厳粛なフーガで引き締まるけれど、ピカルディ終止でほっこり温まる。

2019年12月25日 (水)

聖なる疑問

ブラームスは「きよしこの夜」を知っていたか?ブログ「ブラームスの辞書」としては当然の疑問だ。伝記を読んでみても手掛かりはない。

  1. 1818年にオーストリア・ザルツブルク近郊のオーベルンドルフで初演されて以降、ドイツ語圏でひろまり、1854年にはプロイセン宮廷が「Stille Nacht」の楽譜を所望した。存命中だった作曲家がコメントを付してこれに応えたという。つまりドイツの南端で成立した「きよしこの夜」は36年後にプロイセン宮廷のあった北ドイツに広まっていたということだ。この年は、ブラームスがデュッセルドルフのシューマン邸を訪問した翌年である。すでにこのころかなりの知名度があったに違いあるまい。
  2. ブラームスの「子供のための14のドイツ民謡集」WoO31の中、12番に「Weinachten」がある。クリスマスの歌に関心があったに決まっている。
  3. 「49のドイツ民謡集」Woo33には「In stiller Nacht」というそっくりなタイトルの作品がある。
  4. ブラームスの親友で、ウィーン楽友協会司書のオイゼビウス・マンディチェフスキーが、「StilleNacht」をアカペラ混声合唱に編曲して出版している。

知っていた方に10ユーロ賭けたい。

2019年12月24日 (火)

ジャン・パウル

ドイツの小説家。

1855年のクリスマス、クララはブラームスにバッハ全集第1巻を贈った。その前年1854年のクリスマスにもプレゼントをしている。それが本日のお題となったジャン・パウルの作品集だった、全12巻というからかなりのボリュームだ。

シューマンがエンデニヒに入院してから、デュッセルドルフにとどまって家事を手伝うブラームスは、シューマン家の蔵書整理に没頭した。この姿を見ていたクララは、ブラームスの内なる文学的興味を見抜いたに決まっている。

ジャンパウルは1763年3月21日生まれだからバッハとお誕生日が同じだ。ほとんどベートーヴェンと時代が重なっている。ロマン派と古典派の境目あたりに位置付けられているらしい。グスタフ・マーラーの第1交響曲のタイトル「巨人」は、ジャン・パウルの同名小節から着想を得たという。

 

 

2019年12月23日 (月)

シューマンのクリスマス

学生歌を調べているうちに買い求めた「シューマン合唱曲全集」全4枚組に「Weihnachtslied」という作品が入っていた。作品番号は無い。アカペラの混声四部合唱。短いけれどとてもチャーミングで印象的だ。

テキストの作者を見て驚いた。Hans Christian Andersenと書いてある。童話で名高いあのアンデルセンと全く一致する。生没年や活躍の時代を考えると、このテキストがあの名高いアンデルセンだとしても矛盾は無い。

アンデルセン作詞、シューマン作曲のクリスマスソングだ。有り難味1割増しである。

2019年12月22日 (日)

旧バッハ全集

1850年、バッハ没後100年を機に開設されたバッハ協会の目的は、バッハ全集の刊行にあった。ドイツ中の英知を結集しての大作業だった。全46巻が、ほぼ年に1冊のペースで刊行されていった。1926年に新バッハ協会が設立され、また全集の刊行が始まった。こちらとの区別のために「旧」の文字が奉られた。以下に旧バッハ全集46巻の刊行を年次を追って羅列する。

  • 1851年 1巻 教会カンタータ①
  • 1852年 2巻 教会カンタータ②
  • 1853年 3巻 クラヴィーア作品(インヴェンション、シンフォニアetc)
  • 1854年 4巻 マタイ受難曲
  • 1855年 5巻① 教会カンタータ③
  • 1856年 5巻② クリスマスオラトリオ
  • 1856年 6巻 ロ短調ミサ
  • 1857年 7巻 教会カンタータ④
  • 1858年 8巻 ミサ曲
  • 1860年 9巻 室内楽①
  • 1860年 10巻 教会カンタータ⑤
  • 1862年 11巻① マニフィカトとサンクトゥス
  • 1862年 11巻② 世俗カンタータ①
  • 1863年 12巻① ヨハネ受難曲
  • 1863年 12巻② 教会カンタータ⑥
  • 1864年 13巻① 結婚式用カンタータ
  • 1865年 13巻② クラヴィーア作品②(英仏組曲)
  • 1865年 13巻③ 哀悼頌歌
  • 1866年 14巻 クラヴィーア作品(平均律クラヴィーア曲集)
  • 1867年 15巻 オルガン作品①
  • 1868年 16巻 教会カンタータ⑦
  • 1869年 17巻 室内楽②
  • 1870年 18巻 教会カンタータ⑧
  • 1871年 19巻 室内楽③
  • 1872年 20巻① 教会カンタータ⑨
  • 1873年 20巻② 世俗カンタータ②
  • 1874年 21巻① 室内楽④
  • 1874年 21巻② 室内楽⑤
  • 1874年 21巻③ 復活祭オラトリオ
  • 1875年 22巻 教会カンタータ⑩
  • 1876年 23巻 教会カンタータ⑪
  • 1876年 24巻 教会カンタータ⑫
  • 1878年 25巻① フーガの技法
  • 1878年 25巻② オルガン作品②
  • 1878年 26巻 教会カンタータ⑬
  • 1879年 27巻① 室内楽⑥
  • 1879年 27巻② 教会カンタータ主題目録
  • 1881年 28巻 教会カンタータ⑭
  • 1881年 29巻 世俗カンタータ③
  • 1884年 30巻 教会カンタータ⑮
  • 1885年 31巻① 管弦楽作品
  • 1885年 31巻② 音楽の捧げもの
  • 1885年 31巻③ 室内楽⑦
  • 1886年 32巻 教会カンタータ⑯
  • 1887年 33巻 教会カンタータ⑰
  • 1887年 34巻 世俗カンタータ④
  • 1888年 35巻 教会カンタータ⑱
  • 1890年 36巻 クラヴィーア作品④
  • 1891年 37巻 教会カンタータ⑲
  • 1891年 38巻 オルガン作品③
  • 1892年 39巻 モテット・コラール
  • 1893年 40巻 オルガン作品④
  • 1894年 41巻 教会作品(補巻)
  • 1894年 42巻 クラヴィーア作品⑤
  • 1894年 43巻① 室内楽⑧
  • 1894年 43巻② アンナマグダレーナの音楽帖
  • 1895年 44巻 手稿譜ファクシミリ
  • 1897年 45巻① 器楽作品(補巻)
  • 1898年 45巻② ルカ受難曲
  • 1899年 46巻 報告と目録

以上だ。

めまいがする。1866年の普墺戦争、1871年の普仏戦争の間も途切れていない。民族の執念さえ感じさせる。校訂者には当時の錚々たる研究家の名前が連なる。

第1巻刊行時、ブラームスは18歳。1897年刊行の45巻①が、ブラームスの生前だったのかどうかでブレも生じるが、全46巻の刊行のうち没後の刊行はわずか2巻。うち1巻は目録と報告で、もう1巻は「ルカ受難曲」だ。ブラームス自身は「ルカ受難曲」を偽作だと喝破していたことを考えると、生前にコンプリートしたと考えていい。ブラームスの後半生は、旧バッハ全集の刊行ともろに重なっている。

ブラームスはもちろん全巻所有していたが、記念すべき第1巻は1855年12月25日にクララから贈られたものだ。「愛する友、ヨハネス・ブラームスへ、始まりとして」という言葉が添えられていた。

1855年のクリスマス時には1巻から5巻までが刊行を終えていたはずだが、「そのうち1巻を贈りますね」という意味が「始まりとして」というメッセージに込められていたと見たい。つまりブラームスが刊行済の諸巻を未所有だったことを知ってのプレゼントだ。「続きは自分で集めてね」という意味だと解したい。この記事がクララネタであることを心の底から喜びたい。

2019年12月21日 (土)

危険な贈り物

ロベルト・シューマンが没した翌年のことだから1857年である。5月末に一週間デトモルトに滞在し何回か宮廷元帥邸でピアノ演奏を披露した。つまり就職試験である。結果は上々で、英国に演奏旅行することになったクララの代役として、ブラームスがデトモルト宮廷の女性2人にピアノを教授することになった。ブラームス生まれて初めての就職であった。年間に3ヶ月という宮廷勤務が1859年まで続くことになる。

ブラームスがピアノを教えた2人のうちの1人がデトモルト宮廷公女のフリーデリケだった。彼女は就職試験演奏でブラームスがバッハを弾いたことを覚えていたのだろう。翌1858年のクリスマスプレゼントとしてバッハ全集6巻をブラームスに贈った。1855年のクリスマスには、クララから第一巻を贈られている。ブラームスの日ごろの言動に「バッハ好き」がにじみ出ていたのだろう。でなければ親しい女性2人が相次いでブラームスへの贈り物としてバッハ全集を選ぶはずが無い。

ブラームスはその年の暮、クララに宛てた手紙の中で、バッハ全集6巻をもらったが、既に持っている分との重複が起きたと伝えている。

カルベックたち後世のブラームスの研究家によってこの6巻の贈り物が「Danaer Geschenke」と呼ばれているのだ。その「ダナエア ゲシェンケ」の訳語こそが本日のお題「危険な贈り物」なのである。手元の辞書では、「危険な贈り物」の代表例ととして「トロイの木馬」を挙げている。あれこれと書物を調べたが、フリーデリケから贈られた6巻が何故「危険な贈り物」と呼ばれているのか明確な記述にはたどり着けなかった。

想像で補うことにする。

この贈り物がブラームスの内なる「バッハラブ」に火をつけたということではあるまいか。この贈り物をキッカケに生涯にわたって続くブラームスのバッハ研究が緒に着いたということだろう。その逆説的な表現が「危険な贈り物」なのだと思う。単にクリスマスプレゼントの異名だったら少しがっかりである。

実を言うと「ブラームスの辞書」は、本もブログも誰かの「ブラームスラブ」に火を点けたいと願うものである。どこかの誰かにとっての「危険な贈り物」になることを密かに期待している。

2019年12月20日 (金)

パストラーレ

「牧歌的な」「田園風の」という程の意味。ベートーヴェンの第6交響曲が有名だ。ところが、バッハの時代はこういう意味ではなかった。「パストラーレ」とはキリストの生誕を祝うという意味合いが強まる。

BWV590「オルガンのためのパストラーレ」へ長調がその代表だ。田園交響曲と調が一致してしまうのが微笑ましい。フィナーレの第4曲を聴くとおやっと思う。ブランデンブルグ協奏曲第3番の終曲と似ている。バッハお得意のパロディである。

何よりも大切なことがある。クララ・シューマンの4女オイゲニーによれば、1895年10月のブラームスとクララの最後の対面の時、クララがこのパストラーレヘ長調を弾いたという。

何という選曲だ。聴いてみたかった。

2019年12月19日 (木)

影武者

有力な大名や武将などの戦国時代の重要人物は、とかく命の危険にさらされていた。戦場でなくても厄介な暗殺者が暗躍していたから、万が一に備えて偽者が用意されている。人物の重要度が高いほど影武者の数も増えたという。

作曲家クララ・シューマンの作品一覧を見ていると「カール・チェルニー:ピアノ大練習曲op500より指の練習とエチュード」という作品がある。1880年の出版だ。正確に申せば作曲ではなく、選編集という立場だから作品番号は付いていない。例によって音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第3巻43ページで、クララの四女オイゲーニエが、この練習曲集の成立に言及している。

長女マリエと四女オイゲーニエが、初心者向けのレクチャで母の代講を務めることになったとき、これにおおいに関心を示したブラームスが2人に贈ったのがカール・チェルニーの「理論的実践的ピアノフォルテ演奏法」op500全3巻だった。この中に効果的な学習に寄与する曲を発見し、そればかりを抜き出して選集にするというアイデアが持ち上がった。出版元に同意を求めると「クララ先生がお出しになるなら」という返事だった。

当の本人クララは趣旨には賛同したものの、時間が無かった。これを見かねたブラームスは、実際の作業をマリエがするなら大いに手伝うという提案をした。それをクララの名前で出版すればいいというアイデアだ。これにクララも同意し、さっそく編集が始まった。注意深い校訂をブラームスが担当したらしい。最終原稿をクララが校閲して出版されたのが、先の「カール・チェルニー:ピアノ大練習曲op500より指の練習とエチュード」だったというわけだ。

クララの名前になってはいるが、実際は長女マリエが引き受け、内容はブラームスの全面的なバックアップで完成したということだ。つまりブラームスはクララの影武者ということになる。やがてこれが、ブラームスの「ピアノのための51のエチュード」WoO6に繋がって行く。

2019年12月18日 (水)

課外授業

1878年59歳のクララは、フランクフルト音楽院の教授に就任する。当時の院長はヨーゼフ・ラフだった。彼はリストの崇拝者だったが、ブラームスの奨めもあってクララはそこでクラスを持った。教授陣の中で女性はクララ一人だったが、当代最高のピアニストにしてロベルト・シューマン夫人の威光は、絶大だった。リスト崇拝者の院長にも一目置かれる存在となった。シューマンはもとより、メンデルスゾーン、ショパン、ブラームス、ベートーヴェンおよびバッハの諸作品解釈の第一人者というのが衆目の一致するところであったから、彼女のクラスに入りたい学生が欧州中からやってきた。

あまりの人気でクララのクラスは狭き門であったから、長女マリーを含む有能な弟子による代講もあったらしい。

晴れてクラスに迎えられた弟子たちには、夢のような特典があった。フランクフルトの私邸に招かれて、家庭演奏会に臨むことが出来たのだ。そこは並みの家庭ではないのだ。ヨアヒムやシュトックハウゼンのような超一流の音楽家たちが普通に出入りするところだ。そして何よりもブラームスもそのメンバーの一人だった。そこで繰り広げられるアンサンブルや会話は、お金に代え難い課外授業だったに決まっている。

2019年12月17日 (火)

財産管理の前任者

ブラームスが友人で経営者のフリッツ・ジムロックに財産管理を任せていた話はよく知られている。そうした管理の委託は、ジムロックが父親からジムロック社の経営実権を譲られた1870年以降だと思われる。

ブラームスの楽壇デビュウは1854年前後と見てよいから、そこからジムロックに財産管理を委託するまでの間、預貯金の管理を誰がしていたのかという疑問が湧く。

驚いたことに、どうもそれはクララらしいのだ。少なくとも1860年代中葉まで、ブラームスは演奏会や楽譜の刊行により獲得したお金を、クララに送っていたのだ。演奏会切り盛りや、日常のこまごまとした出費についてクララに相談を持ちかけている。金庫番をクララにお願いしていたようだ。やがてブラームスの地位が磐石になってゆくにつれて、お金の出入りも多くなり、預金管理という仕事自体が手間隙かかるものになっていった。演奏旅行に忙しいクララにとっても負担になることを配慮して、ジムロックに移管したと考えられる。

2019年12月16日 (月)

賛辞

シューマンがブラームスを発見した喜びが、名高い論文「新しい道」に反映していることは有名だ。あるいは出会いの日以降のシューマン夫妻の日記はブラームスの記事で埋まっているし、シューマンの遺児もその様子を証言している。

さらに別な系統の証拠もある。それはシューマンからヨアヒムに送った手紙だ。周知の通り、ブラームスはデュッセルドルフのシューマン邸を訪れるにあたってヨアヒムからの紹介状を持参した。形の上ではヨアヒムの紹介により訪問したのだ。だからシューマンはその礼をヨアヒムに書き送る。「よくぞこいつを紹介してくれた」ということだ。「もしもう少し若ければ多韻律の詩を書いただろう」とブラームスと出会えた喜びを表現している。文学を志しただけのことはある。

さらに印象的なフレーズがある。「彼は40時間で地球の周りに輪を描ける男だ」というものだ。オリジナルのドイツ語がどういうものかわからないが、読めば読むほど魅力的な表現だ。

現在聴くことのできるブラームス作品のホンの数分の一の作品を聴いただけでこの熱狂ぶりだ。

2019年12月15日 (日)

立て続け

1853年9月30日ブラームスによるシューマン邸訪問は音楽史上のエポックになっている。このときブラームスはヨアヒムの紹介状を携えていたこともよく知られている。ブラームスよりたった2歳年長なだけのヨアヒムは既に相当顔が広かったということだが、シューマン夫妻との交流が始まったのは、そう古い話ではない。

1853年その年の低地ライン音楽祭に、シューマンとヨアヒムが出演して以来の付き合いらしい。シューマンはニ短調交響曲を指揮した一方、ヨアヒムはベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を演奏した。ヨアヒムのこのときの演奏は圧倒的な成功で、シューマン夫妻との親密な交流のキッカケになったという。

そしてヨアヒムがデュッセルドルフのシューマン邸を初めて訪ねたのは8月28日である。ブラームスによる訪問のほぼ1ヶ月前だ。当時の夫妻の日記にはヨアヒムを賞賛する記述が見られる。ブラームスの出現と同じ扱いを受けているが、ブラームスがしばらく滞在したのに比べ、ヨアヒムの滞在は3日だった。

ロベルトはヨアヒムについて音楽誌に寄稿などしていない。先のコンチェルトのブレークで22歳のヨアヒムは既に世の中に知られていたから、スクープ性は低かったと思われる。

 

 

2019年12月14日 (土)

リヒテンタール

クララ・シューマンがロベルトの死後居を構えたドイツ南西部の町。「Lichtental」と綴る。「Licht」は「光」で「Tal」は「谷」だから「光り輝く谷」とでも訳せよう。中学校の授業でならった「ネアンデルタール人」の「タール」である。

我が家に最初に授かったのが男の子だった。家族で五重奏を演奏したかったので子供は3人と決めていたが、子供の性別が割れると一部屋余分に必要になるというつまらぬ理由から子供はどちらかになればいいなと思っていた。つまりこの段階で男の子3人を覚悟したことになる。男の子の名前を残り2人分考えていた。次男に命名する予定だったのが「理等」(りひと)だった。ドイツ語で「Licht」と綴って「光」の意味だ。クララの住居の所在地のことも念頭にあった。日本文学史上最高のモテ男「光源氏」の存在も意識していた。第3子の名前は「蒔人」(まいと)だ。英語で「might」と綴って「力」だ。ドイツレクイエムの歌詞「苦しみながらタネを蒔く人は喜びと共に刈り取るであろう」を意識した命名だ。こうしてひねり出した名前は第2子第3子が女の子になって、あえなく幻となった。

ブラームスにとってクララの住む谷であり、敬愛するシューベルトのふるさとでもあった。

2019年12月13日 (金)

署名漏れ

1860年3月に発表された宣言文が、その過激な内容によって物議を醸したことはよく知られている。署名したのはブラームスのほか、ヨアヒム、ユリウス・オットー・グリム、ベルンハルト・ショルツの3名だ。さらに署名を勧誘されていた人物がいる。

  1. テオドール・キルヒナー
  2. マックス・ブルッフ
  3. アルバート・ディートリヒ
  4. ヴォルデマール・バルギール クララの異母弟
  5. フェルディナンド・ヒラー
  6. ニールス・ゲーゼ
  7. ユリウス・リーツ

彼等はお誘いを受けていたが結局署名しなかった。文章がバタバタと発表されたために、乗り遅れた人もいるらしい。

さらに驚くべき事がある。いくつかのクララ・シューマンの伝記を読むと、クララ自身もまた署名する用意があったと書かれている。公表が急だったために間に合わなかったイメージだ。もしこれらのメンバーが皆署名していたら、シューマンを囲む仲間たちの愚痴という印象が濃厚に漂うことになり、ある意味で客観性を減ずる結果になったかもしれない。

2019年12月12日 (木)

水泳療法

「おばあちゃんからの手紙」という本に興味深い記述があった。ここで言う「おばあちゃま」はクララ・シューマンで、手紙を送られたのはクララの3男の長女ユーリエだ。

クララはユーリエに細々としたことを書き送る。「水泳は16度以上で」「お医者様の指示に従って」と書かれている。体育の授業の話ではなさそうだ。何らかの病気に対する治療の一環だ。さらに興味深いのは「ユーリエ叔母様もそうしたが首尾は良くなかった」と書かれている。ここでいう「ユーリエ叔母様」とはクララ本人の三女「ユーリエ」だ。孫娘ユーリエは早世したクララ自身の三女の名前にあやかった命名だ。

元々病弱だったユーリエが結婚後の子供を2人産み、体調がすぐれぬ中「水泳療法」が施されたことを強く伺わせるものだ。それにしても「16度」という水温には驚かされる。治療の目的は明らかにされていないが無謀な気がする。捻挫ややけど以外冷やして良いことなんぞあり得ないと思うがいかがなものか。海開きのニュースでは、20度の水温でも「冷たい」と表現される。

 

 

 

 

 

 

2019年12月11日 (水)

ハンブルクのシューマン夫妻

1850年3月16日ハンブルクフィルハーモニー交響楽団の演奏会があった。ロベルト・シューマンの指揮、ピアノ独奏はクララだった。

曲目を調べているが見つけられない。ピアノ協奏曲イ短調を想像するが、確証は持てない。これを16歳のブラームスが聴いていたらしい。クララは他に3回ほど演奏会を開いているそうだ。

ブラームスはこのうちいくつかを聴いて感動したのだろう。それで自作をいくつか小包でシューマンに送る決心をしたのだ。

2019年12月10日 (火)

未亡人

配偶者を亡くしたご婦人という定義だと、やや物足りない。平均寿命の関係で夫に先立たれる妻は少なくないのだと思う。あくまでも直感だがそこそこの老齢に達している夫人が、夫に先立たれても、未亡人とは呼ばれにくいような気がしている。定義があるのだろうか。音楽史をひもとけばかなりの数の未亡人に遭遇する。バッハ2人目の妻アンナ・マグダレーナ、モーツアルト夫人コンスタンツェ、メンデルスゾーン夫人セシル、ドヴォルザーク夫人アンナ・チェルマコーヴァ、マーラー夫人アルマなどなどだ。

ブラームスの伝記にもこれまた数多くの未亡人が登場する。

  1. ロベルト・シューマン夫人のクララ。筆頭格だ。説明不要である。
  2. デニングホフ夫人のリースヒェン。ハンブルク郊外のヴィンゼンで製紙業を営むギーゼマンの娘。14歳でブラームスと知り合った幼なじみ。デニングホフ夫人となったが、娘アグネスがベルリン高等音楽院在学中に夫に先立たれる。窮状を知ったブラームスが奨学金の支給に尽力したことはよく知られている。
  3. カロリーネ・シュナック 父ヨハン・ヤーコプの2人目の妻。先夫との間にフリッツをもうけたが死別。
  4. セレスティーネ・トゥルクサ ブラームスの家政婦。1887年41歳の時、54歳のブラームスの面倒を見始め、最期を看取った人。文筆家の未亡人とされている。

男性の平均寿命が40代半ばだった時代、いわゆる未亡人が発生する確率は現代よりも高かったと思われる。

2019年12月 9日 (月)

スクエアピアノ

18世紀から19世紀にかけて製造されたピアノ。床に平行な長方形を想像して欲しい。その一辺に鍵盤が据え付けられたようなものだ。現在のグランドピアノのような曲線の美しさは望むべくもないが、大きさは多少コンパクトになっている。

ある日切れ者が、鍵盤を除いた長方形部分を、床に垂直にすることを思いついた。つまりアップライトピアノだ。空間の効率がさらに高められたことにより、スクエアピアノは市場から姿を消した。

ブラームスはハンブルク時代に、ハンブルクのメーカーのスクエアピアノに接していた。1854年には、その響きが気に入っている旨の手紙をクララに送ったこともある。時期的にはギリギリの辻褄だ。19世紀半ばにはスクエアピアノはほぼその流行を追えたと評価されているからだ。

2019年12月 8日 (日)

Molto passionato の続き

それは全くもっていつも通りの習慣だった。出来上がった作品を出版前にクララに見せるのだ。今回は特にピアノ独奏曲だからクララの意見が楽しみでさえあった。

やがて、望み通りの展開になった。クララがその曲を演奏してくれるというのだ。何となく嬉しい気持ちは、クララの演奏を聴いて吹き飛んだ。冒頭の発想記号として「Molto passionato」と書いたその楽譜を見ながら、クララは、ブラームスのイメージよりずっと遅いテンポで弾き始めたのだ。

「こりゃ、いかん」と思ったが、その気持ちをぐっと飲み込んで聴いているうちに、「こういうのもありかな」と思えるようになってきた。

出版にあたって「Molto passionato」の指示だけでは、速過ぎるテンポを採用されかねない。かといって「Allegro ma non troppo e molto passionato」にする訳にも行かない事情があった。だから「Molto passionato」の後ろにカンマを挟んで「ma non troppo allegro」と追加した。

種明かしをする。この曲とはラプソディート短調op79-2だ。クララの解釈するテンポに一定の説得力を感じたブラームスは結局「Molto passionato,ma non troppo allegro」を最終稿とした。「2つのラプソディ」は1番ロ短調が「Agitato」だ。2番も「Molto passionato」として、直接的な速度用語を掲げないことにこだわったのではないかと想像する。それが「Allegro ma non troppo e molto passionato」と出来ない事情だ。「molto passionato」の後に連ねる場合「allegro ma non troppo」では語呂が悪い。やむなく語順を入れ替えて倒置形の「ma non troppo allegro」を採用して後に続けたのだ。

ノントロッパーのブラームスは「allegro」を「non troppo」で修飾することが多い。生涯に33箇所ある。しかし語順の転倒が起きているのはこのラプソディーただ一つだ。「presto」と「non troppo」の共存は11回あって、うち過半数の6回が「non troppo」を先行させていることと鮮やかな対照をなす。それほど「Allgero」に対して「non troppo」が先行することは異例なのだ。

ヨハネス・ブラームスの苦肉の策である。

2019年12月 7日 (土)

弾き分ける決意

ブラームスは、数少ないピアノの弟子に日頃「ピアニストは心で感じたことを音で表現出来なければならない」と教えていたという。クララ・シューマンとはこの点で一致していたらしい。そうは言ってもテクニックはあくまでも音楽に従属する位置づけを超えない。

つまり、ブラームスは心で感じたことをピアノで表現出来たということになる。同時にそれを実現出来ると信じていたことになる。ブラームスが楽譜上に記した夥しい数の音楽用語は、弾き分けられると考えていたと推定出来る。自分が弾き分ける自信があるからこそ、演奏者にもそれを要求していたに違いないのだ。少なくともピアノ演奏に関しては自分が出来もせんことを要求するほど、傲慢ではないと思う。

たとえば「sf」「rf」のように、一般の音楽辞典では同義と解されている用語でも、書き分けられている以上、実際には区別していたと解さねばならない。そう信じることが、実は「ブラームスの辞書」の前提になっている。

だからどこの馬の骨ともわからぬ校訂者が、勝手にアスタリスクも無く用語を追加してもらっては困るのだ。

2019年12月 6日 (金)

もう一人のフェリクス

クララ唯一の孫娘の名がユーリエであることは既に述べておいた。三男フェルディナンドの長女だ。このフェルディナンドは全部で7名の子に恵まれた。1歳にならずに亡くなった三男ヴィクトール以外は皆成人に達した。そのヴィクトールのすぐ下の弟の名前がフェリクスだった。シューマン夫妻の最後の子供四男と同じ名前である。彼の詩にブラームスが曲を付けている。とりわけ「我が恋は緑」が名高い。ブラームスは彼の名付け親でもあったが、1879年に他界した。

フェルディナンドの四男が生まれるはその3年後だ。祖母クララの意向が反映した名づけだったことは確実である。

2019年12月 5日 (木)

ブラームスの悪評

欧州楽壇を2分した論争の片方の当事者だから、反対派からの攻撃は凄まじかった。作品批判のレベルにとどまっていないものも散見されたという。逆に申せば支持者からは賛美されていた。その手の論評は批判にしろ賛美にしろ、誇張と省略を縦横に駆使した代物だ。

私が今日問題にしたいのは、支持者からの悪評だ。音楽之友社刊行全3巻に及ぶ「ブラームス回想録集」は、ブラームスの親しい知人たちの証言の集大成だ。先ほどの基準で申せば賛美者たちの証言だ。だから大抵は好意的な表現になっている。ところが概ね好意的なニュアンスの中で、言葉を選びながらブラームスの短所に言及している場合がある。何人かの友人がブラームスのキャラを要約している中に遠慮がちに現れる。

  1. 感じたことをズケズケ言う。短所とばかりとは言えぬが、傷つけられた人から見れば短所だ。頭の回転が速いから、図星を突かれてしまうのだ。
  2. 不運な同業者に対する配慮のない発言。上記と根は一緒。
  3. 一部の女性に対する傲慢な態度。というよりクララやクララの娘たち、あるいはリーズルなどは例外かもしれぬ。多くの女性はあられもないジョークの対象となった。
  4. いたずら好き。多くは他愛のないものだったが、希に深刻な結果をもたらすこともあった。
  5. 皮肉で辛らつな言動。時にはクララでさえ標的にされたという一方で、クララを悪く言う奴には容赦しなかったとも言う。
  6. 打ち解けていないものに対するとりつく島のない態度。

などなどだ。これらを指摘した友人たちは、有名人としての重圧のためとか、芸術家の特権として仕方がないと擁護することも忘れていない。ブラームスの実態に迫ろうと欲した場合、ブラームスの賛美者たちから発せられる歯の浮くようなお世辞よりは、この手の愛ある悪評の方がずっと役に立つ。

こんなブログを書いている私が、初めてまとまって言及するブラームスの悪評だ。読者が誤解することはあるまいと期待する。

これらを埋め合わせてお釣りの来る長所、そして何よりその作品がある。

2019年12月 4日 (水)

お下がりのピアノ

1840年ロベルトとクララの結婚を機に1台のピアノが2人に贈られた。ウィーンのコンラート・グラーフ社が1839年に製造したピアノだ。1853年10月1日デュッセルドルフのシューマン邸を訪れたブラームスが、2人の前で弾いたのは、このピアノだと思われる。

1856年4月クララは入院中のロベルトを残して単身で渡英し3ヶ月に及ぶコンサートツアーに出た。7月に帰宅したクララにパリのエラート社が最先端のピアノを贈った。エラート社は1820年代にダブルエスケイプ機構という現代ピアノにも通ずる最先端技術を持ってピアノ界を席捲していた。ショパンもリストもメンデルスゾーンもエラート社製ピアノを評価していたという。ブラームスのピアノ協奏曲第1番がハンブルクで初演されなかったのは、エラート社製のピアノが調達出来なかったからという指摘もあるほどだ。

ロベルト・シューマンの妻にして当代屈指のピアニストにメーカーが自社製品を提供するのは、自然なことにも思える。ロベルト・シューマンの没する直前にもかかわらずクララはこれを受けたと思われる。

最先端のエラートを手に入れたクララは、新婚時代から愛用していたコンラート・グラーフ社製造のピアノを、ブラームスに譲った。ハンブルク近郊のハムの下宿に運ばれたようだ。1862年のウィーン進出にあたって、ブラームスはこれをハンブルクに残した。1871年のウィーン万博では「シューマンのピアノ」として展示され、会期終了後ブラームスはウィーン楽友協会に寄贈し、現代に伝えられた。

このときロベルトは既に入院中だったから、新婚時代の愛用のピアノをブラームスに譲るという判断は、クララが単独で下したと思われる。

2019年12月 3日 (火)

ドレスデナー

綴りは「Dresdener」だ。地名「ドレスデン」に形容詞語尾「er」がついて、「ドレスデンの」という意味の形容詞となる。ビールの銘柄などこのパターンをよく見かける。このほどお菓子でこれを体験した。クリスマスを待つ4週間のお菓子シュトーレンだ。最近日本でも見かける。おしゃれなパン屋さんばかりかケーキ屋さんにも置いてある。自家製だとそれなりの貫禄が出る。

季節が来るとあちこ食べ比べるのだが、都内某ショップで決定版を見つけた。本場ドイツからの輸入品だ。シュトーレン発祥の地ドレスデン産を歌っている。「DLG」ドイツ農業協会のお墨付きのロゴがまばゆい。

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味が最高だ。他の国産が一気にかすむ。粉砂糖の具合と言い、ドライフルーツやナッツのハーモニーが最高。コーヒーにもあう。

 

 

 

 

2019年12月 2日 (月)

徒歩旅行

さまざまな移動手段がある中、あえて徒歩を選んだ場合に「徒歩旅行」と称されることになる。徒歩が当たり前だった時代にも経路によっては船という選択肢が存在した。ブラームスの時代はというと、飛行機と自動車だけは一般的でなかったが、船、馬車、自転車、鉄道は選択肢として十分な可能性があった。1853年以降ブラームスは立て続けにライン地方を訪れている。

  1. 1853年8月26日 単独
  2. 1854年8月10日 ユリウス・オットー・グリムと。
  3. 1855年7月15日 クララと。
  4. 1857年7月12日 クララの遺児のうち男の子、クララ、姉エリーゼと。
  5. 1868年9月4日  父と。

このうち1番2番3番が「徒歩旅行」だったと明言されている。

ライン地方は現在でもドイツを代表する観光地だ。そして何よも何よりもドイツを代表するワイン産地でもある。これらに言及する伝記の記述が具体的な地名を明記していないのは残念というほかは無い。もちろんブラームスご一行とワインの関わりについても言及されない。まだブレーク前のブラームスに高級ワイン三昧は難しいかもしれないが、真夏のこの地区に徒歩で足を踏み入れながらワインを口にしていないとなるとそのほうが余程不自然だ。

5番目は書物によっては「ラインガウ」と明記されている。1865年という最優良ヴィンテージのワインを賞味出来た可能性がある。ドイツレクイエム初演成功とハンガリア舞曲のブレークで少しは金回りが良くなっていたハズだ。

 

 

2019年12月 1日 (日)

どんぶり勘定

ブラームスは大抵の管弦楽曲について、自らの手でこれをピアノ用に編曲している。独奏であったり連弾であったりはまちまちながら、その対象は一部室内楽にまで及んでいる。ハイドンの主題による変奏曲や、ピアノ五重奏のようにどちらを主とするか容易に決定出来ないケースもある。しかしながら、大抵はフルメンバーよりは気軽に作品の輪郭を捉えることが出来る縮小版という側面が大きい。ブラームス自身もそう考えていた節がある。最新の管弦楽曲や室内楽曲をクララ・シューマンに自ら聞かせるために、オリジナルと平行してピアノ版が作成された可能性大なのだ。

オリジナルをピアノ版に転写する際の心得を、親しい友人の一人に語っている。「ブラームス回想録集」第1巻104ページのジョージ・ヘンシェルの証言だ。「大管弦楽曲の全ての声部を全部ピアノ版に盛り込んだところで、そんなものは大名人にしか弾けやせん」「全ての声部が対位法的に正しく動いているかどうかなんぞどうでもいいんだよ」作品の輪郭が大づかみに出来ることこそが大切だと言わんばかりである。巨匠ブラームスのどんぶり勘定が微笑ましい。

対位法の大家ならではのお話である。

 

 

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