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2019年12月 4日 (水)

お下がりのピアノ

1840年ロベルトとクララの結婚を機に1台のピアノが2人に贈られた。ウィーンのコンラート・グラーフ社が1839年に製造したピアノだ。1853年10月1日デュッセルドルフのシューマン邸を訪れたブラームスが、2人の前で弾いたのは、このピアノだと思われる。

1856年4月クララは入院中のロベルトを残して単身で渡英し3ヶ月に及ぶコンサートツアーに出た。7月に帰宅したクララにパリのエラート社が最先端のピアノを贈った。エラート社は1820年代にダブルエスケイプ機構という現代ピアノにも通ずる最先端技術を持ってピアノ界を席捲していた。ショパンもリストもメンデルスゾーンもエラート社製ピアノを評価していたという。ブラームスのピアノ協奏曲第1番がハンブルクで初演されなかったのは、エラート社製のピアノが調達出来なかったからという指摘もあるほどだ。

ロベルト・シューマンの妻にして当代屈指のピアニストにメーカーが自社製品を提供するのは、自然なことにも思える。ロベルト・シューマンの没する直前にもかかわらずクララはこれを受けたと思われる。

最先端のエラートを手に入れたクララは、新婚時代から愛用していたコンラート・グラーフ社製造のピアノを、ブラームスに譲った。ハンブルク近郊のハムの下宿に運ばれたようだ。1862年のウィーン進出にあたって、ブラームスはこれをハンブルクに残した。1871年のウィーン万博では「シューマンのピアノ」として展示され、会期終了後ブラームスはウィーン楽友協会に寄贈し、現代に伝えられた。

このときロベルトは既に入院中だったから、新婚時代の愛用のピアノをブラームスに譲るという判断は、クララが単独で下したと思われる。

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