うるう年4回目
今日は4年に一度の2月29日だ。ブログ「ブラームスの辞書」開設から4度目のうるう年である。
2033年5月7日のゴールまであと3回の2月29日が必要となる。まあ黙っていても2月29日は来るには来るのだが、その間記事更新を途切れさせないというのが一仕事だ。「実朝の手も借りたい」くらいの忙しさである。
さて、本日のこの記事をもって「令和百人一首」記事発信のハーフタイムを終える。明日から後半に入る。
« 2020年1月 | トップページ | 2020年3月 »
今日は4年に一度の2月29日だ。ブログ「ブラームスの辞書」開設から4度目のうるう年である。
2033年5月7日のゴールまであと3回の2月29日が必要となる。まあ黙っていても2月29日は来るには来るのだが、その間記事更新を途切れさせないというのが一仕事だ。「実朝の手も借りたい」くらいの忙しさである。
さて、本日のこの記事をもって「令和百人一首」記事発信のハーフタイムを終える。明日から後半に入る。
ブログ「ブラームスの辞書」にカテゴリー「422 源実朝」を創設した。私の家族、森鴎外に続く日本人8人目である。自らの還暦と令和改元を記念する企画「令和百人一首」の選定を通じて広がった源実朝への敬意を表すためだ。非音楽、非ブラームスではあるのだが、無理を承知の実朝ネタの発信は今後も途切れることはない。
一昨日今上陛下の誕生日に、わが「令和百人一首」をエア奏覧した。恐れ多くも陛下と私は同い年。サラリーマンの私が還暦だ定年だと騒いでいるそのとき、陛下はご即位あそばした。ここから象徴天皇としての責務を果たされてゆく。静かにしかしきっぱりとその決意を口にするお姿にただただ心を打たれたところだが、もっと身近にそういう人がいた。
母である。
私が妻を亡くしたとき、60歳だった母は父とともに私の幼い子供たち3人を養育するということになった。その後およそ1年半で、父が他界してからも祖母として孫三人を慈しみつづけてきた。60歳から子育てをリピートしたということになる。
そして今も、現役の主婦を続けながら家族統合の象徴として君臨する。そう母の生前退位はまだ遠い。
2020年オリンピックイヤー。国民的行事と位置付けられて準備が進んでいるが、それだってやがて終わる。ここに謹んで提案したいことがある。
令和改元を記念して今上陛下の命で23番目の勅撰和歌集を編纂してほしい。
ネット環境フル活用で、広く国民から和歌を募集し、当代一流の撰者が集まって20巻1500歌程度を選んで出版してほしい。ネット公開も考えてもいい。なにか国際的に問題を引き起こすのだろうか。あるいは法的な問題があるのだろうか。内閣総理大臣の執奏に、陛下が答えるという形の勅撰なら象徴天皇制に抵触するとも思えない。
部立ては現代風にアレンジするのもいいだろう。「春夏秋冬」は決定として、「恋」は思い切って省く。それから部立てとしての収まりについて議論の余地もあろうが「青少年」を切り口にしてもいい。中高生枠に100首程度。歴史上の歌人枠として300程度。皇室枠として100程度。撰者枠も20程度。いっそ思い切って一人の入集は1首としてもいいかもしれない。歌会始のお歌は検討の対象だ。
当然、過去の勅撰入集歌は対象外だ。
オリンピックの準備と開催に比べれば費用は安くすむのではあるまいか。
「奏覧」とは、天皇の命令で選定された「勅撰和歌集」が完成したのち、選集を命じた天皇にお見せし承認いただくことをいう。天皇のお気に召さない場合にはダメ出しもあり得たが、これをもって勅撰和歌集は正式に完成と見なされる。勅撰和歌集ならではのとても大切な儀式だ。
私の「令和百人一首」は天皇の命令ではない。だから奏覧も何もあったものではないのだが、令和初めての天皇誕生日に際して発信する本記事をもって、「令和百人一首」を今上陛下に奏覧奉るつもりとする。つまり「エア奏覧」だ。
「令和百人一首」の作成を思い立ったときはまだ、平成だった。その後改元の10連休から選定を始めた。同時に即位に伴う一連の儀式を見聞きするにつけ、心が揺さぶられたと告白する。生前退位ならではの人々の笑顔、皇居に押し寄せる人の群れ。普段気にも留めない天皇の存在が、和歌史を勉強する心にみるみるしみ込んできた。こちらは還暦、定年退職の記念であるのに対し、同い年の陛下はここから即位するという話の大きさに圧倒された。
だから、今日お誕生日をお祝いするとともに、謹んで謹んで謹んで謹んで謹んでわが「令和百人一首」を献上し、エア奏覧とする。
「山は裂け海は浅せなむ世なりとも君に二心我があらめやも」SWV663の心境だ。
「令和百人一首」に自作をこっそりしのばせて撰者を気取った。源実朝と見開きペアにして、後鳥羽院と裏合わせという絶妙の位置に自分を置いた。定家が小倉百人一首に自作を選んでいるのを真似た。しかしあちらは勅撰入集歴代第2位にして勅撰撰者二度の大歌人だ。一方こちらは申すまでもないド素人。ただただ源実朝の隣に居たいという思いの現れだ。
来ぬ人も惜しかささぎのしだり尾の長き綱手を引けば実朝
これが私の歌。
定家、後鳥羽院、家持、人麻呂、実朝の小倉百人一首のお歌からエッセンスを拝借し、最後に実朝の名で体言止めをかました。令和百人一首の選定を通じて感じた和歌という文化への敬意、大歌人たちへの畏敬をこめた五重本歌取りである。「定家、後鳥羽院、家持、人麻呂、素晴らしい和歌の伝統があるけれど、私は実朝を愛します」と言いたいだけの字数合わせにぞありける。
昨日「見開き二首」が歌合せにテイストになっていると書いた。本を広げて同時に見渡せる見開きの便利さを利用した。一方、一枚の紙の裏表にも隠しテーマが設定されていることがある。「1&2」「3&4」の見開きに対して「2&3」「4&5」の要領だ。便宜上「裏合わせ」と命名してある。時代順が経糸、歌合せが緯糸だとするなら、裏合わせは微妙な刺繍。全部にテーマが設定してあるわけでもないから、スパイス的な位置づけだ。
この手の制約を苦にせず、逆に楽しむというのはすこぶるブラームス風だ。
見開き左側に1番を置く。右側には2番が来る。「3と4」「5と6」という具合に続き「99と100」でエンディングとなる。こうした組み合わせを見開き二首と命名した。毎日1本公開する記事に置かれた2首がそのまま「見開き二首」となる趣向である。定家も小倉百人一首の配列に持ち込んだ「歌合わせ」の概念だ。見開き二首には様々なテーマを忍ばせてある。「歌合せ」の「お題」みたいなものだ。だから「令和百人一首」は事実上「50番歌合せ」である。見開き二首で甲乙をつける勝負という趣向だ。
昨日話題にした「おおむね時代順」にくわえ、歌合せ見開き二首も配列上の制約になる。楽しくて仕方がなかった。
さて、50首の公開を終えて「令和百人一首」は今、ハーフタイムだ。
「概ね時代順」という配列は、小倉百人一首に習ったものだ。そもそも古い時代には、歌人の生没年が不明なことが多いから生年順や没年順の配列は難しい。さりとてお歌の詠まれた日も不確かで、詠年順はもっと難しい。ましてや歌人名やお歌の五十音順などにしては、台無しだ。だから飛鳥、奈良、平安、鎌倉という程度の大雑把な時代把握に従った。和歌史と日本史を再確認する作業に等しかった。
それでも日本史の確認と申して、歴史上の有名人を100名選び、歌を詠んどりゃせんかと探索し、それらを並べて終わりというものでもない。和歌史とのバランスはもっとも考慮した点である。さもないと武将の辞世全集にだってなりかねない。そして中身。たとえば有名人の辞世は得てして型にはまっている。そこに判官びいき補正がかかるから見る目がゆるみがちになる。「信長の野望」脳ではなおさらだ。歌それぞれについて初対面の人に15分は語れるようでないといけない。
それでも私自身「本歌取り」に弱い。大好きな歌人、大好きな歌が後世の歌人から本歌取りされているとき、躊躇せずにペアを組んだ。これにより時代順の枠組みがはずれる。100名100首の選定を終えた後の、配列決めが悩ましくも楽しい作業だった。歌番号イコール歌人の番号で、それはさながら背番号だ。背番号だと思うことで暗記が格段に楽になった。私は「44」だ。
サッカーの試合時間、全90分が45分ずつの前後半に分かれていることを、「45分ハーフ」という。それなら私の「令和百人一首」はさしずめ「50首ハーフ」である。1番中大兄皇子から50番藤原定家まで50首が終わって今ハーフタイムにあたる。小倉百人一首に採用されていた歌人26人はすでに登場させておいた。このあとの後半50首は、「小倉百人一首」以降の時代が対象になる。先に種を明かせば、もうこの先小倉百人一首に採用された歌人は登場しない。
定家が選択可能だった時代は前半で終わり、定家以降の時代からの50首が後半を構成するという端正な構成を意図した。
【049】藤原俊成
夕去れば野辺の秋風身に沁みて鶉鳴くなり深草の里
【050】藤原定家
見渡せば花も紅葉も無かりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ
【コメント】この親子歌合せで「令和百人一首」の前半を締めくくる。定家を最後に小倉百人一首収載の歌人は出ない。ここまで小倉百人一首収載の歌人は26名。つまり74名の収載を見送ったことに他ならない。前半は小倉と重複する時代ながら同一歌を選ばぬ意図があった。この手の配列上の仕掛けを作るのが楽しくて仕方がなかった。
まずは父の俊成。90歳を超える長寿で、息子世代においても歌壇の重鎮として尊敬を集めた。その死は新古今和歌集完成の前年だ。和歌集大成としての新古今を支えた後鳥羽院歌壇の歌人たちの多くを千載和歌集で勅撰デビューさせた撰者としての見識の高さに加えて、歌人としても別格で勅撰入集は422首を数え、貫之、定家に次ぐ歴代3位だ。和歌界のベートーヴェンと呼びたい。
その子が定家。新古今和歌集の撰者。勅撰入集は歴代2位の467首。第7番目でしかない「千載和歌集」での勅撰デビューであることを考えると驚異的だ。その上小倉百人一首の撰者だ。さらに新古今和歌集を和歌史上最大の金字塔とする向きも少なくないとなると、彼の功績は特筆の上、朱筆大書、加えてアンダーラインも要る。よって和歌界のワーグナーと認定する。鎌倉の源実朝は作品を京都の定家に送って指導を乞うた。曲がりなりにも征夷大将軍だった実朝からの付託に応じ、出来たばかりの新古今和歌集に加え、万葉集、古今集、様々な歌書を贈呈している。さらにだ。さらに実朝亡きあと、二度目の勅撰撰者となった9番目の勅撰和歌集「新勅撰和歌集」に実朝作品を25首も入集させた。田舎侍扱いしていないことは確実だ。定家のそうした扱いは以後の規範となり、それに続く12の勅撰和歌集すべてに入集を果たすことになる。
【047】順徳院
いかにして契りおきけむ白菊を都忘れと名付くるも憂し
【048】正徹
水無瀬川秋の形見を隠岐の海に咲き移ろはむ白菊の花
【コメント】後鳥羽院大好きなのは何も私だけではない。順徳院は後鳥羽院の皇子だ。承久の変に敗れて佐渡に配流されて同地で没した。定家に師事したひとかどの歌人でもある。小倉百人一首ではしんがりに位置する。「白菊」は父帝・後鳥羽院の象徴だ。その前提があるとないとでは味わいがまるで違ってくる。正徹は室町時代、京都東福寺の僧。歌壇の第一人者として8代将軍足利義政に厚遇された。本作に見える「白菊」もまた後鳥羽院を指す。それどころが後鳥羽院御製「見渡せば山元霞む水無瀬川夕べは秋と何思ひけむ」「我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け」を主題とする二重フーガだ。「秋の形見」とは紅葉で、「隠岐」から「置き」を想起させ、白菊とともに秋のツールをちりばめながらも、本当に言いたいのは「後鳥羽院大好き」の心情。だから字面につられて現代語訳をいじくりまわすのは野暮でしかない。心から共感する。
つまり「白菊歌合せ」
【045】後鳥羽院
我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け
【046】後水尾院
隠岐の海の荒き波風静かにて都の南宮造りせむ
【コメント】歌番号044の私は、045後鳥羽院とページの裏表にあたる。043実朝と見開きの位置、後鳥羽院と背中合わせになれて幸せだ。後鳥羽院は新古今和歌集の編纂を命じた上に実質上撰者だった。歌力、審美眼、歴史観、人脈どれも第一級のうえ、事実上源実朝の名付け親。だから和歌のシューマン。本作、歌に横溢する凛とした風情が帝王の覇気をうかがわせる。この歌のおかげで、「隠岐の海」といえば「波風が荒いもの」という常識が出来上がっていた。それが歌枕というものだ。450年隔てた後水尾院の脳裏にそれが無ければ絶対に詠めない歌。江戸時代の天皇で、昭和天皇に抜かれるまで歴代最長寿の天皇だった。字面としての「南宮」とは内裏の最重要設備・紫宸殿のことだ。しかしその「南宮」が第4句と結句に分断されているおかげで「みやこのみなみ」「みやつくりせむ」と訓ずるほかはないのだが、しっかりと紫宸殿を指していよう。隠岐の海の実景かどうかよりも、「波風静か」ということが大切。「波風静か」は「世の中の平穏」に通じるからだ。とはいえ何よりも何よりも「後鳥羽院大好き」の表明にほかならぬ。下手な現代語訳なんぞ振り回すのは愚の骨頂と心せよ。
「隠岐の海」歌合せ。
【043】源実朝
時により過ぐれば民の嘆きなり八大竜王雨止め給へ
【044】アルトのパパ
来ぬ人も惜し鵲のしだり尾の長き綱手を引けば実朝
【コメント】小倉百人一首の撰者・藤原定家は自作を選んでいる。それにあやかって私も自作を無理やりねじ込んだ。撰者の特権乱用で愛する源実朝との歌合せを強引に実現した。その実朝の全作品からたった1首を選ぶという難行苦行の末、たどりついたのが本作。1211年7月の豪雨にあたっての詠歌だ。「八大竜王」は雨を司る神様。日照りなら雨乞いをする相手なのだが、それが嵩じては、かえって民が苦しむからそこそこで切り上げてくれと頼み込む。本質的には「撫民」の歌なのだが、神祇歌のような香気も漂う。人間の代表として竜王に直談判する征夷大将軍源実朝はこのとき19歳。
10歳で小倉百人一首を暗記して始まった私の和歌体験は、50年を経た今、源実朝にたどり着いた。中学生からクラシックを聴き始め19歳で生涯の作曲家をブラームスと定めたように今、源実朝を生涯の歌人に決めた。令和百人一首選定で感じた和歌の歴史への敬意と実朝への思いを歌に込めた。あろうことか定家、後鳥羽院、人麻呂、家持、実朝の小倉百人一首収載歌を対象とした五重本歌取りと言いたいところだが、「定家、後鳥羽院、家持、人麻呂たち長い和歌の歴史はあるけれども私は実朝を選ぶ」とただ言いたいだけの字数合わせ。
実朝の勅撰和歌集デビューは新古今には間に合っていない。かといって次の「勅撰和歌集」で25首入集したときにはすでにこの世を去っていた。勅撰入集は13集にまたがる92首を数えるが、本人はそれを知らない。だから私がはしゃぐ。勅撰入集は歌人の格を便利に推し量る目安だが、鵜呑みは厳禁だ。でないと在原業平、後鳥羽院、大伴家持、崇徳院より実朝が上位に来てしまう。さぞうれしかろう。
源実朝を…
実朝を…「和歌のブラームス」と位置付けてやまない。
なんだか
泣きたい。
【041】慈円
眺むれば我が山の端の雪白し都の人よあはれとぞ見よ
【042】親鸞
明日ありと思ふ心のあだ桜夜半に嵐の吹かぬものかは
【コメント】慈円は摂政関白・藤原忠通の子。38歳で延暦寺管主に就任した。となれば本作にいう「我が山」とは当然比叡山だ。彼が都に降りてきて比叡山を見上げながら詠じたとされている。霊山比叡を我が山と断ずる気概こそが、根底にある。花も紅葉も無いが凛とした白は十分に哀れだと言っている。彼が執筆した歴史書「愚管抄」は当時を証言する第一級の資料であり続けている。勅撰入集269首を数える歌壇の中心人物であり、人格者であり、政権中枢のよき相談相手だった。亡き父はどうも僧侶好きだ。小倉百人一首の中で、寂蓮と慈円が筆頭格だった。
一方、親鸞は浄土真宗の開祖だ。本作は9歳の頃、師匠から「修行を明日にしたら」と言われて返した歌だ。「後回しにして今夜嵐が来たらどないすんねん」てなもんだ。見上げたリスク管理である。「あだ桜」で手厳しく油断をとがめられた師匠の名は慈円。
だから「師弟歌合せ」という寸法だ。
源実朝をお祀りした御首塚のとなりに、東田原ふるさと公園がある。売店で新鮮な野菜が売られている。何気なしに立ち寄ったところ、梅の鉢植えが目についた。太い幹につぼみがたわわだ。2500円。魅入られたように買い求めた。高いのか安いのかは関係ない。文字通り吸い寄せられた。実朝は何かと梅に関係がある。
君ならで誰にか見せむ我が宿の軒端に匂ふ梅の初花
まずは、こちら。実朝の側近だった塩屋朝業に贈った歌。庭の梅が初めて咲いた日に枝を添えて届けさせたという。「あなたにこそ見てもらいたい」と詠む。これは紀友則の「君ならで誰にか見せむ梅の花色をも香をも知る人ぞ知る」の本歌取りだ。価値のわかる人にこそ見せたいの気持ちを濃厚に含む。受け手がこの本歌取りを理解することが前提のプレゼントに決まっている。贈られた朝業は「うれしさも匂いも袖にあまりけり我がため折れる梅の初花」と返す。政治の実権はもっぱら北条氏に握られ云々と語られがちだが、かれこれ14年間も将軍の座にあったのだから、忠誠を尽くす家臣が居ても不思議はない。朝業は実朝の死をもって出家したという。
実朝の屋敷の軒近きその梅はよほど大切なのだろう。
出で去なば主無き宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな
吾妻鏡に載せられた源実朝の辞世だ。菅原道真の名高いお歌「東風吹かば匂ひ起こせよ梅の花主無しとて春な忘れそ」の本歌取りかとも思える。ひとかどの武人ともなると、いつ落命してもいいように、常に辞世を持ち歩いていたかとも伝わる。だから、実朝の御首塚のほとりで、梅の鉢植えを見たとき心が揺れた。実朝からの強烈なメッセージと思えた。この鉢植えは私に買われるためにここにいたと思った。
実朝のお参りに来たという事情を話すとお店の人は、車で持ち帰れるようにと有り合わせのダンボールに新聞紙を丸めて並べ、鉢が動かぬように固定してくれた。地元の人はここに実朝の御首が埋葬されたことをまったく疑っておらず、私の訪問を心から喜んでくれている感じがした。私はといえば、この梅をトランクになど押し込めるはずもなく、段ボールごと後部座席のシートベルトで固定して持ち帰った。メーターのディスプレイには後部座席に人が乗っているマークが点灯した。そうだ。その通り。実朝に決まっている。
源実朝から私への還暦のお祝いだと解さねばならぬ。
これで「みしるしづか」と読む。源実朝は健保7年1月27日、右大臣拝賀のために参拝した鶴ケ丘八幡で公暁に暗殺された。公暁は実朝の首を取り、三浦義村の邸宅にたどりついたところを誅殺された。鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」では実朝の首の所在は言及されていないが、神奈川県の秦野市に実朝の首を祀ったという五輪塔があると聞いて出かけた。それが「御首塚」だ。
セバスチャンまで神妙に見える。
特別に飾ったお花を手向け、これまたスペシャルなお線香を焚いて、心鎮めてお参りした。合わせて「令和百人一首」へのご加護をお願いした。周辺は公園状に整備されており、金槐和歌集に因んだ植物が植えられている。
あたりはゆったりとした田園風景。鎌倉時代の遺構が出土するなど、当時の有力御家人の本拠地だった可能性が高いと言われている。
【039】式子内親王
山深み春とも知らぬ松の戸に絶え絶えかかる雪の玉水
【040】宮内卿
薄く濃き野辺の緑の若草に跡まで見ゆる雪のむら消え
【コメント】賀茂神社斎宮として生涯独身であったが、さまざま詮索される式子内親王。当時の女子の宿命か「松」に「待つ」を掛けて歌うことが多い。本作もその流れ。「松」は「春を待つ」を暗示し、雪解け水を「玉水」と称して体言止めで締める。絢爛豪華な新古今世代にあって、定家、後鳥羽院、良経、家隆あたりに一歩も譲らぬ天才肌。彼女を始祖に、和歌の写実はますますその勢いを増してゆくかのよう。「新古今の和泉式部」かはたまた和歌の印象派か。
一方の宮内卿は後鳥羽院に才能を見出され、院主催の歌合せで活躍した。デビュー作と目される本作は、宮廷歌壇でセンセーションを巻き起こし、以来彼女は「若草の宮内卿」とあだ名された。二十歳そこそこで没したともいわれている。「跡まで見ゆる」「雪のむら消え」という新機軸。さらに緑を「薄く濃き」と細分して見せたのは史上初かも。名付けて「女子雪解け」歌合せ。
【037】寂蓮
寂しさはその色としも無かりけり槙立つ山の秋夕暮れ
【038】藤原家隆
いかにせむ来ぬ夜数多のほととぎす待たじと思へば村雨の空
【コメント】この二人は師弟。師の寂蓮は、叔父の俊成の養子となっていたが、定家の誕生で家督争いにならぬよう忖度してか、自ら出家したともいう。出家後も義父や義弟と円満な関係を続けた人格者。本作は「第三句否定」「秋の夕暮れ止め」の定型の元祖ともいうべき代表作だ。そもそも清少納言が「枕草子」で「秋は夕暮れ」と断言して以来、もののあわれの根幹とされ続けた。一年の斜陽である秋と、一日の斜陽の交点である「秋の夕暮れ」に人は物を思う。人生の晩年とも重なればもののあわれ感はここに極まる。寂蓮は小倉百人一首でも「秋の夕暮れ」が採用されていて、そちらを父はこよなく愛した。この時代にあって恋歌苦手はかなり異端だ。
弟子は小倉百人一首では「従二位家隆」とされている。藤原定家のよきライバルだ。その定家は撰者となった新勅撰和歌集において家隆を最多入集させている。また後鳥羽上皇から「和歌の師匠は誰がいいか」と尋ねられた摂政・九条良経が家隆を推薦したという。待っても来ない夜ばかりのほととぎすを待つまいと決めたら空模様が怪しくなったというユーモラスな味わいだ。掛詞、本歌取り、係結び、縁語など難解な技法を駆使するわけではなく、平易な言葉をシンプルに連ねるだけで歌になるという特技の持ち主。和歌のショパン。
【035】西行
願わくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃
【036】頓阿
跡しめて見ぬ世の春を偲ぶかなその如月の花の下影
【コメント】西行の94首は新古今最多で勅撰入集253の大歌人だが元は北面の武士。「新古今の人麻呂」かはたまた「和歌界のシューベルト」か。本作は辞世に準ずる扱い。「如月の望月」はお釈迦様の入滅にあやかるものと思われ、実際に彼は2月16日に没している。およそ280年隔てた頓阿は西行を慕い、西行ゆかりの地に庵を構えたと詠う。「跡しめて」の初句にそのことが込められている。実は私は「跡」に弱い。漢字1文字、2音ながらその意味は状況によりさまざまに変化する。本作は「令和百人一首」の「跡」初出である。第四句のみの一致だけで、西行辞世の本歌取りだなどとはしゃいでよいものか自信はないが、もはやそうとしか思えぬ脳味噌になり果てた。只者ではあるまいと思ったら、19番目の勅撰和歌集「新拾遺和歌集」の撰者を務めた室町初期の大歌人だった。「とんあ」と読む。本歌取り冥利に尽きる「如月歌合せ」である。
【033】平行盛
流れての名だにもとまれ行く水のあはれはかなき身は消ゆるとも
【034】正岡子規
敦盛の墓弔えば花も無し春風春雨播州に入る
【コメント】行盛は清盛の孫。壇ノ浦で討ち死にした。本作は都落ちの際に藤原定家に託したと伝わる。「せめて歌だけでも名を遺したい」とのメッセージに対して、定家は新勅撰和歌集に入集させてその付託に応えた。平家追討の詔が出ているから、さすがに新古今には採りずらかったかもしれぬ。およそ720年隔てる子規の歌もまた平家に因む。一の谷で撃たれた平敦盛の墓は須磨寺にある。敦盛の墓を訪ねたら花も供えられていないという無常と春爛漫の落差を詠む。雅の世界の常識として春は東から来る。だから摂津播磨の国境を越えて播磨にも春が来たかと。第三句に否定を置く定家以来の伝統に従いながらも、漢文調の4句目がきりりと引き締めて重厚な味わい。よもや「はるかぜはるさめ」とは読めまい。「しゅんぷうしゅんう」に決まっている。
「平家の悲劇歌合せ」である。
お歌とは関係がないが、子規という人は大の実朝ファンだ。「歌詠みに与ふる書」の中で実朝を大絶賛する。だからはずせぬ。
【031】平忠盛
有明の月も明石の浦風に波ばかりこそ寄ると見えしか
【032】平忠度
行き暮れて木の下影を宿とせば花や今宵の主ならまし
【コメント】第4クールに入る。今度は平家だ。「親子歌合わせ」とする。まずは父忠盛。清盛の父でもある彼は相当な歌人。本作は鳥羽天皇から「明石はいかに」と下問されて答えた歌だ。天皇から直接下問されるという立場もさることながら、歌で返すという機転も素晴らしい。そしてその歌には「歌枕」「掛詞」「縁語」「係り結び」など歌の技法4種類が盛り込まれるという手の込んだ代物。天皇ご下問の歌枕「明石」は月が「明るい」に掛けられ、さらに「波」の縁語「寄る」は「夜」に掛けられるという対位法的テクスチャ。念押しとばかりに「こそ」が已然形「しか」で結ばれる。武士の嗜みというにはあまりに華麗。平家物語にも引用されて盤石だ。
息子・忠度(ただのり)は、薩摩守だ。無賃乗車つまり「ただのり」を「さつまのかみ」というのは本人に責はない。だからではなかろうがこれは旅の歌。一の谷の合戦で討ち死にした際に兜に箙(えびら)に縫い付けてあった歌と伝わる。名のある武士はいつ死んでも恥をかかぬようにと、辞世にと欲する歌を常に身に着けていたとされる。千載和歌集・撰者の藤原俊成の武士に対する温かな扱いを象徴する。
昨日、英国がEUから離脱した。2016年の国民投票から難産の末の離脱だ。真価が判明するのはまだ先なのだろう。良い方に向かえばと願うばかりである。
本日妻の命日。没後24年にあたるのが土曜日ということもあって墓参して還暦と「令和百人一首」の完成を報告することとする。和歌に興味があったわけではないから、なんというだろう。
最近のコメント