令和百人一首33
【065】足利義満
頼むかな我が源の石清水流れの末を神に任せて
【066】足利義政
更に今和歌の浦波収まりて玉拾ふ世に立ちぞ帰らむ
【コメント】この二人祖父と孫。まずは祖父の足利義満。「足利氏が源氏の末裔である」という強い自負と、自らがその棟梁であるとの自覚で出来た歌。京都の石清水八幡が源氏の氏神であるという基礎知識をもって味わうべき。一族の未来への加護を願い出ている。三代将軍義満の時代、室町幕府は政治的頂点を迎える。その孫義政は、政治的に不遇で応仁の乱を招いたと一様の記述の一方で芸術活動に専念し云々と教科書に載っている。鵜呑みはおろかだ。建築、絵画、和歌、茶の湯、連歌、能の第一人者だ。本作は和歌の退潮を嘆く意図がある。和歌の聖地、紀州「和歌の浦」の波が収まると切り出してそこをつく。五七五七七の律動の切れ目と意味の切れ目がずれている。言わばシンコペーションだ。「1.5句切れ」とでも申すか。「玉拾ふ」は優秀な和歌を集めるの意味で、具体的には勅撰和歌集の作成を指す。新古今集の完成時に序文執筆の九条良経が詠んだ「敷島の大和言葉の海に出て拾ひし玉は磨かれにけり」の本歌取りかと。「玉拾ふ」は、たしかに「秀歌収集」の意味で使われている。実際義政は後花園天皇に勅撰和歌集の選出を執奏し、天皇の下命に至ったが、応仁の乱で幻となった。
もうひとつ絶対に義政をはずせぬ理由がある。その切り口は源実朝の歌集「金槐和歌集」だ。古くから流布した定家本の他に貞享本がある。奥書きには「柳営亜槐」と署名されている。だから別名「柳営亜槐本」ともいう。歴代の勅撰和歌集には定家本には収載がなく、柳営亜槐本にのみ存在する作品が8首見えるからバカにしたものではない。その「柳営亜槐」は「幕府にあって大納言だった人」の意味だが、それを義政にあてる説がある。15歳から23歳の間の義政の官職に一致するという。賛否あるからくれぐれも鵜呑み厳禁だけれども義政という学説が打ち出され、そこそこの賛同もあるというだけで義政のキャラがそれなりだとわかる。だから彼は和歌のシェーンベルク。
« 令和百人一首32 | トップページ | 令和百人一首34 »
コメント