呪文としての「ぞ」
「脳内補正語」第3弾。
今回の「令和百人一首」で無念の落選筆頭格が紀友則。小倉では「しづ心無く」の人だ。もし収載していたら以下のお歌にするはずだった。
君ならで誰にか見せむ梅の花色をも香をも知る人ぞ知る
「梅の花の価値を知っているあなたにこそ見せたい」と言う程度の意味。源実朝はこれを本歌取りして
君ならで誰にか見せむ我が屋戸の軒端に匂ふ梅の初花
と詠んだ。庭の梅を折って側近の塩屋朝業に贈った際に添えた。贈られた朝業は返す。
うれしさも匂ひも袖に余りけり我が為折れる梅の初花
受け手の喜びはいかばかりか。友則の元歌を知っていると嬉しさも倍増だ。「あなたには贈る価値がある」と認められたのだから。この人実朝の暗殺後、出家して信生と名乗った。勅撰入集10首の歌人でもある。
前置きが長くなった。友則の元歌の焦点に「ぞ」がある。「知る人ぞ知る」だ。現代でも旅番組の芸能人がとっておきのカフェを紹介する際になどに、「知る人ぞ知る」と使い回される。文法的には「係助詞」で、連体形での結び要求する。意味は「強調」だ。語調の整えの効果も大きい。字足らず回避の切り札とも見える。迂闊な字足らずを放置するくらいなら「ぞ」を挟めよって感じ。逆に「ぞ」を挟んだ結果としての字余りならありかも。
さまざま状況で趣を添えてやまない「打ち出の小づち」だ。
ブラームスで言うなら「rf」「リンフォルツァンド」だ。「スフォルツァンド」と違ってダイナミクスの増強を意味しないまま、大切な音を指し示す機能がある。「ブラームスの辞書」では「瞬間型マルカート」と認定している。
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