中学生読者
ブログ「ブラームスの辞書」は昨日、創設から満15年の記念日を迎えた。記事の更新に一日の抜けも無くである。ということは15歳以下の読者、つまりおよそ中学生以下の読者については、誕生日当日の記事が必ず存在することになる。このような弱小ブログに中学生の読者がどれほどいるかわからぬが、めでたい。3年後には高校生全員、そして7年後には大学生全員をカバーする計算になる。
これを楽しみと思えぬようならブログの管理人など務まらぬ。
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ブログ「ブラームスの辞書」は昨日、創設から満15年の記念日を迎えた。記事の更新に一日の抜けも無くである。ということは15歳以下の読者、つまりおよそ中学生以下の読者については、誕生日当日の記事が必ず存在することになる。このような弱小ブログに中学生の読者がどれほどいるかわからぬが、めでたい。3年後には高校生全員、そして7年後には大学生全員をカバーする計算になる。
これを楽しみと思えぬようならブログの管理人など務まらぬ。
ブログ「ブラームスの辞書」は、2005年5月30日の開設だ。だから本日は開設15周年の記念日である。昨日の記事が「ベストフィフティーン」だったのは、ささやかないたずらだ。
開設から15年経過したブログは山ほどあるだろう。ブログの起こりが1990年代末期だという通説を信じるなら、25周年のブログだって存在するはずだ。
しかし、開設の日から記事の更新が1日も途絶えることなく15周年を迎えるとなると、そうざらにはないケースだと考えている。見ての通りの凝り性である。
「令和百人一首」選定を通じて会得した和歌観を総動員して「私的歌人ベスト15」を選ぶ。採用した歌の評価ではなく、歌人の序列だ。
こんな感じ。およそ生年順に並べた。フィフティーンはラグビー風なので女子は除外した。万葉集からは家持ただ一人。古今集からはゼロ。紀貫之も落選だ。私の脳味噌がこういう組成だということである。源頼政、後嵯峨院、京極為兼、伏見院の4名は小倉百人一首に収載が無い。
何故15名なのか。それはラグビーだ。ご記憶か。たった半年前、この国は「ワンチーム」という言葉を皆が連呼していた。照れ隠しに「にわか」と前置きしながら皆がラグビー日本代表の躍進を喜んだではないか。
それなのに今、世の中ぎすぎすしている。
もう一度力を結集したい。だからフィフティーン。
黙って以下のリストをご覧いただく。
全て「令和百人一首」収載の歌人である。ウィキペディアで「蹴鞠」を検索すると、項末に「蹴鞠を得意とした人」のリストがある。そのリスト記載の人物のうち「令和百人一首」収載の人物を数えたら偶然11人だったということだ。見れば見るほど華麗である。そのリストの登場順にならべたに過ぎないが、崇徳院と明治天皇のツートップに見えなくもない。となると実朝はボランチか。
新古今和歌集の完成は元久二年だ。この年に完成披露パーティが開かれているのだが、まだ序文は完成していなかった。このあと「切り継ぎ」と呼ばれる改訂作業が延々と続いたし、隠岐の島配流後の後鳥羽上皇がこれぞ決定版と自負した「隠岐本」まである。何故に無理矢理完成披露を急いだのか。それはその年が「古今和歌集」成立300年に相当するからだ。古今和歌集の成立は西暦に直すと905年だ。かの元久二年は西暦1205年にあたる。日本史でさえ西暦での暗記が定着しているから気づきもしないが、1205-905の引き算が成立することに何の不審も感じない脳みそをリセットする必要がある。これを日本の元号で管理すると以下の通りとなる。その年号が始まった年の西暦を付しておく。
という具合である。ひとまず歴史の教科書に出がちな元号を赤文字にておいた。令和改元でも記憶に新しいところ、改元して正月が来ればもう「二年」になる。上記39番目と40番目でも明らかなとおり、1年に二度改元という例もある。二年連続の改元だって珍しくないので、元号〇年というところの「〇」の部分を単純に足し算しただけでは全く使い物にならない。元久二年が延喜五年から数えて300年後にあたるとわかるには、確固たる年号のルールと管理が不可欠だとわかる。
そしてさらに押さえておきたいことがある。古今集と新古今の間が300年あるのに対し、万葉集成立と古今集は100年程度の間隔しかないことだ。万葉集の成立は諸説ある。8世紀末から9世紀初頭で仮に8世紀真ん中750年まで遡っても古今集とは150年しか離れていないということだ。古今と新古今の間300年と一口に言うが、バロックの始まりが1600年で、1900年がロマン派の終焉だと考えると、とても長いとわかる。
ある意味ほぼ「べたな展開」だ。ここまでの記事の流れからして当然の帰結。私は新古今和歌集が好きだ。
勅撰和歌集21に加え、準勅撰の新葉和歌集に万葉集を加えた23の和歌集の中で、新古今和歌集を最も愛する。10歳で小倉百人一首を暗記して始まった私の和歌ライフは、その後高校時代に万葉集に展開し、そこから現代短歌に飛び火した。30歳になるまでに数千の歌を詠んだが、そこで挫折してそれっきり放置した。クラシック音楽への傾斜もあって、和歌は脳内マインドシェアを下げた。
令和改元と還暦を機に、百人一首自選を志し、抽出を進める中から、私自身の歌の趣味が、図らずも確定していった。「断固新古今」だ。後鳥羽院を中心とするサロンは百家争鳴で華麗だ。飽きることはない。古代から現代まで続く和歌の歴史上、特筆すべき「極盛期」を形成すると断言する。
そこに至る「千載和歌集」とその後の京極派「玉葉」「風雅」が広大な裾野を形成するという構図を思い描いている。
思えば音楽でもそうだった。単にクラシック好きといって情報収集するより、誰か好きな作曲家が居て、そこを根城にあれこれ深堀りするほうが、圧倒的に効率がいい。音楽ならブラームスである。すでにドヴォルザークやバッハに展開した。和歌は源実朝である。実朝しか知らずに「実朝好き」と連呼するのはいかがなものかと思い、まずは和歌史を学び、壮大な和歌史の流れにそっと実朝を置いてみた。それでもやはり実朝を愛するかと自問する中でのみ「実朝ラヴ」を主張し得る。
浮かび上がったのは「新古今にタッチの差で間に合わなかった実朝」だ。10代で「新古今」「古今」「万葉」をはじめとする和歌史の堆積物を、効率よく吸収し、それらをベースに個性を開花させたと実感できた。実朝を万葉調と決めつけることへの違和感も芽ばえた。
和歌史への深い深い敬意と、新古今大好きのフィールドあってこその実朝だ。万葉礼賛が一般化している今、「嫌い」というと理由を訊かれるのが万葉集で、「好き」というと理由を訊かれるのが「新古今」ではあるのだが、思えば嫌いというと理由訊かれるモーツアルトで好きというと理由を訊かれるブラームスであることを思うと断固新古今だ。
10歳で「小倉百人一首」を暗記した。思うに「軽々」だった。作者、意味、背景は完全無視の呪文状態。初句を言われて下の句までスラスラという形態だった。中学に入るまでには作者と紐付いた。「鎌倉右大臣」が源実朝のことだと知った日の喜びは今も鮮明だ。
この度還暦を機に発意した「令和百人一首」の裏の目的は、自分の脳味噌の訓練だった。小倉暗記から50年を経た脳味噌が「令和百人一首」を暗記できるかというチャレンジである。結果から申すなら、あっけなく暗記できた。暗記の形態は「三角暗記」とでも申せよう。「作品」「作者」「歌番号」の3点セットで、どれを言われても残り2つを言えるというのがゴールであった。
キーは歌番号だ。自ら選定配列した「令和百人一首」の歌番号なのだが、まずこれと歌人が真っ先に紐付いたことで暗記がみるみる進んだ。やってるあいだは「歌番号」などと思わずに「背番号」だと感じていた。歌人に付与したゼッケンである。「1王貞治」「3長島茂雄」「51イチロー」さらに「14クライフ」「5ベッケンバウアー」「10ジーコ」とくれば何故暗記が容易になるか説明不要だ。
50年前の丸暗記とは味わいが違う。収載の100首に加え落選側の歌もかなり暗記がすすんだ。
和歌はそらんじていてこそ意味がある。喜怒哀楽、絶景に美味など人生のスパイスに接したとき、ふさわしい歌を瞬時に思い出せるのは心豊かになる。その引き出しが還暦過ぎに増えたことは本当に意義深い。ブラームスやバッハの作品と同類である。
「ほむしとくつにものまね」だ。なんかのおまじないにしても奇妙だ。これは小倉百人一首でいうところの「むすめふさほせ」にあたる。
読み手が一文字目を発音した瞬間に下の句を記した取り札に殺到出来る歌だ。各々の歌いだしの文字を順につなげると「むすめふさほせ」となる。
これを我が「令和百人一首」でやってみたら「ほむしとくつにものまね」となった。
以上だ。実際にカルタ取りされることがあるとは思えないがお遊びとして優秀だ。小倉側3番と令和側1番が同一人物・紫式部さんのグッドジョブである。
藤原定家の息子・為家の相続に際して、お家騒動が持ち上がった。和歌の家元の内輪揉めだ。結果として、御子左家は、二条、京極、冷泉の3つに分家することになった。皇統が大覚寺統と持明院統に分裂したこととも重なって事情が複雑化したともいう。和歌の家元の最大のお仕事は、勅撰和歌集の撰進だ。撰者が単独なのか複数なのか、撰者が誰になるのかに皆、戦々恐々と腐心する。結果として二条家と京極家が持ち回りという体制になる。
京極派とはこのうちの京極家の歌風のことだ。為家の孫、為兼を始祖とする。徹底的な写実を旨とする歌風で、とりわけ叙景に優れていたと評価される。
10番目と11番目の勅撰和歌集を為家らが務めた後、12番目以降持ち回りになったと見ていい。14番目為兼が撰者となった「玉葉」と、17番目光厳院親撰の「風雅」が、京極派の仕切りによるものだ。
源実朝の作品が積極的に採用されていることから興味を持って鑑賞し始めたが、どうも新古今の正当な継承者かのような気がする。うまく説明できないのがもどかしい。
まずは以下のリストを見ていただく。記事「同期11人衆」で取り上げた「令和百人一首」収載歌人の内「千載和歌集」で勅撰デビューした歌人のリストだった。
このうち、定家、家隆、寂蓮が新古今和歌集の撰者になっている。「令和百人一首」から漏れたが、飛鳥井雅経、藤原有家も千載デビューから新古今撰者に列せられた。記事「後鳥羽院歌壇」でのべたサロンのメンバーとも重なる。
前置きが長くなった。彼らを勅撰集に選んだのが藤原俊成だ。申すまでもなく定家の父だ。1114年の生まれながら、1204年に没するという長命で、長く歌壇の重鎮として尊敬を集めた。勅撰入集は歴代3位の大歌人ながら、このリストを見れば人を見る目「眼力」も「超一流」とわかる。「新古今」を準備したと断言したところで、さしたるお叱りは受けまい。
「令和百人一首」では心からの尊敬をもって和歌のベートーヴェンと認定した。
昨日、恐れ多くも後鳥羽院を歴代天皇最高の詠み手と認定した。歌人としての位置づけに加え、新古今和歌集に投影された、彼の歴史観、和歌観、審美眼も顧慮しての選定だった。彼のサロンを後鳥羽院歌壇と呼ぶ。この時代の和歌は政治と密接不可分。和歌好きの最高権力者の周りにサロンが形成されるのは当然の成り行きだ。新古今和歌集の編纂を目的とした和歌所に当代一級の歌人を集めた。
さらに政界トップの九条良経、比叡山の重鎮・慈円。女子では、式子内親王、宮内卿、俊成女の華麗な顔ぶれ。扇の要にいまだ健在の藤原俊成が鎮座する。
新古今和歌集は、このサロンの総力を結集した果実と位置付けられねばならない。
「御製」とは大好きな言葉だ。「天皇のお歌」のことである。「令和百人一首」には以下の12首を採用した。
以上だ。ここ採られた歌の巧拙優劣を論ずるのは棚に上げて、歴代天皇最高の詠み手は誰だろう。
上記はいわば、ノミネート。私は圧倒的に後鳥羽院だと思う。歌も大好きだし、和歌史上に燦然と輝く「新古今和歌集」の下命者兼撰者。歴史観、審美眼、リーダーシップどれをとっても第一人者。同時に日本史一般においても承久の変の主役だ。崇徳、伏見、後嵯峨、光厳あたりが二番手グループという感じ。
お叱り覚悟でござる。
まずは、以下のリストをご覧いただく。
いかがだろう。11人なのでまさかサッカーでもとは思わぬが、なんとも香ばしいではないか。このメンバーを見てしみじみ出来る自分が嬉しい。
勅撰和歌集に採用された歌の数を「勅撰入集」として注目してきたが、最初にどの勅撰和歌集に採用されたかにも注目している。最初の勅撰和歌集「古今和歌集」収載の歌人たちはみな「古今集」が勅撰デビューになるという弱点もあるし、古今以前の歌人たちの勅撰デビューは、撰者の判断次第なのが難点だが、第二勅撰和歌集以降最後の勅撰和歌集までは、目安として十分機能する。
「令和百人一首」収載の歌人の中で上記11名はみな、第七勅撰和歌集「千載和歌集」で勅撰デビューの歌人たちだ。私が「千載和歌集」を好きな理由の大半はこれで説明がつく。
私の造語だ。「令和百人一首」選考の過程で、古今の秀歌に数多く触れ、なんとか100首抽出に漕ぎつける作業の中から、作り上げた私的鑑賞ポイントともいうべきか。「これが使われている歌は、脳内補正がかかって入集しやすくなる」程度の意味だ。「脳内補正語」と銘打った記事が18本となったが、そうしていない記事の中にもあるのでとりまとめておく。
これらは鑑賞の横串だ。複数の作品に現れる。これらを見ると私の脳みそのアンテナがピピッと反応する。「令和百人一首」選集の過程で露呈したものだけに限っているけれど、本当はもっとある。
同じことを音楽用語で実行したのが「ブラームスの辞書」だ。ブラームスの楽譜に現れる「脳内補正語」を効率的に捕捉追尾するためのツールが「ブラームスの辞書」であった。
小倉さんちでは「おほけなく憂き世の民におほふかな我が立つ杣に墨染の袖」がとられている「前大僧正慈円」である。とにかく亡き父はこの歌が大好きであった。この人の父は関白藤原忠道で「わたのはら漕ぎ出でてみれば久方の雲居に紛ふ沖つ白波」の人だ。38歳で比叡山の管主に就任するなど仏の道の最高峰の人だと思っていい。大学受験では歴史書「愚管抄」の著者として記憶した。幕府とのいたずらな対立を望まず、しばしば後鳥羽院をいさめたとも伝わる。かなりな人格者であった他、何より歌人としても超一流だ。勅撰入集269が実力のほどを示すほか、即詠の名手としても知られ、打てば響くかのような機知も評価されていた。私的に大切なことは、大好きな九条良経の叔父で、良き相談相手だったということだ。
久寿二年四月15日のお生まれ。これを現代の暦にすると1155年5月17日ということになる。本日はお誕生日だ。
「脳内補正語」第18弾。歌枕とは「和歌に現れる地名」のこととひとまず定義する。しかし、本来は和歌の世界で承認されたものだけを指していた。特定のイメージを添える働きが期待されていた。たとえば「吉野」といえば「桜」で、現実の吉野に梅がどれほど美しく咲いていたとしても「吉野の梅」を詠むことはない。歴史、故事、語呂などさまざまな要因によって長い間に規定されてきたものだ。
さて「令和百人一首」に登場する歌枕を五十音順に一覧化しておく。収載歌番号に加え現在のおおよその位置も付記する。
ほれぼれだ。地名が出るとテンションが上がる。小倉さんちとの重複は「須磨」「奈良」「陸奥」くらいか。密度としては西高東低だ。宮廷文化の投影であることを考えると健全である。源実朝には、さすがに「伊豆」「箱根」「鎌倉」「足柄」「那須」などが出て来るけれど、普通は大抵西寄りになる。もっと注意すべきは、歌枕が詠み込まれるに際して、歌人本人に現地訪問の経験があるかどうかは問われないということだ。源実朝は箱根以西に出かけていないが、西日本の歌枕が頻繁に出て来る。写実ではないと言われればその通りではあるけれど、私の地名好きは微動だにしない。
「脳内補正語」第17弾。まさか「立って帰る」ことだとは思うまい。「令和百人一首」には以下の通り用例がある。
動詞「立つ」と「かえる」の複合なのだが、「立つ」の側に英語でいう「stand」の意味なんぞ無いも同然だ。「立つ」ならば」他にもたくさん出て来るけれど、その主体は「波」「夏」「真木」「民」「霞」「春」など様々だ。複合相手の動詞と共同して微妙なニュアンスを添える「微調整」に徹していると思う。「stand」にとらわれて理解をいじくりまわすとロクなことはない。上記3では「立つ」と「かえる」の間に「ぞ」まで挟んで強調していはいるが「stand」の意味なんぞ一顧だにされていない。「立ちかえる」で味わうべきだ。
「立ちかえる」に限らずこうした複合動詞は、元の動詞の意味を複合した形に惑わされてはいけない。
形として二つの動詞の複合には違いあるまいが、意味は単なる足し算であるまい。長い慣用の末に個別の意味を獲得しているように見える。
「脳内補正語」第16弾。まずは以下の「令和百人一首」収載の11首。
「掛詞」を巧みに用いた作品だ。
意味の重層化とでも申すべきか。三十一文字という制約の内側で表現の幅を内側から補強する。ヴァイオリン1本で複数の旋律を走らせるバッハにも似ている。
そしてだ。それを可能にしたのが「ひらがな」で漢字から派生したこと周知の通りだ。漢文が一般的だった中、平安時代になって国風文化が云々と取り沙汰されるが、最も大きな現象と感じるのが「ひらがな」の普及だ。ひらがな漢字混じりの表記が一般化した結果、「同音異義語」が強く意識されることになる。上記以外にもたくさんある。「松&待つ」「秋&飽き」など。片側に地名が来ることでさらに複雑化する。二重の意味を含ませ、どちらともとれるという解釈の幅を、受け手にゆだねるというところに余情が生まれる。
どちらとも取れる曖昧さに積極的な意味があるのはブラームスっぽい。
「脳内補正語」第15弾。
いずれも「令和百人一首」収載の歌で、「関」が詠みこまれている。「関」は「関所」だ。主に治安維持のために人々の通行が制限された。夜間は通行止めであった。そうした制約に対して風や月が自由であるという感慨が読まれることが多い。関のあちら側は別世界であるという感慨も込められている。恋の歌では男女の一線の意味をも具備するし、都と近江の境界は「逢坂の関」という地名もあってさまざまにイメージが膨らんだ。
50年前、10歳の私が百人一首暗記に挑んだとき、最初に覚えたのが清少納言だ。「夜をこめて鳥の空音ははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ」であるから、関との付き合いは相当長い。
「脳内補正語」第14弾。仏教の教えでいう「末法思想」とまで行かなくても、この頃世の中何かと気づまりである。本日の話題は「末」だ。何かの端っこ、先端を意味する。枝の端くらいならシンプルだが「令和百人一首」の範囲に限っても以下ような繊細な用例がある。
そのつもりで眺めると「梢」は「木の末」かとも思える。小倉さんちにも「末の松山波越さじとは」という名歌がある。端の他に時間的に「after」という意味もあり、おのおのの文脈の中で繊細に意味を変える。単純な先端の意味はかえって少ないかもしれない。
「脳内補正語」第13弾。以下の実例をご覧いただく。
最初は「令和百人一首」の50番目に収載の定家さまの詠。第三句に「無かりけり」という否定が来る。初句二句を否定するということだ。そして結句で体言止め。その気で探すとかなり見つかる。「三句否定&体言止め」だ。三句の否定は「無かりけり」に限定されるわけではない。「無いなら最初から言うなよ」と難じてしまっては元も子もない。言っておいて否定することで、詠み手の脳内に残像を生じさせておいて、四句結句で提示する事象と錯綜させる狙いがあるものと解すべきだ。
定家だけでなく、新古今時代の歌人にとってのある種の定型だと思われる。これが「脳内補正語」になるという時点で定家さまの術中にはまったも同然ということだ。
「脳内補正語」第12弾。初句から結句まで全五句は、五七五七七の音韻数総計三十一と決まっている。この決まりから音韻が増える方向への逸脱を「字余り」という。五十年前、初めて小倉百人一首を軽々と暗記した私は、この「字余りが」嫌いだった。流れが悪いからだと思う。サクサク流れず、つまづく感じがして嫌だった。そこから50年、以前ほどは嫌いでなくなった字余りに対する認識は以下の通りだ。
同一作中。「字余り」「字足らず」各一回で、でも合計31文字維持してますのようなのが今では嫌いになった。しかし、適度な「字余り」は以前ほどは気にならぬ。「適度」の定義は曖昧ながら、まずは声に出して読む。これで大抵解決する。日本語の豊富な「助詞」「助動詞」は、この字余り調節のために発達したのではないかとさえ思えるようになった。ましてや1文字の字余りが1回だけ許されるともなれば手練れの者にとって五七五七七の韻律維持は、さしたるハードルではないはずだ。どこで区切るかの「句切れ」の方が重要だろう。難解を極めるブラームスのスラーみたいなもんだ。
初句または三句の字余りは6音を生み出す。「令和百人一首」と「小倉百人一首」から以下のケース。
私の耳には三連符に聞こえる。字余り発生の句の直後に一瞬の休符が挟まる気がする。50年前はこの「堰き止め感」を「つまづき」と感じたが、今は「間」と感じることが出来るようになった。
「脳内補正語」第11弾。これで「たもと」と読む。衣服の肘から手首にかけての部分を指す。
旅人は袂涼しくなりにけり関吹き越ゆる須磨の浦風
「令和百人一首」17番在原行平のお歌に現れる。「袖」や「衣手」との棲み分けは難解。だがしかし、同義の言葉が音韻数を変えて複数存在することの意義は大きい。袖は2音、袂3音、衣手5音だ。初心者の字数合わせに最適だ。
「袖」は古来、「濡れる」か「振る」もので、時には霜も置く。「袂」はあまり振られていない気がする。「袂」だって濡らすには濡らすが、「袖の涙」の頻度ほどは見かけない気がする。
「脳内補正語」第10弾。
「令和百人一首」7番目のお歌。「吾を待つと君が濡れけむ足引きの山の雫にならましものを」
第三句「足引きの」は、山を導く枕詞として名高い。「足引き」が何故山にかかるのかもはや不明らしい。古典の授業では「訳不要」などと無残なことを教わるが整調の意味は大きい。
さてその中にある「引き」が大好きだ。「足引き」の他では何といっても「棚引き」だ。「霧」「雲」「霞」が棚引きの御三家かと。他には「裾引き」など。小倉収載の実朝のお歌にある「綱手」も引くものだし、海ではしばしば潮も引く。女子は毎日、眉も紅も引く。
比べて「押す」は影が薄いように思われる。和歌の世界の用語分布の正確なところは知らないが、直感として「引く」優勢な気がする。
私はと言えば、いつも皆からドン引きされている。
本日はブラームスの誕生日。案の定、緊急事態宣言が延長された。不自由な生活がまだ続く。そんな中ではあるがよいこともある。家族が一緒にいる時間が断然増えた。いい大人ばかり5人家族だから、小さい子供のいる家庭が毎日感じているストレスはない。何気ない会話でお互いの心の状態を見守る。間もなく85歳になる母がその中心にいる。暇をもてあました子供たちが部屋の整理をしたり、母をマメに手伝ったりと、我が家の棚卸になっている。
そんな中、コロナウイルスが終息したら、何をしようか考えることにしている。
これらをメモに書き留めて自粛の毎日の励みにしている。だからがんばる。
壊れねばなかなか買わぬものだ。我が家のCDプレーヤーが壊れた。2015年に買い入れたものだからまだ5年だ。我慢していたがどうにもならずに、買い求めた。
この先退職後を考えれば音楽無しは困るのだ。
藤原家隆は新古今期を代表する大歌人。新古今の撰者の1人でもあり定家のライバル。嘉禎3年4月9日に没した。現代の暦に直すと1237年5月5日となるから本日は命日。小倉に採られた「風そよぐ楢の小川の夕暮は禊ぞ夏の験なりける」は大好きなお歌だ。98番目という押しつまった位置に置かれているのも、相当なもの。この後ろには後鳥羽院と順徳院が控えるだけだからだ。何かと後鳥羽院と摩擦のあった定家と対照的に、隠岐配流の後も親しく交流が続いた。
技巧、用語が難解とまでは言えぬのに、ほのめかしが巧みで、見た目より数段難解。
「令和百人一首」では謹んで和歌のショパンと位置付けた。
昨日ブログ通算5500本目の記事を公開したとはしゃいだ。
本日は2020年5月4日。一方でブログ「ブラームスの辞書」は、2005年5月30日の開設から5454日目となる。その間記事の抜けが無かったことを自慢するのは毎度毎度のお約束だが、本日の主眼はそこにはない。2020年5月4日に5454日目を迎えるという極上の偶然を思いやる。勢いあまって午前5時4分に公開した次第。
ブラームスそっちのけでバッハやドイツバロックネタに走ることにはもはや何の後ろめたさも感じない脳みそになっていたが、令和百人一首ネタ連発には、呵責もあった。生誕60周年を自ら祝う企画と、自分に言い訳してきた。おかげで60年心にたまった垢をごしごしごしごしと洗い流すことが出来た。
コロナに痛めつけられた心を少しでも洗い浄めたい。
本日のこの記事がブログ「ブラームスの辞書」5500本目の記事となる。
年明けから始まった還暦記念企画「令和百人一首」の余波がまだまだ続いている。それどころか100首の公開が終わって「脳内補正ネタ」がとどまるところを知らない。歌一つ一つの鑑賞もさることながら、歌の構成要素をミクロに掘り出して、感動の源泉やいかにと心を砕くのは「ブラームスの辞書」の手法そのままでさえある。もはや本来の主旨からの壮大な逸脱とも申しておれぬ。
「脳内補正語」第9弾。「令和百人一首」70番の以下のお歌。
写し見よ山は嵐も柔らかき楢の若葉の言の葉の道
肖柏のお歌。下の句全14文字に「の」が4回現れる。思うにこれ「の」だけに許された特権。世の中ひらがな1文字の助詞は多いけれど、このような連鎖が許されるのは「の」だけ。格助詞「の」は主格であったり所有を表したりもするけれど、他の助詞がこうも連続すると耳障りなことが多い。「の」は何かと許されているばかりか、心地よいリズムさえ造り出す。名高いのは下記。
風通ふ寝覚めの袖の花の香に薫る枕の春の夜の夢
「の」の6連射である。
格助詞「の」に加えて、名詞「野」も組み合わせることで「の」の密度はさらに上げることも出来る。
世の中、女子と助詞はおそるべしである。
「脳内補正語」第8弾「野辺」の続きだ。「野辺」は「野」プラス「辺」だ。そういえば、和歌には「野辺」に限らず「~辺」が頻繁に現れる。
などなどだ。こうなると「ほとり」の意味や「辺境」の意味もあるかもしれない。整調語尾という側面も色濃い。いわゆる「字足らずよけ」だ。迂闊な字足らず放置の特効薬という側面。韻律維持の決め手。中間に「の」が挟まる挟まらないの法則も悩ましい。
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