オーボエもあり
バッハのチェンバロ協奏曲は、何らかの独奏楽器のための協奏曲を元にバッハ自身が独奏楽器をチェンバロとして編曲したもの。編曲元のコンチェルトにおいて、何が独奏楽器だったかは議論の対象になってきた。
チェンバロ協奏曲ヘ短調BWV1056は、チェンバロのほかピアノ、ヴァイオリンを独奏楽器とするCDを持っていたが、このほどオーボエ盤にありついた。
いやはやこれがあたりだった。特に恋するガリアで名高い第2楽章はオーボエで演奏されてみると絶品である。
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バッハのチェンバロ協奏曲は、何らかの独奏楽器のための協奏曲を元にバッハ自身が独奏楽器をチェンバロとして編曲したもの。編曲元のコンチェルトにおいて、何が独奏楽器だったかは議論の対象になってきた。
チェンバロ協奏曲ヘ短調BWV1056は、チェンバロのほかピアノ、ヴァイオリンを独奏楽器とするCDを持っていたが、このほどオーボエ盤にありついた。
いやはやこれがあたりだった。特に恋するガリアで名高い第2楽章はオーボエで演奏されてみると絶品である。
1966年のフランス映画のタイトル。作中バッハのチェンバロ協奏曲第5番ヘ短調BWV1056の第2楽章が用いられる。映画音楽に凝っていた父のレコードで聴いたのが中学生のころだった。今、しみじみと思い返すと生まれて最初のバッハ体験なのだと思う。えらい曲から入ったものだ。
つくづくロマン的だと思う。忘れられていたバッハの復興そのものがロマン派真っただ中の19世紀後半だから、ロマン的解釈のバッハなど珍しくもなく、ましてや当時まだ古楽ブームの到来前だから、そう感じるのも無理からぬ話ではある。
今でも複数のCDが手元にある。演奏年、ソリスト、独奏楽器の順に列挙する。
BWV1056は、バッハ本人による何らかの楽器のための協奏曲を、自分でチェンバロ独奏のコンチェルトに編曲した作品だ。オリジナルはヴァイオリン協奏曲だったとする説が有力だ。
グールド御免の記事連発。今度は協奏曲第5番ヘ短調の話題。例によってまたまた緩徐楽章。
またまたグールド。
時折「バッハがピアノのために作った作品はない」などという指摘が見られる。今普通に接しているピアノが出現するのは19世紀だから、バッハはすでにこの世にいなかったからだ。バッハの時代の鍵盤楽器はチェンバロだ。クラヴィコードもあった。でも断じてピアノはない。
「BACH」や「CAFE」をキーにしたささやかな音名遊びを終えた。還暦記念の大脱線「令和百人一首」から通常営業にもどすためのリハビリでもあった。
そもそも和歌にはその手の遊び心があふれている。「掛詞」「序詞」「本歌取り」「折句」「物の名」などなど。これらが縦横に駆使できないと後ろ指をさされた。自分が使いこなせないのはもちろん他人の歌に忍び込んだこの手の技法を見破れないのも恥ずかしい。作り手はいちいち「本歌取りしてみました」「これ掛詞です」などとは言わない。「どうだ」とばかりに歌だけを提示する。それを敏感に察知して気の利いた返歌をすることが教養の証であり、その際の手際は恋や出世まで左右したという。膨大な古典和歌の知識の堆積こそが命だ。
いかんいかん。まだ脱出できていない。リハビリを急ぎたい。
ブラームスのモットーとしてまことしやかに言及されることも多い。「Frei aber Froh」の頭文字とやら。眉に唾を薄く塗りながら眺めてはいるのだが。お遊びのネタとして面白い。大抵はそれと一対で語られるヨアヒムのモットーが「FAE」だ。「Frei aber Einsam」の略。ブラームスに名高いソナタ楽章がある。
それを音名におきかえていろいろ遊ぼうかと思ったが、よくよく見ると「CAFE」に含まれている。「FAE」に「C」を加えたらカフェになるということだ。ネタとしてカフェは優秀だ。
悪乗りが止まらない。
ピアノ三重奏曲の音名で「BACH」を作ろうと思ってもすぐに挫折する。3曲のピアノ三重奏曲は以下の通りだ。
Cの重複が痛いばかりだ。などと落胆しているばかりでは記事にならん。弦楽六重奏曲第1番をお友達のキルヒナーがピアノ三重奏曲に編曲していたから、これで「B」にめどがついた。
いやはや偶然とは恐ろしいもので、1938年に発見されて物議をかもしたピアノ三重奏曲が、なんとイ長調だった。マッコークルの扱いは「疑わしい」という域を脱していないが、まんまと「A」が調達できる。
まったくもってカフェとして実在しそう。
実は記事「インテルメッツォ組曲BACH」の続きである。ブラームスのインテルメッツォから調性が「BACH」になる4曲を私的に選定した。これを「CAFE」でやってみるという趣向。ただし、「BACH」で選定した4曲からは選ばないという条件付きとする。
やれやれBACHとは一転してしっぶーい選定となった。ブラックもいいとこで、焙煎も深めに違いない。
室内楽組曲BACHで盛り上がった勢いが止まらない。今度はカフェCAFEを構成する四つの音を主音に持つ室内楽4つを選定する。BACHで取り上げた作品を重複して選定しないという制約を課す。
いやいや、どうして楽しい。全て短調になった。二重奏から五重奏まで各1曲ずつという端正なバランス。E主音はこの曲だけなので貴重だ。
組曲BACHと比べてもそん色がない。
今度はピアノ独奏曲だ。それもインテルメッツォ縛りという制約付きである。ブラームスのピアノ小品インテルメッツォから主音が「BACH」なっているもの4つを選ぶというお遊び。
我ながら完璧だ。長短2曲ずつ。Bが変ロ長調でなくて短調なところに意外性がある。Aは文句なしのテネラメンテだ。Cは「ソラソミ」のたき火。そしてHは「灰色の真珠」である。私的ベスト3がみな入っている。
出世前の若きブラームスがシューマン邸を訪問して間もなく、シューマンはしきりに作品の出版をすすめる。その中にロ短調弦楽四重奏曲があった。そもそも現行の1番ハ短調の前に20曲は破棄されているとの情報もある。それらは必ずしも調性が明らかではない中、このロ短調だけは貴重な例外を形成する。もしブラームスが素直にシューマンのすすめに従っていたら、「弦楽四重奏曲第一番ロ短調」になっていたはずだ。
残念とはこのことだ。順を追って説明する。
現在に伝えられたブラームスの弦楽四重奏曲は以下の通りだ。
主音を見てほしい。「C」「A」「B」だ。ロ短調四重奏曲が残っていたら「H」が加わることになる。「BACH」の逆読みが完成するではないか。たった4曲の弦楽四重奏曲で「BACH」が完成するとはすごい。
もしかしてわざとか。ブラームスに訊いてみたい。
暑い中おバカが止まらぬ。
昨日の記事「室内楽組曲BACH」で、ブラームスの室内楽からBACHの音名を主音に持つ作品を各1曲選定した。すんなりと下記に落ち着いた。
これをベートーヴェンでやろうとすると「ロ音」でとん挫する。室内楽にロ長調ロ短調の作品がない。モーツァルトでも事情は同じだ。ハイドンなら出来る。この人たちの作品数はブラームスよりはるかに多い。たった24曲のブラームスで出来てしまうことはとてもありがたいことだと思う。管弦楽作品で試みるとブラームスでもロ調が空白だ。第二交響曲の第二楽章は貴重だとわかる。
シャープ5個のロ長調はともかく、シャープ2個で済むロ短調はありそうなものだが。教会旋法でロ音が忌避されていた名残ではあるまいな。
バッハのスペルを構成する4つのアルファベットが、全て音名中に存在することは、古来さまざまな試みを誘発してきた。本日の話題はその一環だ。ブラームスの室内楽作品から、それら4つの音を主音とする調で作曲された作品を選定する。何ということはない。「B=変ロ」「A=イ」「C=ハ」「H=ロ」の調を持つ作品の私的ベストを選定する作業となる。
結論を書いてしまおう。
我ながらほれぼれの選択だ。ちっとも迷うことなくあっさり決めた割には、「長短2曲ずつ」「二重奏、四重奏、五重奏、六重奏から各1曲」というバランスの取れ方が美しい。休憩を考えると2時間半になるけれど、演奏会にできないものか。
「BACH」のスペリングを音名に見立てて、これをモチーフとして扱うのは、バッハが復興したロマン派以降、バッハへの敬意を示す方法として広まった。両手の指に余る数の実例がある。
ブラームスにも渋い実例を発見した。
ブラームスは自らが先輩作曲家のピアノ協奏曲を演奏する際にカデンツァを書いた。このうちベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番第一楽章のカデンツァの中25小節目に「BACH」のモチーフが現れる。ベートーヴェンのコンチェルトのカデンツァに、ブラームスが「BACH」のモチーフを埋め込んだということだ。
見ての通りソプラノの声部にキッチリだ。和音進行をコードネームで言うなら、「C7→F→Dm7→G7」とでも解せよう。楽譜にこのように音名が印刷されているということは、オリジナルに書かれていたのだと思う。幸いナクソスからCDが出ている。
バッハという姓を構成する4文字は全て音名に転換が可能だ。その順に並べるとたった4文字なのに半音関係が2度もある。作曲家たちの想像力を刺激したと見えてこの旋律を用いた作品が古来数多く生まれてきた。バッハ本人の「フーガの技法」は名高い。このほど興味深いCDを入手した。
BACHの主題を用いたオルガン作品集だ。例によってブックレットは情報の宝庫で、BACHの主題を用いて作品を書いた作曲家の数を「300人以上」と断言している。どこでどう数えたか知らぬが、驚いた。
バッハ本人に加えて、作曲家として名を遺した4人の息子の内、長男のウィルヘルム・フリーデマン以外の3名の作品が収録されている。
やけに楽しい。
BWV1052を背負うチェンバロ協奏曲だ。元々ヴァイオリンを独奏楽器とする協奏曲だったのを、バッハが1台のチェンバロ用に編曲した。編曲したのはバッハ本人で間違いがないのだが、原曲のヴァイオリン協奏曲自体もバッハ本人の作かどうかには議論の余地があるという。
このコンチェルトをブラームス本人が演奏したことは確実だ。なぜならブラームスは同コンチェルトの第3楽章のカデンツァを作曲しているからだ。
当初、ピアノ演奏家として台頭したという経歴だから、演奏会でコンチェルトを弾くのは珍しくない。その際、カデンツァを自作したのも自然だ。
協奏曲中に挿入される演奏者の即興演奏のことまたはその部分。何故か時代が進むにつれて作曲家がこれを承認したがらなくなる。演奏と作曲の分業が進んだせいとも指摘されているが詳細は手に余る。
ブラームスは超一流の作曲家でありながら、同時に達者なピアニストだった。自作以外のピアノ協奏曲を公開の場で弾いたことも少なくない。そうした機会には自作のカデンツァを披露していた。
以上だ。
ブラームス側にカデンツァを作る気があっても、ロマン派の作曲家は演奏家の即興を認めていない。お許しがあればショパンやシューマンの協奏曲用にカデンツァの1つや2つひねり出すのは容易だったと思われる。
本日、2005年5月30日のブログ開設以来5555日目の節目となる。その間記事の更新に抜けがない。
その記念でもある「母特集」を打ち上げる。
「東京の畳職人」の娘である母は面白い言葉を使う。「ひ」と「し」の区別が曖昧だ。布団を敷くを「ふとんをひく」と言っている。
私も子供たちもこれらの言葉を自然に受け止めてはいるのだが、世の中的には少し異質なのだと思う。
ブラームスやバッハにはもちろん、クラシック音楽には全く興味がない母だということが、ブログ「ブラームスの辞書」の課題である。
このたびの「母特集」の本当の狙いは、母の健康と長寿を願うものだ。同時に壮大な願掛けでもある。つまり2033年5月7日のブラームス生誕200年の日に設定したブログ「ブラームスの辞書」のゴールを母とともに祝いたいということだ。その年、母は98歳になるし、私は73歳になる。これは吉兆だ。
いやいやこれは縁起がいい。
母の連れ合い、つまり私の父である子供たちの祖父が亡くなって23年たった。父は私が妻を亡くした1年半後に病気でこの世を去った。母は孫の子育てと看病の両立という生活が4ヶ月続いた。正味の話大変だった。幼い次女が葬儀の間鳴き止まずに喪主の母を困らせた。
2人は職場結婚だ。どちらかというと父が見染めたと感じている。がしかしずっと円満だった。母は若い頃、身体が弱くて父はずっと気遣ってきたが今では丈夫だ。父は、「家族を愛する」という原点において比類なき人格者だ。最終学歴は定時制高校ながら多分、頭が相当いいんだと今になって思う。その父と絵にかいたような円満な家庭を母は作り上げてきた。
私が妻を亡くしたときの速攻的対応は今もって語り草だ。亡くなったその夜に父は私との同居を申し出てくれた。子供を育てるためだ。そのとき父が母に書いた手紙を母は今も大切にしている。「孫たちのために残りの人生をささげようではないか」という提案だった。父が亡くなったあとも母はその提案を律儀に守り続けているということだ。
思えば二年前2018年の8月9日だった。私は9泊11日のドイツ旅行に出発した。昨年には思いもしなかったがコロナ禍の今、つくづく無事に行って来れてよかったと感じる。旅のテーマは「音楽」「鉄道」「ビール」だった。
たまらん。「母特集」に割って入る程の実感。これはそのときの母へのお土産。
ドイツのAIGNERというブランドで本革。けっこうなお値段だったが今は、毎日のお買い物に持ち歩いてくれている。
小学4年だった私に小倉百人一首の手ほどきをした両親だった。母は85歳になった今もほぼほぼ百首そらんじている。初句を言われれば下の句まで言えるというレベル。作者との紐づけには無関心だ。母の得意札は下記。
ちなみに亡き父の得意札は。
で、私は以下。
こうしてみると私は父に似たかもしれない。
大問題が一つ、私の得意札「鎌倉右大臣」つまり実朝なのだが母はこれが嫌いだった。「常にもがもな」でつかえてしまうからだ。
小学校4年でもう両親には負けなくなったが、盛り上がるのは私が読み人になって両親の勝負のときだ。夏休みに汗をふきふきやったもんだ。アナログといえばアナログだが本当に楽しかった。
おかげでこんな大人になった。今、小倉百人一首をそらんじていることのありがたみを痛感している。
私の母の母、つまり母方の祖母の話題だ。もうすで他界している彼女の名前は「むめ」という。私が小さい頃とてもかわいがってもらった。もちろん明治の女だが、子供心に変な名前だと思っていた。母に由来を聞いても「はて」と言うばかりだった。還暦を記念する「令和百人一首」選定の過程で古語に親しむ中から意外な、そして劇的なオチにたどり着いた。
「むめ」はどうも「梅」らしい。学校のテストだったら「うめ」と書かねばならぬのだが、古くは「むめ」と標記したらしい。源実朝のお導きだ。
どちらの実朝の作。1番は辞世と伝わる。2番は紀友則の本歌取りだ。実朝は梅を愛した。それだけで十分だ。生涯の歌人と奉るにふさわしい因縁ではないか。
そうそう、源実朝は後鳥羽院の一回り遅れのねずみ年。そして私も。
大好きな歌人である。歴史の時間には承久の変に敗れて隠岐の島配流の憂き目にあった悲劇の人と習う。歌人としての格は相当高い。どうも私の好みは辞世や挽歌に傾きがちで、歌人で言えば大津皇子、有間皇子、源実朝、大伴家持など悲劇系の人に偏る。後鳥羽上皇も悲劇枠だ。
見渡せば山もと霞む水無瀬川夕べは秋と何思いけむ
もう大好き。百人一首にはこちらを採用してほしかったくらい。
彼は治承4年7月7月14日のお生まれで、これを西暦に直すと1180年8月6日となる。つまり本日は840回目の誕生日であり本年彼は70回目の年男だ。
「母の心配事の95%は実際に起きない」と書いた。日常のあれこれをいろいろ悩むのが昔からの癖であるのに、それを気に病むようでいて実はエネルギーにしている。
ところがこの度の新型コロナウイルス感染拡大にともなうマスクパニックへの対応には驚いた。感染拡大に伴いマスクの品薄が報道されるようになると、店頭からマスクが消え、行列が日常になった。家族全員「どうしよう」となったが、我が家にはマスクの備蓄があった。昨年の暮くらいから薬局で少しずつ買い込んでいたと母は説明する。「なんか品薄になる気がした」「万が一パニックになったら年寄りが店頭に行列などできない」というのが母の言い分だ。さすがのリスク管理だ。在庫中のマスクの数を正確にそらんじている。装着する他に、通勤のバッグの中に予備を1つ入れておけとか、それはそれは事細かの指示がある。
おかげで家族全員マスクの不安にはさらされずに済んだ。まだ感染拡大の終息は見えないけれど、そういう非常時こそ力を出す母である。
昨年と一昨年、定年間際の駆け込みと称して我が家のささやかなリフォームを行った。いやはやこれが今年だったらコロナで大変なことになるところだった。運がいい。何といってもリフォームの中心は水回り。キッチンとトイレとバスに洗面所。とりわけキッチンは主婦の城だ。初めは腰が引けていた母も完成してみると大いに満足した。2週間、職人さんが何人も出入りして、家具を動かしたりの大工事。新築の時は考えもしなかった難題が襲い掛かる。そういう家庭イベントがあると気合の入る性格だから気を張り詰めてのりきった。毎日職人さんたちのお茶出しとか、昼食とか気になって仕方ない感じでそわそわの連続だった。
使うことのない食器を食器棚2つ分廃棄したのが大変だった。食器1つ1つを丁寧に新聞紙に包んで廃棄した。
終わってみると快適だ。バス、トイレ、洗面所はもちろんなのだが何よりキッチンの利便性が格段に上がった。工事のため一時避難していたキッチン用具の再収納を楽しんだ。孫娘たちに手伝わせることも出きたのだが自分でやった。「自分でやらないと何がどこにあるのかわからなくなるから」と。22年前の新築の時だってキッチンは母専用の城だったが、今もなお母の城であることが判明した。これだけでやった価値がある。
母には毎日の生活において何かとマイルールがある。長い間の経験に基づく習慣だ。
まだあると思うがキリがない。
1970年8月2日のことだ。我が家は初めて長い家族旅行をした。3泊4日の関西旅行だ。大阪の万国博の見学に京都と奈良の観光だった。家族4人で10万くらいだったらしい。京都では清水寺、金閣、銀閣など。奈良では東大寺、奈良公園、興福寺、法隆寺、薬師寺、唐招提寺など。とにかく暑かったが、小学校5年の当時から私は万博より寺社仏閣だった。
そう、その時東海道新幹線に初めて乗車した。あれからちょうど50年だ。
1935年7月27日、東京品川に、畳職人の4女として生まれる。8人兄弟の下から2番目だ。
公立の小中学校を出てから、洋裁系の専門学校をへて就職。そこで父と出会って1959年に結婚。翌年私を産み、1964年弟の出産を機に退職。以降基本専業主婦。パートとして某百貨店で働いた経験がある。父の転勤で1968年に千葉県に引っ越して以降ずっと千葉県内在住だ。
私と弟が独立して以来、父と二人の老後のために田舎にマンションを買ったが、私が妻に先立たれて孫の養育を引き受けることになり、虎の子のマンションを引き払って私と同居。すぐに父を失ったこともあって壮絶なセカンド子育てとなった。私と弟を育てたとき以上の気合と愛情を孫たちに注いできた。大河ドラマにも仕立てられそうだ。
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