正規の教育
「正規の教育」
難解ここに極まるという表現がふさわしい。「正規の教育とは何か」という問いに正確に答えることは難しい。感覚的な話で恐縮だがその多くは「正規の教育を受けていない」と用いられる気がする。
- 学校教育のことか。義務教育の中で音楽の授業を欠かさず受けていた程度で「音楽についての正規の教育を受けた」と称することが出来るか疑問である。
- 音楽高校、音楽大学を出ていれば「正規の教育」を受けたと言えそうだ。
- その意味でオーケスオトラの団員を含むプロの音楽家は皆「正規の教育を受けている」と言えそうだ。
- ところがプロ野球やJリーグに目を移すと途端に難解になる。体育学部野球科や蹴球科の卒業生は少ない。大学や高校の野球部やサッカー部に所属していたことは確実だが、それらはあくまで部活動だ。野球やサッカーの「正規の教育」とは呼びにくい。正規の教育を受けていない者の集団がプロスポーツということになりかねない。
- 私自身、普通科の高校を出て大学では法律を専攻していた。音楽を学んだと言えるのは小中学校の授業と高校の選択授業だけだ。大学4年間通ったヴィオラのレッスンや、オケの先輩からの薫陶を「正規の教育」と呼んでいいなら嬉しいが、心苦しい。
- 偉人の伝記を読んでいると「正規の教育を受けずに云々」と出てくる。大抵は独学で何かを学びと続くから「独学」は「正規の教育」とは認めにくい。
- たとえば音楽高校にも音楽大学にも通わずに、個人レッスンだけを受けてプロになった人は「正規の教育」を受けたと言うのだろうか。師匠がいるから独学とは言えない。
- さらに極端なのは、音楽を親からしか教わっていないケースはどうなるのだろう。この場合も「正規の教育」とみなされないのだろうか。仮に親がバッハだったとしても認められないのだろうか。バッハの子供たちはどう解釈しようか。
- あるいは見よう見まねで自然に覚えたのは「正規の教育を受けた」とは言えなさそうだがいかがなものか。
さてブラームスだ。おそらく彼の最初の教師は父親だ。つまり上記8だ。さらにコッセルとマルクセンという2人に師事した。これは上記7である。伝記を読む限りコッセルとマルクセンという2人の教師の教授法は、伝統的かつ体系的かつ徹底的だと読める。おそらくこれがブラームスにとっての「正規の教育か」なのだ。もっとも大きいのはおそらくは上記9の見よう見まねだ。これはおそらく独学と区別しにくい領域だと感じる。先輩の残した楽譜をただただむさぼり読むのはきっとここだ。
上記6は大きなヒントだ。
伝記を書こうと志し、対象の人物の偉さ偉大さを強調せねばならなくなった時、「正規の教育を受けていない」と加えることで手軽に主人公の苦学振りを仄めかすことが可能だ。上記の通り定義の甘いこの言葉は大変重宝だ。
「正規の教育」が最高の効果をもたらすとは限らないし、「最良の教育」と必ずしも一致しないことは確かである。
「正規の教育」って何だろう。
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