正当性のアピール
大人の世界ではよくあることのなのだが、とかく正確性より整合性が重んじられる。大義名分が何より重視される。歴史もそうだ。正当性が何かと珍重される。歴史書は得てしてその正当性のアピールの道具になる。国の正史ともなるとまさにだ。とりわけ古代は、天子の交代後に、前の時代の歴史が書かれる。現役の天子が前任時代の歴史を著述するのだ。
とりわけ王朝の交代のあったときは眉唾ものだ。ある天子の悪業が列挙されている場合、それは後任による印象操作の可能性を考えておいた方がいい。同時代に複数の書物を参照可能な場合はともかく、時代が古くなるほど参照可能な書物は減るのが普通だ。
歴史はいつも勝者が書く。成功した侵略は「侵略」と書かれないものだ。得てして「悪辣な支配者の征伐」という大義が強調される。アピールせねばわかってもらえない程度の正当性だという可能性は心にとめておきたい。
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