移調の掟
ヘルムート・ドイチュ先生は著書「伴奏の芸術」の中で、歌手の声の都合からリサイタルで取り上げる作品を移調して演奏することがあると証言しておられる。これがけして少なくないというニュアンスで描写されている。ブラームスの友人で歌手で指揮者のジョージ・ヘンシェルの証言によれば、声の都合で作品の最高音を和音の範囲内の別の低い音に差し替える申し出をブラームスが許可したという。
これは声楽作品に特有の現象だろう。声楽でも合唱となると考えにくい。器楽ではもちろんご法度だ。ハイポイションで弾けないから勝手にオクターブ下げて弾いてしまうことなど言語道断だ。どうやら移調には暗黙を含めてある種のルールがあったらしい。
- 作品39の「16のワルツ」はオリジナルの四手用がブラームス本人によって独奏用に編曲されているが、その際ラスト4曲が全て半音低い調に移調されている。演奏の難易度に配慮したと解されているが、上記の例からすると異例の扱いである。
- ブラームス本人はニ長調で演奏されることを望んでいた「恋歌」作品71-3は、ウイーンの売れっ子テノール歌手の要望でハ長調として出版されたという。
- レーメニーとのツアーで立ち寄った演奏会の会場のピアノのピッチが半音高かった。ヴァイオリンを半音高く調弦することにレーメニーが難色を示したために、ピアノを弾くブラームスがその場で半音低く演奏して事なきを得たというエピソードがある。この話は、とっさに半音低く移調して弾いたという移調ネタなのだが、もっぱら、ブラームスのピアノの腕前を強調するトーンで語られる。
- ヴァイオリンソナタ第一番ト長調をチェロで演奏したCDがある。楽譜も売られているが、これはニ長調に移調されている5度高く移調したと見るか、4度低く移調したと見るか悩ましいものがある。
- ハンガリー舞曲第5番はピアノ連弾の原曲では嬰へ短調だが、一般に流布した管弦楽版や、ヨアヒム編曲のヴァイオリンとピアノ二重奏版では、ト短調に移調されている。ヴァイオリンの重音奏法をビシバシ決めるにはト短調の方が何かと好都合なのかもしれない。ところがピアッティ編曲のチェロ版ではへ短調に移調されている。
- 嬰ヘ短調とト短調間の移調という話なら、「雨の歌」である。オリジナルの歌曲は嬰ヘ短調で、ヴァイオリンソナタに移殖するに際して半音上のト短調とされた。
4番、そしてもしかすると5番もブラームス本人の関知しないところかもしれない。「独唱者の声の都合による場合だけ移調で逃げてもいい」というような掟を想定したい。いかがなものだろうか。
我が家所有の歌曲のCDにこの移調がまぎれこんでいると、聴いてわからぬ耳の持ち主としては、平均律歌曲集 にとって課題となる。
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