充電期間
ハンブルク出身のブラームスが正式にウィーンに居を構えたのは1862年9月だ。29歳であった。ハンブルクフィルハーモニーの指揮者の地位を熱望していたが、種々の事情で実現しなかったこともあり、心機一転の気持ちもあったと思う。
この時点で、ウィーンでの職が決まっていた訳ではない。明くる1863年春にウィーンジンクアカデミーの音楽監督就任を打診され、実際に就任するのは秋のシーズンからだ。この間演奏会への出演はあったが定職とは言えない。ウィーン進出から職につくまでのおよそ1年間がいわば「充電期間」だったと位置づけられよう。
この充電期間にブラームスがしたことは何かが本日の話題だ。もちろん作曲は続けていたが、その他あちこちの演奏会に出演して人脈を広げたことも大きい。ウィーンならではの研究もあった。楽友協会あたりの図書館に通って古い楽譜を写譜したという。後年ブラームス自身が一部の友人に語ったところによれば、ウィーンに来て最初の仕事は「知られていないシューベルト作品の写譜」だったという。シューベルトの兄と親交があった出版社シュピーナが所有する自筆譜を夢中で写し取ったと回想する。シューベルトの歌曲の編曲や、ピアノ連弾用のワルツはその成果と位置づけ得る。
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