シューマンをどうする
今日はロベルト・シューマンの命日である。この度の第二次歌曲特集の準備に際し、参照した作曲家は少なくない。シューベルトは別格としてシューマンはかなりな位置づけだ。ブラームスとの縁浅からぬという切り口ならシューベルトを軽く凌駕する。ブラームスを世に出した恩人でありクララの夫ということだけでも赤文字特筆大書の上にアンダーラインが要る。
ブラームスの歌曲を音楽史の流れの中で再把握するにあたり、シューマンの歌曲だってまとまった数聴いたのだが、シューベルトに比べると引っかからなかった。ブラームスの伝記にシューベルトの歌曲との関連をにおわせる記述が頻繁に現れるのに対し、シューマンの歌曲はスルーに近い。シューベルト歌曲の編曲にだってしばしば手を染めているのに、シューマンの歌曲を編曲したことは聞かない。
こと歌曲というジャンルにおいてはシューマンという切り口がキーにならないということなのだ。ほんの情報収集のつもりで聴きかじったシューベルトの歌曲にはみるみるうちにはまりこんだのとは対照的だ。
今は、その直感を信じることとする。ブログ「ブラームスの辞書」のゴールまでまだ12年ある。いよいよ記事に困ったとき、またシューマンに立ち戻るのもよいではないか。
« 就職試験 | トップページ | テキストの中の職人たち »
コメント