夏休みに終わらぬ
今日で夏休みも終わる。世の中もりだくさんな夏休みであったが、ブログ「ブラームスの辞書」も歌曲特集の真っただ中にある。5月8日に記事枯渇対策の切り札と銘打って始まった歌曲特集が、いつのまにシューベルト特集にすり替わり、もう2か月も経過した。シューベルトネタを語り終えていない。汲めども尽きぬシューベルトの泉である。
« 2021年7月 | トップページ | 2021年9月 »
今日で夏休みも終わる。世の中もりだくさんな夏休みであったが、ブログ「ブラームスの辞書」も歌曲特集の真っただ中にある。5月8日に記事枯渇対策の切り札と銘打って始まった歌曲特集が、いつのまにシューベルト特集にすり替わり、もう2か月も経過した。シューベルトネタを語り終えていない。汲めども尽きぬシューベルトの泉である。
名作ひしめくゲーテ&シューベルトの中でひときわ異色なのが「トカイ賛」D248だ。オリジナルは「Lob des Tokayers」というが少々の予備知識がいる。「Tokayer」(トカヤ)はハンガリーのワイン産地の名前。現地語では「Tokaji」と綴る、世界三大貴腐ワインの一角を形成する。もう2つはフランスのソウテルヌとドイツのラインガウかモーゼルだ。3か所のうちトカイだけがハプスブルク領内とあって、ハプスブルク王室に献上されてきた。秋になるとその年の出来映え監査する勅使が派遣されて、専用列車が仕立てられたという。
皇帝おひざ元のウイーンだからその威光は絶大だった。ブドウに付着するカビの力を借りて糖度を高めた独特の甘口で、細かなランク付けがされていて、ドイツ産の「トロッケンベーレンアウスレーゼ」クラスの上級品は高価だったからシューベルトが賞味したかどうかは怪しいけれど、ゲーテならあるいはという気もする。だからその味わいを詩に遺したのだろう。
さあ行くぞとばかりに張りのあるアウフタクトに始まる高鳴るような行進曲調。トカイワインのヴィンテージものを開けるさいの高鳴りと相通ずるものがある。
シューベルトの歌曲に言及する文章では、しばしば「糸を紡ぐグレートヒェン」D118に特別な位置づけを与えている。いわく「ドイツリートの始祖である」と。ゲーテのテキストに弱冠17歳のシューべルトが付曲した同作品こそが、音楽ジャンルとしてのドイツリートを確立したと。詩作へのリスペクト、内容の消化、音楽作品への転写の巧みさ、どれをとっても画期的と判で押したようだ。さらに同曲に与えられた作品番号は「2」である。魔王に続く2番目の出版だということだ。お気づきだろう。どちらもテキストはゲーテだ。
フィッシャーディースカウ先生の評価もほぼこれに習っているが、少しだけ疑問もある。作曲順に付番されたドイチュ番号が118ということは、同作より遡る作品が存在する。なるほどゲーテのテキストに作曲された作品にはこれより若い番号はないものの、他の詩人のテキストに付曲したピアノ伴奏付の独唱曲は存在する。フィッシャーデュースカウ先生のシューベルト歌曲全集には「糸を紡ぐグレートヒェン」に先行する作品が24曲も収納されている。始祖に先行するのだからそれらは「ドイツリートではない」と指摘されかねない。
一方で著書の中では「糸を紡ぐグレートヒェン」の記述に2ページを奮発する異例の対応なのだが、全集録音からは控除されている。おそらく女性によって歌われるべきという信念によるものだろう。
よいではないか。「糸を紡ぐグレートヒェン」の味わいには全く影響しない。
アメリンクやバトルで聴いてみる。16分音符の同一音型の連続が回り続ける糸車の描写だということくらい素人の私でもわかる。それがテキストの内容の忠実なトレースになっているということもおぼろげながら想像がつく。時には急き立て、あるときは淀み歌手の歌う旋律よりも雄弁だ。ピアノと声が同格。ゲーテとシューベルトの対話とまで言ったらお叱りを受けるのだろうか。炎上も覚悟で消火器片手にそのくらいは踏み込みたい気持ちでいっぱいだ。
ドイツリートの始祖をシューベルトだとするディースカウ先生は、返す刀でゲーテとシューベルトの出会いこそがそのきっかけであったと断言する。1797生まれのシューベルトが作曲を始めた頃、1749年生まれのゲーテはおよそ還暦だった。すでにドイツ最高の文豪の位置にあった。その知名度実績は雲泥の差だったから、出会いというにはいささか後ろめたい。シューベルトがゲーテのテキストに触れたことと言い換えねばならない。ゲーテのテキストを戴くシューベルトの作品をまずは押さえておく。D番号が振られていても未完作品はのぞいている。
お気に入りを赤文字にしておいた。1815年から1824年までの9年間に分布する。全63曲で堂々のリーディングディヒターだ。全573歌曲のおよそ11%という高濃度である。ブラームスではたったの5曲で2.5%にとどまる。ゲーテに対する接し方が対照的だ。
今日はゲーテさんのお誕生日。
ものすごい本を書いてシューベルトへの溢れる愛を隠そうとしないフィッシャーデュースカウ先生の演奏は、そりゃあもう素晴らしいのだが、我が家ではブラームスの歌曲だってCDで全て聴くことが出来る。そりゃ素晴らしい。先生のキャリアの中では要所にブラームスが出て来る。演奏の素晴らしさから逆算して、シューベルトで行ったような入念な準備があったに決まっている。シューベルトであれほどの準備をしておきながらブラームスの録音は行き当たりばったりでしたなどということはあり得まい。
となると、ブラームスについてだって相当な内容の本が書けたはずだ。フィッシャーディースカウ先生が録音したブラームス作品の解説とまで行かずとも、エッセイなら十分に書けたに違いない。既に存在していて和訳されていないだけということもあるのだろうか。私は見たことがない。
目から鱗が数十枚落ちたり、飛ぶ鳥が数十羽落ちたりするに違いない。
歌曲「死と乙女」D531に現れる「Massig」をめぐるフィッシャーディースカウ先生の論考 に我を忘れているのだが、その論考の直後にもっとすごい話題に移る。
先生は「Massig」の他に以下の用語を列挙する。
これらは基本になる言葉に添えられて、解釈を難しくしていると指摘する。感情表現と技術上の問題をあらかじめ整理しておかないと正しいテンポにたどりつけないと。
そう。これらはイタリア語「poco」「piu」「non troppo」などとともに「ブラームスの辞書」が微調整語という名称を与えている語群に含まれる。何よりも何よりも、先生程の大歌手が、いや大歌手だからか、演奏に先立ってこうも細かく楽譜を検討するものだという実例を見せられて興奮を抑えきれない。歌曲限定でいいから「シューベルトの辞書」書いてくれればよかったのに。
「死と乙女 」で思い出した。フィッシャーディースカウ先生の大著「シューベルトの歌曲をたどって」の135ページのことだ。「死と乙女」D531の演奏に際しての考察の中で、同曲イントロ冒頭の「Massig」(赤文字はウムラウト)の解釈について意見を述べておられる。「はたしてどんなテンポで演奏されるべきか」という課題の提示とも映る。楽譜上のドイツ語による指示は「明白さと正確さの点でイタリア語指示に劣る」と断言しておられる。軽い驚きがある。ドイツ語のネイティヴな話者であり、ドイツリート演奏の第一人者にしてなお、音楽用語においてはイタリア語の方が明瞭だと断言している点だ。演奏前の準備としてこれら用語の解釈を怠らない点、目から鱗でもある。
先生は歌曲における「Massig」実例の分析から、おおむね「Modearto」と位置付けながらもあくまでも慎重な姿勢を崩さない。アラブレーヴェという拍子を考慮すれば妥当なテンポに収まるとひとまず落とす。
さらに慎重に同名の名高い二短調弦楽四重奏曲の第二楽章を参照する。同書が歌曲以外の作品に言及する稀な例の一つだ。歌曲「死と乙女」のイントロのピアノ伴奏部を主題とする変奏曲になっているとシンプルな指摘に続き、テンポ指定が「Moderato」ではなく「Andante con moto」であることをもって、作品演奏の際のテンポの採用には慎重な準備と検討が欠かせないと釘を刺す。
ああ。何ということだ。書籍でもブログでも「ブラームスの辞書」は「Massig」を「Moderato」に比定 している。ブラームス作品の用語使用実態から到達した仮説だ。フィッシャーディースカウ先生がシューベルト演奏の解釈面からそこにたどり着いたことは深くて重い意味がある。「Massig」の解釈のために「死と乙女」にとどまらぬ他の作品での用例を分析したというのがまた象徴的だ。用語使用分布の分析が解釈に役立つというお考えに違いないからだ。「ブラームスの辞書」のコンセプトそのままではないか。
すごく嬉しい。
知名度で申すなら数あるシューベルト歌曲の中でも頂点付近に位置すると思われる。テキストはクラウディウス。文字通り死と少女の対話。魔王と並ぶ怪奇系の双璧。音楽のおかげで極端な怪奇的にならずに劇的という範囲にとどまる。
イントロに現れる「タンタタ」というリズムは「ダクテュルス」と呼ばれている。アクセントがある長い音符に短い音符2つが追随するなどという説明よりもベートーヴェンの第七交響曲の第二楽章冒頭のリズムと申し上げた方が早い。シューベルトはこのリズムを愛好したと見えて、偶然とは思えぬ頻度で出現する。3つの音高が変わるケースまで入れればしょっちゅうという感じでさえある。
さて知名度の押し上げに寄与しているのは弦楽四重奏曲第14番ニ短調だろう。第二楽章に歌曲「死と乙女」の伴奏パートが主題として現れる。もろに「ダクテュルス」だ。テキストに付与された旋律をスルーしてこのイントロ音型を主題として採用し、あろうことか変奏の主題としている。私にとってはシューベルト室内楽の頂点に長く君臨する。初めて買ったCDはアルバンベルクSQの演奏だったが、これが脳みそに刷り込まれてしまい他の演奏を受け付けにくくなっている。
一昨日話題にしたマルクセンのCD の話。トラックは全部で17ある。このうち3つはピアノ独奏曲で、残りが歌曲。ほとんどが1830年頃の作曲とされている。シューベルトの没後12年で、シューマンの歌の年の12年前。つまり歌曲の創作史的にはシューベルトとシューマンを繋ぐ位置にある。
作品のタイトルを見てすぐに気づくのは下記。
1番は「漁師の娘」でハイネのテキスト。シューベルトの「白鳥の歌」の10番目と同じテキストだ。2番は「風見」でウィルヘルムミューラー、3番もウィルヘルムミューラーで「郵便馬車」どちらもシューベルトの歌曲集「冬の旅」収載と同じテキストだ。
ハイネの作品への付曲があるということでハイネとの文通の内容が裏付けされる。シューベルトの遺作「白鳥の歌」がハイネと共通の話題になったことも確実だ。「冬の旅」「白鳥の歌」と同テキストに作曲しているということは、シューベルト作品への高い関心を前提としなければあり得ない。
だからだ。このマルクセンから10代の多感な時期に教えを受けたブラームスの脳みそにシューベルトが刻み込まれなかったはずはない。1862年にウィーンに進出してまず、シューベルト作品の写譜に取り組んだことはむしろ必然ではあるまいか。どこのだれを訪ねよくらいの入れ知恵はあったかもしれないと妄想は膨らむ。
それってなもんで、我が家のCD棚を探すと本当におどろくべきCDがあった。1843年から10年間ブラームスを指導したマルクセンが作曲もしたということ自体は知っていたが、その作品を収録したCDだ。
歌曲とピアノ曲全17曲。ジャケットは1853年のハンブルクの絵が用いられている細かさだ。解説は目からうろこが十数枚落ちる内容。
ブラームスの伝記作家として名高いマックスカルベックが、1901年にハンブルクの骨董商で、マルクセン全作品の自筆譜を偶然発見したという。現在ウィーン楽友協会に伝わるそれらの中から抜粋録音である。1830年にハイネの詩に作曲した旨、ハイネに書き送ったという記述も出て来るばかりかハイネからの礼状の文面も日本語で読める。昨日話題にしたハイネとマルクセンの文通がここでも裏付けられた形だ。
マルクセンといえばエドゥワルド・マルクセン(1806-1887)のことで、ブラームスが1843年から10年間ピアノと作曲を師事していたことで名高い。1830年から1833年までウイーンで研鑽を積んでいたという。ハイネについて調べていてお宝情報にたどり着いた。ディースカウ先生の著書「シューベルトの歌曲をたどって」の449ページのことだ。そこはもうシューベルトの没後の記述で、作品の受容について語る中にあった。
1830年シューベルト没の13年後にウィーンで修行中のマルクセンに、ハイネが手紙を書いた。自作に付曲した作曲家について述べる中にシューベルトが出て来る。スペリングの誤りで「シューバルト」と読めなくもない記述が「なくなる直前に素晴らしい作品を書いたらしいが、私はまだ聴いていない」というものだ。没後遺作として出版された「白鳥の歌」D957の8番から13番の6曲を指すと、ディースカウ先生は考えておられる。
興味深い。
ディースカウ先生がこのエピソードをここに紹介した意図は、シューベルトの最後の歌曲集の受容っぷりを論ずるためだ。私はむしろブラームスの師匠マルクセンとハイネがこんなやりとりをするような仲だったことに驚く。ハイネが9歳年長の同世代の2人だ。
誰がどうやって数えたか、ハインリッヒ・ハイネはドイツリートにおける最大のテキスト供給者だという。眉に唾の特盛だ。採用された作品の総数か、頻度か、あるいは無名作曲家がどのあたりまで考慮されているのかなどいろいろ疑問がわく。ひとまずシューベルトにて調べてみると、没後出版の「白鳥の歌」に6曲ある他は見当たらない。
1797年12月13日生まれだから、シューベルトと同い年。日本風に言うと一学年違うという状態。最初の詩集は24歳の時の出版だからか、同世代ということもあって、作品がシューベルトの目に留まるのも遅れるというものだ。
それなのに、それなのにリーディングディヒターとは、後につづく作曲家がよほど精力的に取り上げたということだ。ブラームスを調べる。
以上6曲とは拍子抜けだ。しかしながらどれもみな美しい。
フィッシャーディースカウ先生の著書で話題になった伴奏の大家ジェラルド・ムーア先生は男性だ。またディースカウ先生と組んで録音を残したピアニストの面々もみな男性だった。
どうも世の中のドイツリートのCDで伴奏を務めるのは男性ピアニストが多い気がする。何故だろう。室内楽の中のピアノパートには、山ほど女流ピアニストが出て来るし、ソリストだって同様だ。コンクールの入賞者あるいは音大のピアノ科の男女比を見れば女性優位ではないかとも思える。
ヘルムートドイチュ先生もご著書「伴奏の芸術」の中でこの点に疑問を提示しており、いくつか仮説も示しておられるが決定的ではない。ディースカウ先生は、この点については沈黙している。我が家のCDコレクションの中で女性が伴奏を務めるケースはたった1枚だ。店頭で歌曲のCDを選ぶとき、作曲家、演奏家をキーにする。伴奏者の性別は気にもしていない。それなのに結果として集まったCDに女性伴奏がほぼないのは、私のコレクションの偏向とは言えまい。録音でだけの現象なのだろうか。実際のリサイタルでは女性伴奏者も多いのだろうか。男性歌手も女性歌手も 伴奏者に男性を選ぶという現象が起きていると考えていいのだろうか。
世はなべて女子の時代だというのに不可解なことだ。
ご自身の著書「シューベルトの歌曲をたどって」の中で、伴奏者ジェラルド・ムーアを絶賛している一方、実際の録音を見てみると、ジュラルド・ムーア先生ばかりでもないとすぐわかる。我が家にあるCDだけでも以下の通りだ。
ピアノソリストばかりか指揮者としても有名な人、いわゆる大物が惜しげもなく並ぶ。これはフィッシャーディースカウ先生自身が、超大物であることの反映だ。伴奏を務めることがピアノ奏者としても名誉であると考えられていそうだ。1899年生まれのジェラルド・ムーア先生はディースカウ先生にとっても先輩格だが、これらの面々はむしろ後輩にあたる。大歌手の名声が確立した後も、当代の名手と組むことで研鑽を怠らないということだろう。
歌曲特集に割って入る感じで訃報が舞い込んだ。
一昨日8月14日サッカー元西ドイツ代表FWゲルト・ミューラーさんが亡くなった。75歳だという。
1974年ワールドカップ西ドイツ大会で代表を優勝に導いた。決勝のオランダ戦を中学二年の私は、衛星生放送で見ていた。決勝戦が日本で生放送された最初の機会だったとは後で知った。クラスのサッカー部全員がオランダの優勝と言っている中、私だけが西ドイツの優勝を唱え、翌日コーヒー牛乳を独り占めした。1対1からの決勝ゴールを奪ったのが爆撃機とあだ名されたミューラーさんだ。背番号13。翌年3年生になりバスケット部にいた私だが、背番号配布では迷わず13を選ぶほどだった。
「美しき水車小屋の娘」「冬の旅」のテキストの作者はウイルヘルム・ミューラーだったと、無理やりシューベルトにこじつけて冥福をお祈りする次第。
フィッシャーディースカウ先生は大著「シューベルトの歌曲を辿って」の中で、シューベルトへの愛を隠していないが、同等な愛情が伴奏者であるジュラルド・ムーア先生にささげられている。1899年生まれで、1972年に同全集が完成されたときは73歳だったはずだ。彼の記述はわずか5行にとどまっているが、心酔ぶりは明らかだ。「紙幅が許せば、この人の記述に1章をささげるべきだ」「シューベルト歌曲全てについて伴奏経験がある世界で唯一の人物」という感動的な前置きに始まり、その演奏の特質を嬉々として列挙する。
ジェラルド・ムーア先生の伴奏は我が家のささやかなCDのコレクションの中にあっても膨大な量で、相棒の歌手はディースカウ先生にとどまるものではない。
ブラームス歌曲の伴奏においても図抜けた存在だ。ディースカウ先生の掲げた上記の特質は、何もシューベルト演奏に限ったものではなく、ブラームスにおいても威力を発揮していると見るのが自然だ。
レチタティーヴォ についてなら既に述べた。
ブラームスが理想としたナンバーオペラは要所に、独唱、重唱、合唱が配置され、筋の展開をレチタティーヴォが補足する形式だ。オペラを残さなかったブラームスだから無縁の概念だと思っていたが、たった1か所「エーオルスのハープに寄せて」op19-4冒頭に現れると述べておいた。
オペラでは「レチタティーヴォとアリア」みたいな感じで頻繁に現れるのだが、意外にもシューベルトの歌曲にもかなりたくさん現れる。シューベルトの歌曲に実例がたくさんありながら、ブラームスではたった1例であることが大切だ。
ブラームスはこの手の「レチタティーヴォ付歌曲」を好まなかった。少なくともテキストから得たインスピレーションを作品に転換する際の手段にレチタティーヴォを選ばなかったということだ。「有節歌曲」あるいはその変形については、嬉々として追随した姿勢と対照的である。
「Liederabend」と綴られるドイツ語。「歌曲の夕べ」と訳されている。ドイツリートで構成される演奏会に冠せられる。同様に「室内楽の夕べ」「ソナタの夕べ」というようなヴァリエーションも見受けられる。「交響曲の夕べ」「コンチェルトの夕べ」もあるにはあるが、あまり編成の大きい作品ではなじまない気もする。「アリアの夕べ」はありでも「オペラの夕べ」「ワーグナーの夕べ」ではしっくりこない。
なんといっても「歌曲の夕べ」だ。プログラムに朝や昼の歌が入っていてもいい。
独唱者、ピアノ伴奏者が、歌曲数曲を披露するという形式の演奏会が広く一般化するのがシューベルトの時代だという。ドイツの詩人によるドイツ語のテキストにピアノ1台による伴奏を施した作品群が成立することで出現した。当時の第一人者でありシューベルトの理解者であり後援者であり友人であったフォーグルあたりが「歌曲の夕べ」を立ち上げたと見ていい。これに次いで歌曲集を一括して一夜で演奏することを定着させたのがブラームスのお友達でもあるシュトックハウゼンだ。
歌手にとっての仕事場の拡大という視点も見逃せぬ。教会とオペラに次ぐ有力な市場の出現だ。何といってもローコストで会場は小さくていい。いやむしろ小さい方がいい。「歌曲の夕べ」という言い回しにはそのほうがふさわしい。「歌のある室内楽」かも。
開演時間が夕方に限られるのかどうか確認を怠っている。
フィッシャーディースカウ先生は大著「シューベルトの歌曲をたどって」の冒頭で、シューベルトを「歌曲の始祖」と位置付けている。ここでいう「歌曲」とは「ドイツリート」のこと。ドイツ語のテキストで、ピアノ伴奏と独唱という形態の作品群を指すという定義も添えられている。狭い意味での「リート」は「有節歌曲」であったという歴史的経緯にも律儀に言及する。
「歌曲の王」という称号は、中学の音楽の時間に「魔王」を習う際引き合いに出される。何の疑いもなく飲み込んでいるが、何故なのかはあまり解説されない気がする。ましてや音楽史上の位置づけなんぞ顧みられることもない。「ドイツ語テキスト」「ピアノ伴奏」「独唱」という定義を満たす作品が、ベートーヴェンやモーツアルトにも存在することを認めながらなお、ディースカウ先生はシューベルトを「歌曲の始祖」と位置付ける。さらにはドイツリートというジャンルを確立し、その後ブラームスを含む何人かの作曲家がそれに続いたけれど、その中でも「王」だということも、議論の余地なしというニュアンスで断言する。
歌曲を通じてシューベルトの生涯をたどるという同書は、「始祖にして王」の理由を延々と詳述しているとも読める。
今や必携のガイドブックと化した「シューベルトの歌曲をたどって」を読みふけっていて、呆然とした。全490ページの大著なのに、譜例が1か所も無い。ただの1か所もだ。著者フィッシャーディースカウ先生は、シューベルトの歌曲を作曲順にたどっては見せるのだが、論述作品の特定や、ディテイルの指摘にあたって譜例を頼っていないということだ。オリジナルがそうなっているのか、和訳本だけの特徴なのかわからぬのがもどかしい。本文中に譜例の参照をほのめかす記述はないからオリジナルにも譜例が無いと感じる。
同書が解説書でも入門書でもない証拠だ。愛好家に手取り足取りではない。自身がシューベルト全集を録音するにあたり、解釈の参考にと集めた情報の備忘的列挙が主眼なのだ。どの曲のどの場所の論述なのかは本人がわかっていれば事足りるとばかりに、譜例が姿を見せない。
音や、楽譜に頼らずにもっぱら文章と文脈だけで、シューベルトの生涯を網羅しようという決意が見え隠れする。もはや大歌手にして大文筆家だ。興味があるなら読者自ら楽譜なりCDなりを用意しなさいという静かな、しかし決然としたメッセージと見た。
かっこいいと思う。歳のせいだろうか。
ヨハン・ミヒャエル・フォーグル(1768-1840)は、シューベルト歌曲の創作、演奏を語る上で欠かせない人物だ。シュタイアー生まれで、ミュンスターで学んだ。モーツアルトのレクイエムで名高いジュスマイヤーと同窓だという。ジュスマイヤーの推薦で1794年ウィーン宮廷歌劇場と契約し、28年も在籍した。本職はオペラ歌手で、声質はバリトンだ。オペラの世界ではソプラノやテノールに比べるとやや日陰だが、そのことがやがてリートに彼を導いたともいわれている。オペラ上演を聞いたシューベルトがその段階で心酔したとされている。
やがてシューベルトの友人たちは二人を引き合わせるために奔走する。いつも自作を自分で歌ったシューベルトに代わって歌ってくれる存在を求め、白羽の矢がフォーグルにあたったということだ。友人たちが知恵を絞ってコネを見つけ出して近づいた結果、何回かの拒絶はあったものの会見にこぎつけた。
最初に見せたのは「目の歌」D297、つづけて「ガニュメート」D544「メムノン」D541だ。フォーグルはシューベルトの才能に歓喜し晴れてシューベルティアーデの一員となった。
歳の差30歳のこの2人は芸術上分かちがたいコンビになり、その交友はシューベルトの死まで続いた。フォーグルが与えたのは最上の解釈と演奏の他、経済的援助もおしまなかったという。
彼はシューベルト歌曲の重要な演奏者、解釈者であった。有節歌曲ではテキストの進行に合わせてニュアンスを付与するのは当然ながら、楽譜にないアドリブまでもためらわなかったという。それがそのまま楽譜に転写され流布するということも起きてきた。ベートーヴェンの変奏曲に主題を供給したディアベリ刊行の楽譜にはそれらが特盛で、1880年まで売られていたから、シューベルト全集の発刊にあたってそれらの区別は急務であった。
ブラームスの伝記に現れるフォーグルは、「シューベルト歌曲の改竄者」という残念な表現もある。ブラームスはシューベルト全集の出版に際し、原典主義を貫く立場から、シューベルトオリジナルとフォーグルの手による改変を根気よく区別した。モーツアルトのレクイエムにおいてジュスマイヤーの手による補筆とオリジナルの分別を手掛けたことと似ている。作曲とはまた別の才能には違いあるまいが、ブラームスが区別したことでありがたみは数段高まる。
今日8月10日はフォーグルの誕生日だ。
フィッシャーディースカウ先生の大著「シューベルトの歌曲をたどって」を座右に旅を続けている。読み始めてまもなく、あることに気付かされた。シューベルトの生涯をリート作品で辿る旅と宣言している通り、その言及は厳しく歌曲に限られる。「ます」「死と乙女」「さすらい人」の話題になるとき、ごくごく控えめに室内楽やピアノ曲への言及がある他は、他のジャンルに対してストイックに沈黙する。
未完成交響曲だろうと、軍隊行進曲だろうと分け隔てなくスルーされる。ぼんやりと読み進めていると、シューベルトが歌曲だけを作っていたかの錯覚に陥る。
歌手であることの強烈な主張の裏返しだと拝察する。知らぬ者のいない大歌手でありながら、作曲家シューベルトや、テキストの供給者、あるいは伴奏者に対する謙虚な姿勢と相まって、その論旨に強烈な説得力を付加して止まない。
かっこいいと感じる。歳のせいだろうか。
CDでシューベルト歌曲が聴ける女性歌手の中でお気に入りは以下の3名。
フィッシャーディースカウ先生は、訳あって、女声に歌われるべきと考える歌を、全集録音から省いている中、アメリンクさんはフィッシャーディースカウ先生が録音していない作品を6曲も録音してくれている。
バトルさんは以下。フィッシャーディースカウ先生の録音が無い曲はありがたい。そして、それが何故なのか考える参考になる。
白井光子先生はディースカウとの重複が多くて「若き尼僧」ただ1曲だ。
ディートリヒ・フィッシャーディースカウの同業者への視線は、それが先輩であれ後輩であれ、格別に温かいものだ。シューベルト本人やテキストの供給者たちへの愛と遜色ない。著書「シューベルトの歌曲をたどって」の「演奏家」と銘打たれた第10章には、シューベルト歌曲の演奏家たちの手厚い描写になっている。「20世紀以降、シューベルトの歌曲を取り上げたプロの歌手」というのが著述の基準だ。そこにネガティブな表現は見られない。
ブラームスとの関係で申すなら何はともあれユリウス・シュトックハウゼンだ。彼に対する愛情あふれる記述は脱線を挟みながらかれこれ3ページに及ぶ。弟子まで入れればその影響は絶大だとわかる。
やがて、現在のショップで入手可能な演奏家も増えてくる。ネガティブな表現はないので「おすすめ歌手」が盛りだくさんになる。
章末になると、レコードが誰にでも入手できて、読者が直接確認可能になるという前置きに従って、おずおずと同時代の優秀なシューベルト歌手が列挙される。以下に一部を掲げる。
本当に本当に冷静で簡素な語り口に感心する。本来この系統のリストの筆頭に書かれていてもおかしくない人なのに。歌唱と著述の「二刀流」である。
アメリカはニューヨークに本社を置く世界最大の製薬会社。「ファイザー」と発音されてはいるのだが、スペリングは標題の通りだ。
怪しい。ドイツっぽい。
案の定創業者チャールズ・ファイザーはドイツからの移民だった。本名は Karl Christian Friedrich Pfizerという。チャールズはKarlの英語表記かと納得。彼はシュトゥットガルト近郊のルートヴィヒスブルクに生まれた。1824年3月22日のことだ。薬剤師として修業していたのだが、25歳1848年に米国に移住した。タイミング的に三月革命挫折に失望しての移住かと。
翌年父から借金してチャールズファイザー社を設立。これが現在まで続くファイザー社の起こりである、
本日は歌曲ともシューベルトとも関係がない。
そうそう私自身が二度目の新型コロナワクチン接種を終えて副作用もなく3日経過した。ファイザー社製造のワクチンであった。
1971年8月5日。亡き父は小学校6年生の私を鎌倉に連れて行ってくれた。私にとっては生まれて初めての鎌倉だ。
徒歩と江ノ電。父はまだ30代半ばだから、暑さも全く苦にならなかった。元々父は歴史好きで、日本史の名場面を見てきたように話して聞かせててくれたものだ。長男の私が歴史に興味があると知ってたいそう喜び、歴史トークは日常だった。鶴ケ丘八幡宮で公暁に襲われて落命した源実朝の話をいったい何度聞いただろう。実際に現地を訪ねて大銀杏の現物を見て寿福寺に墓参するのがメインだった。
あれから今日で50年だ。記事の枯渇が実朝の祟りかもしれぬと書いた 。だから供養代わりの記事。
第二次歌曲特集の本丸「シューベルトの歌曲を辿る旅」のガイドブックは、ディートリヒ・フィッシャーディースカウ先生の大著の全訳で、490ページという厚みだ。歌曲を通じてシューベルトの生涯をたどるというぶれない柱に、テキストの供給者への愛が加わる。全11章の8番目で主人公シューベルトが没する。その後、「死後」「演奏家」「今後の見通し」という3つの章が延々47ページ続く。およそ10%が没後の話である。当時としても早世だったシューベルトの死後、その作品がどう受容されたかにかなりのスペースを割く。
ブラームスへの言及全15回はそうした受容史のエポックとしての記述に集中する。だからブログ「ブラームスの辞書」上で延々と引用が続くということだ。
「死後」の章がそうした受容史を記述した後「演奏家」の章では、著者ディートリヒ・フィッシャーディースカウ先生と同世代、厳密には執筆時の現役世代の歌手たちが、シューベルト演奏の切り口で列挙される。最終章「今後の見通し」は、この先も人々はまだまだシューベルトでっせという予言だ。シューベルトの本質を旋律だと断言する様は、文字数を費やすことこそないものの説得力の塊だ。
ディートリヒ・フィッシャーディースカウ先生がグラムフォンに録音したシューベルト歌曲全集を、探索の音源にしていると書いた。その録音の準備を通じて堆積した情報が書籍「シューベルトの歌曲を辿って」に結実した事情も既に述べた。全集と銘打っていながら、実はシューベルトの歌曲全てを録音していない。フィッシャーディースカウ先生がテキストを検証し、未完のもの、明らかな習作、偽作、あるいは男声で歌われるべきではないと判断した作品が控除されている。明快な基準があったに決まっているが、出来上がった21枚組の収載リストだけを見ていても落選組の実態がわかりにくい。
そこで音楽之友社刊行の作曲家別名曲解説全集「シューベルト」巻末の作品リストを参考にしながら落選組の実態把握を試みることにした。独唱歌曲の総数は573曲ある。フィッシャーディースカウ先生はこのうちの406曲を全集に収載しておられる。167曲が落選しているということだ。探索の音源などとはしゃいではみたもののおよそ3割も抜けているということだ。
落選組をざっと眺めるのも興味深い。
とりわけ興味深いのは「男声に歌われるべきではない歌」という基準だ。タイトルだけから判断しても「女子の立場から歌う恋の歌」「母の立場の歌」などが抜けていると感じる。「糸を紡ぐグレートヒェン」D118の落選を見てもシューベルト歌曲としての知名度や重要度が物差しになっていない気がする。この167曲にもふさわしい音源が必要な気がしてきた。
シューベルトの「白鳥の歌」を「歌曲集である」と認めるか認めないかの論争 があると書いた。ブラームス最晩年の時点でこのような論争があり、「認めない」派のブラームスは分が悪そうだと心配した。
さて書籍「シューベルトの歌曲を辿って」の中で御大ディートリヒ・フィッシャーディースカウ先生はどのような見方をしているかまとめておく。
先生はまず同曲集の成り立ちをテキストの供給者をキーに以下のように分類する。
上記1は本来ベートーヴェンに作曲を依頼したものだが、巡り巡ってシューベルトに回ってきたもの。だからシューベルトがそれれらを連作歌曲の中に組み入れる気でいたとある。同様にシラーのテキストによる上記2もこれに数曲を加えて独立した連作歌曲にするつもりだったという。だからシューベルトがもう少し長生きしていたら、レルシュターブ作とハイネ作の2つの連作歌曲集が誕生していた公算が高いが、どちらもタイトルが「白鳥の歌」になっていた可能性は低い。
残念なことにシューベルトはこの世を去り、兄フェルディナンドと出版社ハスリンガーの協議により、上記1~3がまとめて出版され、何の関係もない「白鳥の歌」というタイトルまで付加された。
フィッシャーディースカウ先生の分析は以上だ。
連作歌曲集に仕上げる気はあったが現在流布する「白鳥の歌」という形態はシューベルトの意志ではないと読める。
これらをまとめて演奏することの意義を疑うブラームスにも一理ある。
シューベルト三大歌曲集のラスト「白鳥の歌」の話。同歌曲集に先行する「美しき水車小屋の娘」や「冬の旅」と違って、作曲者シューベルトが歌曲集という体裁に関与していないという話をしてきた。
音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第二巻194ページにホイベルガーの証言する興味深いエピソードがある。1896年12月12日とあるから、ブラームスが没する4ヶ月程前のことだ。
話題は例の「白鳥の歌」だ。とある歌手がそれをまとめて演奏するという噂を聞き、ブラームスがヘソを曲げたという。「白鳥の歌」はまとまった歌曲集ではないというブラームスの持論に反するからだとはっきりと書いてある。「かのシュトックハウゼンもまとめて演奏しましたが」という反論には「奴はちっとも言うことを聞かないから」とバッサリだとも書いてある。これらを書き留めたホイベルガーは、自分の意見を述べることなく、楽友協会司書でシューベルト全集歌曲部分の編集主幹であったオイゼビウス・マンディチェフスキーの言葉をじっと引用する。
「自筆譜からはシューベルトが歌曲集をひとつのものとして考えていたことが読み取れる」とある。
歌曲集「白鳥の歌」には当時論争があったということだ。多数決的にはブラームスは分が悪そうだ。
最近のコメント