フォーグル
ヨハン・ミヒャエル・フォーグル(1768-1840)は、シューベルト歌曲の創作、演奏を語る上で欠かせない人物だ。シュタイアー生まれで、ミュンスターで学んだ。モーツアルトのレクイエムで名高いジュスマイヤーと同窓だという。ジュスマイヤーの推薦で1794年ウィーン宮廷歌劇場と契約し、28年も在籍した。本職はオペラ歌手で、声質はバリトンだ。オペラの世界ではソプラノやテノールに比べるとやや日陰だが、そのことがやがてリートに彼を導いたともいわれている。オペラ上演を聞いたシューベルトがその段階で心酔したとされている。
やがてシューベルトの友人たちは二人を引き合わせるために奔走する。いつも自作を自分で歌ったシューベルトに代わって歌ってくれる存在を求め、白羽の矢がフォーグルにあたったということだ。友人たちが知恵を絞ってコネを見つけ出して近づいた結果、何回かの拒絶はあったものの会見にこぎつけた。
最初に見せたのは「目の歌」D297、つづけて「ガニュメート」D544「メムノン」D541だ。フォーグルはシューベルトの才能に歓喜し晴れてシューベルティアーデの一員となった。
歳の差30歳のこの2人は芸術上分かちがたいコンビになり、その交友はシューベルトの死まで続いた。フォーグルが与えたのは最上の解釈と演奏の他、経済的援助もおしまなかったという。
彼はシューベルト歌曲の重要な演奏者、解釈者であった。有節歌曲ではテキストの進行に合わせてニュアンスを付与するのは当然ながら、楽譜にないアドリブまでもためらわなかったという。それがそのまま楽譜に転写され流布するということも起きてきた。ベートーヴェンの変奏曲に主題を供給したディアベリ刊行の楽譜にはそれらが特盛で、1880年まで売られていたから、シューベルト全集の発刊にあたってそれらの区別は急務であった。
ブラームスの伝記に現れるフォーグルは、「シューベルト歌曲の改竄者」という残念な表現もある。ブラームスはシューベルト全集の出版に際し、原典主義を貫く立場から、シューベルトオリジナルとフォーグルの手による改変を根気よく区別した。モーツアルトのレクイエムにおいてジュスマイヤーの手による補筆とオリジナルの分別を手掛けたことと似ている。作曲とはまた別の才能には違いあるまいが、ブラームスが区別したことでありがたみは数段高まる。
今日8月10日はフォーグルの誕生日だ。
« 言及の範囲 | トップページ | 譜例無しという緊張感 »
コメント