ブラームス神社

  • 道中安全祈願

おみくじ

  • テンプレート改訂しました

独逸日記

  • ドイツ鉄道博物館のおみやげ
    2012年3月28日から4月4日まで、次女の高校オケのドイツ公演を長男と追いかけた珍道中の記録。厳選写真で振り返る。

ビアライゼ

  • Schlenkerla
    自分で買い求めて賞味したビールの写真。ドイツとオーストリアの製品だけを厳選して掲載する。

カテゴリー

« 時計回り | トップページ | 帝国議会 »

2022年1月15日 (土)

アウスグライヒ

「Ausgleich」と綴るドイツ語。辞書を引くと「調整」「妥協」「調停」「和議」という訳語並んでいるが、歴史用語として使われる場合がある。ハプスブルク帝国の転換点のことを指す場合「和協」という言葉か特別にあてられる。

ブラームスの生きた時代、とりわけ1848年のメッテルニッヒ失脚以降、どうもハプスブルク家は旗色が悪い。プロイセンの台頭、とりわけビスマルクの登場により拍車がかかった感じがする。

イタリアに独立され、デンマークから手を引かされ、普墺戦争に負けて、多民族国家の弱点が次々と表面化する。領内でドイツ人の次の勢力だったマジャール人が分離独立を志向することで、帝国の維持がどうにも怪しくなる。その場面で採用された政治的妥協のことを後世の歴史家は「アウスグライヒ」(和協)と呼んだ。マジャール人との妥協だ。

帝国はオーストリアとハンガリーに二分し「オーストリアハンガリー二重帝国」となる。オーストリア帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世を王に戴きながらハンガリーは独立の政府と議会を持つことになる。軍事・財政・外交だけが共通事項とされたほかは、独自に大臣を持った。蔵相や外相がハンガリー人だったこともある。帝国内においてハンガリー人はドイツ人とならぶ特権階級になった。1867年の出来事だ。后妃エリザベートのハンガリーへの肩入れもあって、ハンガリーの地位が大きく向上した。

ブラームスの出世作ハンガリー舞曲第一集第二集の出版が1869年なのはけして偶然ではない。そしてその楽譜がベストセラーになったのは帝国内におけるハンガリー熱の高まりを考えるともはや必然という気もしてくる。

 

 

« 時計回り | トップページ | 帝国議会 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: アウスグライヒ:

« 時計回り | トップページ | 帝国議会 »

フォト

ブラームスの辞書写真集

  • Img_0012
    はじめての自費出版作品「ブラームスの辞書」の姿を公開します。 カバーも表紙もブラウン基調にしました。 A5判、上製本、400ページの厚みをご覧ください。
2025年3月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
無料ブログはココログ